#04 『カササギ・シンクは何処にもいないよ』
来世は羽毛布団がいい。
厳かな黒一色に染まった夜の海が、崖沿いの道からよく見渡せる。
丁度真紅が来た森のすぐ横にあるトンネルの近くで、一台の銀色のワゴン車は助手席のドアを開けて道の端に停車していた。
「あの……頭より先にコッチの方を……」
「ダメ。それが刺さってるおかげで止血できてるんだよ。傷口が開いてるコッチから処理しないと」
「けどその、めちゃくちゃ痛いんですよコレ」
「ダメ。今終わるから少し待っててってば」
「いやでも……ッ!……いて……いてててて……!」
先程からの辺りの騒がしさは一転。どうやら彼らは街の外れまでとにかくひとっ走りしたようで、周囲に民家や人影はどこかしこにも見当たらない。逃走には辛うじて成功したようだ。
「――よし。はい、こっち終わり。じゃあお望み通り外すよ」
「わっ、ちょっ、ゆっくりお願いしますよ!ゆっくり!」
助手席に寄り掛かってオドオドと何かに怯える真紅は、その向かいに屈んだ女性にあたふたと細かい注文をつける。向かいの女性の手には〝少年の腹部に刺さった何か〟の取っ手が握られていた。
「わかってる。ほら、息吐いて」
「フーーーッ…………!ぁぐゥッ!!」
「はぁ……ったく、情けないんだから……もっとらしくしてよ、らしく」
ポイ、と無造作に血塗れのドライバーが地面に転がり落ちた。
同時に塞がっていた傷口から再び血液が噴水のように飛び出てきて、その明らかな絵面の酷さに真紅の精神は今にも駄目になりそうである。
急いで包帯やガーゼで出血口を塞ぎながら、女性は手際よく怪我の治療を済ませていった。
「……うん、大丈夫そうかな。辛うじて躱せたみたい」
「思い切りぶつかられたんですけど……」
「君のことじゃないよ。胃腸と腎臓の話」
呆れたようにため息をついて、最後に包帯を脇腹のあたりで強く縛る。「いてっ!」と苦悶の声を漏らしながら、滲んでくる腹部の痛苦を真紅は唇を噛んで涙目になりながら堪えた。その端で一仕事終えたように女性は車内のタオルで汗を拭く。真紅の頭部には既に包帯が巻かれて、その他の怪我の止血も完全に済ませてあった。
――真紅が住民に襲われてから、そこまで時間は経過していなかった。どうやら彼らはあのバケビトたちから逃げてきたばかりのようで、後部座席にはまだ熱の残った機関銃が弾倉を外して立て掛けられている。
その横には真紅には到底見慣れないグレネードランチャー(?)的なものや狙撃銃(?)的なものまで、銃刀法違反どころか兵器密輸というレベルの数の実銃や武器が積み込まれていた。確証とまではいかないが、どうやらこの女性は陸上自衛隊や軍人といった訓練経験のある〝プロ〟のようだ。あの豪快な射撃っぷりと華麗すぎるドライビングテクニックは、最早世の一般成人女性が修得できるようなお役立ちスキルとは遠くかけ離れている。
真紅の立場からすれば、この人もこの人でなかなかそれなりに化物のように見えなくもなかった。
その女性は、大方〝二十代前半〟といったところか。
あまり歳が離れた顔立ちには見えないが、それでいて大人びた様子も垣間見える。
服装は迷彩柄のタンクトップと防弾ベスト、そして作業場の工務員が履きそうなダボダボのサルエルパンツ(?)を履き、頭には黒と緑の入り混じった迷彩柄の帽子を被っている。髪型はポニーテールで、まさにアウトドア派の運動女子、といった容姿。ナイフと拳銃はホルダーにセットしてしっかり常備し、肩からライフルを紐で垂らしていつでも戦闘態勢の準備ができている。
普段こんな姿の女性になんて滅多に出会わないが、話し掛け易い外見とその溌剌とした性格からして、あまり悪どい人物像にも感じられない。人見知りの過度に強い真紅も、いつの間にか女性の雰囲気やペースには自然と順応していった。
「なんかその……有難うございます、わざわざ助けに来てくれて、それで、傷まで処置してくださって」
「礼には及ばないって。それが仕事だもの」
人一倍肝が座った女性なのか、それとも馴れと技術から来る態度なのか――真紅の丁寧な謝礼にも別に大したことないようにクールに対応する。少なくとも、一回や二回こういった状況下から人間を救ったような人の佇まいじゃない。多分もう、この数時間の間だけでもあのバケビトとは幾度と交戦を重ねているのだろう。
証拠に腕には引っ掻き痕のような模様が幾つも残っていた。
そして、あの武器の量や〝仕事〟と豪語する彼女の姿勢。それを見る限りでも、何というか、彼女には〝既に数時間以前に何日も前からこの事件が起きることを認知していた〟かような、そんな余裕と行動力がチラホラと感じ取れる。
もしかすると、真紅も知らない機密組織や軍隊のエキスパートか何かであるのかもしれない。立場や境遇は未だ謎の多い女性ではあるが、この人なら色々知っていることも多そうだ。
――聞くだけ聞いてみよう。
一日足らずで得られる手掛かりは無に等しい以上、他人の口コミなんかを元に解決の糸口を探る努力は絶対不可欠。
とにかく今は小さな手がかりでも無駄にはしたくない、真紅の中で浮かび上がった僅かな知識欲が彼を後押しして、思い切って少年は一つ軽く質問を投げかけてみることにした。
「その……国家機密とかならあまり聞かない方がいいのかもしれませんけど……」
「?」
女性は首を傾げた。
「貴方はあの化物が……一体何なのか知ってるんですか?」
真紅の遜った質問に、顎に手を当てながら小さく唸り声を漏らす女性。進展アリ、だろうか。
数秒悩む素振りを見せて、ひとつ結論付けたように目線を元の位置へ戻した。
「……知ってる、と言えば大体嘘になるかも」
「……?」
あまり文脈が浸透してこなかった。YESともNOともとれないその言葉に、真紅はポカンと口を開ける。
そんな真紅を横目に、女性はガードレールに寄り掛かって缶コーヒーのプルタブを引き、神妙な顔で一口苦味を摂取した。
「…………ホントに表面程度のことしか知らないから、あまり納得できるような説明じゃないかもしれないけど――」
一度台詞が途切れた。そして雲しか浮かばない空を仰ぎ見て、苦笑したように口元を綻ばせながら女性は次の言葉を紡ぐ。
「――あの化物は、簡単に言えば〝人間もどき〟ってとこ」
「……〝人間もどき〟?」
もどき。人間というワードにそんな言葉がつくこともあったとは。真紅は微かに目を見開きながら、同じ単語を口からリピートした。
「そ、〝人間もどき〟。彼らは…………普段は〝普通の人間らしく〟生活してる。私たちがいつも何気なく過ごすみたいに。普通にそれらしい会話もするし、普通にスーパーで買い物もするし、普通に君みたいに学校だって通う。当然スポーツだってテレビゲームだってする。それだけなら何も私達とは変わらない生き物なの」
「実際君も見たでしょ?彼らが〝普通に〟生活する様子」
「……………………!」
そういえば、と思い返したように真紅は二度ほど頷きを繰り返す。
確かにあの中年の男性――〝第1バケビト〟は初めは何の気なく自分と会話していた。できていた。後々不信感こそ奮わせてはいたが、当初真紅に声をかけてきた時点ではまだ〝人間らしい〟振る舞いをしていた記憶がある。
そしてあの一軒家にいた主婦――〝第2バケビト〟でさえも、間違いなく出会す前は〝人間のように〟怒り狂っていたし、〝人間のように〟困惑した表情を浮かべていた。
それもこれもあれもどれも、全て変わったのは〝真紅と確実に対面した瞬間〟。少年と遭遇するまで彼らは、しっかりと個々の自我(?)は保っていたのだ。
「けれど、私たちのような〝本当に普通の〟人間を見つけると、唐突に敵意を剥き出して容赦なく襲い掛かってくる。あわよくば殺しに来る勢いで――いや、本当に一度殺しに来てるのかもね。それが子供だろうが老人だろうが女性だろうが関係なく――」
「――〝違う〟僕らを、自分たちと〝同じ〟にしてくる……」
「そ。あのでっかいもう一本の腕を振り回して、所構わずバックリガブガブと。良かったねー、まだ噛まれる前で」
その女性の生々しくリアリティのある表現に、少年の身体はブルッと身震いした。
今思い出しても気色の悪い、あの血みどろで牙の生えた穢らわしい〝第三の腕〟。あれに一度でもやんわり触られたと思うと、どうしようもない位に吐き気がしてくる。
グロやホラーは映画や小説の描写で馴れていたつもりだったが、どうやらリアルで体験するのはCG以上に根性が要るらしい。見た目も臭いも音もイメージも、何もかもが作品とは格別なものだった。
「もしかしてあの〝腕〟って……作品のゾンビやアンデッドみたいな……感染で広がるウイルスなんかが関係しているんですか?噛まれて彼らと〝同じ〟になるって……とてもじゃないですけど、それくらいしか例が思い付かなくて……」
「…………生態や仕組みについてはまだ全くヒントは得られていない。けど、確かにその考えは否定はできない。ただでさえもう既に――」
「――世界中でパンデミックになっている位だから」
瞬間、ゾワッと背中で冷たい何かが持ち上がった。
「――パッ、パンデッ!?」
「シッ、あまり騒がないで」
思わず驚嘆した。
興奮してつい我を忘れ大声を出す真紅を、女性は厳格な表情で瞬時に宥める。
しかし真紅自身はどうにも驚愕が心中に収まることを知らず、目を大きく見開いて鳥肌を立たせながら呆気にとられたように女性に視線を向けた。
――まだ一日も立っていないのに、世界規模にまで事が広がっている!?
たった数時間で。たった一夜、いや半夜で。
どうしていきなりそんなことになっているんだ。あそこの集落だけそうなってしまったわけではないのか。
ニュースにだってそんな大事は放送されていないだろうし、ましてや近所で避難勧告が出ていたわけでもない。何の予兆も通報も受けてはいないのだ。間違いなく事態が一変したのは〝この数時間の合間の出来事〟なのだ。
それなのに既にこの街以外にも――いや、今思えば、森に向かう際はあの集落にはいつも通り自分と同じ〝人間〟がいたし、全くそれらしい事件の気配も感じられなかったではないか。
なのに、なのにどうしてこの短時間で此処はそんなことに――日本は、世界は、地球は、そんな危機的状況に陥っているんだ。
「じゃ、じゃあ自衛隊は!?政府は!?国連はなんと発表しているんです!?」
「落ち着いて。君、通信局が被害を受ける前のニュースを見なかったの?その時点ではもう、私たちの国連は彼らの魔の手に落ちてる。自衛隊だって恐らくもう今では〝有って無いモノ〟だし……この調子なら国会の人間も皆バケモノ議員として〝いつも通り〟働いてるだろうね」
「そんな……!嘘だ……!そんなニュース聞いてもないし、何より一晩で世界の最高機関までもが陥没するなんて……そんなのあり得るはずがない!たとえどんな怪物だろうがウイルスだろうが、この短時間でここまで――」
「〝一晩〟?何を言ってるの?」
焦燥とする真紅の言葉と言葉の隙間に割って入るように、女性は突然懐疑する。それに呼応するように、真紅も真紅でその懐疑に懐疑する。し返す。
だが、その意外すぎるタイミングと指摘のポイントに――
「――……?」
――困惑する台詞すら詰まって喉から出てこなかった。
「記憶違いかもわからないけど――」
そこまで言って、ふと女性は懐から何かを取り出して、真紅の目の前にそれを見せつける。細かい文字や派手な写真が羅列した、謎の紙状の媒体だ。
それに声で反応する猶予も暇も与えられず、強制的に少年の目線だけがそちらへと向けられる。
と、同時に。
「――この、パンデミックはもう」
彼の発言が、感情が。
「一年前に始まってるよ?」
一切の言葉が封じられてしまった。
「――ッッッッ!?!?」
そんなバカな。そんな馬鹿な。馬鹿な馬鹿な馬鹿な、馬鹿なバカなばかな。
真紅の脳内が、真紅の精神が、真紅の理性が、再び混乱の渦に掻き回されていく。
そのチラシのようなカラー印刷の用紙、その正体は、パンデミックについて記述された英字新聞――内容は、去年十一月に米国の空軍が没落したという絶望的な記事であった。
「あの集落……いやこの上薙市だって、もう既に数ヶ月前には完全に化物に占拠された。隣接した市町村もそのくらいの頃には同じ巣窟と化したんじゃないかな……少なくともこの近所でもうパンデミックに巻き込まれていない地域はどこにもないね」
「そんな……あり得ない!一年前って…………だって僕は今日なんか、友人と昆虫採集しに出掛けたばかりなのに!?」
「落ち着いてってば。夢想か何かだったんじゃない?」
「夢じゃない……!夢だったなら今も続いてる!間違いなく僕は今日、〝普通に〟生活していた!!」
自然と荒い息が歯の隙間から吹き抜けていく感覚。
必死に、自分の見てきたこと、聞いてきたこと、体感してきたことを事実であると少年はアピールする。しかしどうにも先程から、真紅の発言と女性の発言は完全に大きくすれ違っている。
全く噛み合わないその時間感覚と時事の状況は、真紅の困惑をさらに紛らわしく雁字搦めにさせた。
「どういうことさっぱりなのだけれど…………えっと、君、名前は?」
「……えっ?」
「そ、名前。あ、出来れば年齢も一緒にお願い」
混乱する真紅の苦悩を他所に、女性は何やら手帳のようなものを取り出すと、突然未だ伝えていなかった真紅のフルネームを要求した。
一瞬何のために聞いたのか戸惑うが、とりあえず今後のためにも話しておかざるを得ないと真紅は大人しく口を開く。
「笠鷺……真紅、高校二年の十七歳です」
「カササギ…………シンク……珍しい名前ね…………カササギ…………カササギ…………あぁ、もしかして君って――」
ペラペラと何か探すように手帳のページをめくって、一通り目を通した後、何か察したように女性は閃いた表情をこちらに見せた。
「――遠方から来たばかり?」
「――え?」
拍子が抜けたような声が、真紅の口から意図せず漏れる。
「ということは少なくとも君のいた地域はまだ安全、ってことね。まだその周辺には事件の情報が行き渡ってないのかな……それも変な話だけど。そこはどこ?教えてくれれば、すぐにでもその友人とやらも――」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
突然別方向かつ誤った情報から発展した話題に、真紅はすかさず待ったをかける。
いきなり話題が全く違う方向に逸れ始めた。
「遠方からって……僕はこの街のアパートの住人ですよ!?高校に入学してからずっと使ってるし、ちゃんと大家さんとも知り合ってるし、それにほら――合鍵だって持ってる!」
「………………?何を言っているのかわからないけれど――」
まさに?マークが頭上に現れているが如く。
これは本気で理解できない様子――不審そうに小首を傾げながら、女性は手帳の目次欄のようなページの表面を真紅にグイと向けて。
「――これ見てみなよ」
そのままその紙面へよく目を通すよう目線と言葉で促した。
「……?」
その動作にまたもや釣られるように、真紅は大量の文字列にじとりと目を向ける。
勿論――初めは理解出来なかった。そこにはただただ複数の名前の数々が連なるだけで、何の手掛かりもヒントも垣間見えなかった。だが、しかし。
「これは、この上薙市の住民票の記載をまとめたもの。この辺りに住んでる人の名前と年齢、住所なんかも全部ここに残されてるの。これさえあれば生存者の身元を確認できると思ってね」
「そ、それが?」
――それを告げられてから数秒おいて。
「――君の名前――」
「――カササギ・シンクは何処にもいないよ」
この女性の一言で、真紅はようやく危機を理解した。
「――えッ!?」
ドキンと心臓の奥が一回跳ねる。
自分の名前が、ない――!?!?
不可解な出来事に不可解な事象がもう一つ、また一つと連なって、真紅の思考は激しくオーバーヒートし始めた。
確かに、その目次には〝カササギ〟の記名はどこにもない。
何度カ行を見返しても、何度見方と順番を変えてみても、紙面には消した形跡すら全く視認できなかった。
ついには半ば強奪する勢いで手帳を受け取り、次のページまた次のページと目を走らせていくが、やはり該当するキーワードは一切合切確認不可。
笠鷺真紅はどういう訳か、上薙市の市民として認められていなかったらしい。
「こ、この情報を手に入れたのは!?いつ、どこですか!?」
「つい先月だね。深夜に市役所で警備員を殺して入手したの」
「き、記入漏れとかは!?どこか見落としていたりしたら!!」
「無いね。もともと盗んだ資料の名前と住所だけ自分なりに纏めたモノだし。何なら、車の中に実物があるからそれと比べてくれても構わないけれど?」
完璧な対策。その女性の言葉には信憑性がありすぎた。だからこそ、こうして真紅はさらに恐るべき事態に惑わされる。
あり得ない。あり得なさ過ぎる。あり得なさ過ぎる筈なのだ。
絶対に住民票の写しを貰うときはあの市役所を使っていたし、学校にだって〝カササギシンク〟の名義は通っている。
決して自分が上薙の市民と認められていない訳がないのだ。絶対に〝自分はここに住む一人暮らしの平凡な高校生〟なのだ。
なのに、なのになのになのに。それが、それが一体いつからこんなことになったんだ、なぜこんなことになっているんだ。どうしてこんなことが起きてしまっているのだ。
次々と連鎖する数々のパニックは、不安定な彼をさらに窮屈に苦しめた。
――そんな……嘘だ……嘘に決まってる!
自分の住んでいるはずの街に、自分の存在する証拠がない。これでは今まで見てきたものも聞いてきたものも、何もかも証明することができない。
そして何より、これではもう自分の帰る場所がないではないか。気づかぬ内に急変していく事態と情報に、真紅の心理は目まぐるしく狂乱する。
一年前に既にパンデミックが発現していただとか、自分の身分証明の証拠がどこにもないだとか、国連が陥落しただとか、街は生きる屍だとか。不明瞭かつ内容のバラバラな問題が同時に起こりすぎて、もうどうにも説明付ける余地が見当たらない。
これは本当に事件なのか?これは夢なのではないのか?これはなぜ今になって起きているんだ?これはどうしてここまで食い違っているんだ?これは一体何を意味しているんだ?これはなんでこれは何故これはどこからこれはこれはこれはこれはこれはこれは――
混沌に陥る感性を振り回して、再び事の発端を思い浮かべる。と共に、ギリ、と真紅は力強く奥歯で歯軋りをした。
全ての異変の始まりは――あの親友である樹の消失。
そして、不可思議な強い耳鳴り。
もう〝科学的に有り得ない〟だなんて逃避的な考え方にも囚われない。
そう、あれから全てがおかしくなり始めたのだ。
あれさえなければ、あれさえ起きなければ、真紅の日常は一つも変わらない筈だった。なのに、なのになぜあんな唐突に。なんでわざわざ自分の親友に。どうしてこうして自分に――!
真紅の中で、徐々に理不尽への憤りが芽生えてきた。
フツフツと体温が上昇してきて、握った拳から手汗が少しずつ湧き出る感触。とても熱くて、それでいてとても冷たい。憤怒のあまり、全身の神経が僅かに麻痺でもしたようなそんな冷静さの欠片もない心境と脳内。
こんなところで怒ってなんともならないのはわかっている。ムキになって状況が打開できる筈がないのも承知の上だ。
でも、それでも怒りはさらにぐるぐると暴走を続け、全身の筋肉を力ませるくらいに激しいものへと変わっていく。それでもその思いは、自分の集中をさらに乱し、掻き回し、跡形もなく崩していく。
とても抑えられるような、いや、抑えようと思えるような気分じゃなかった。どうしてもこの怒りだけは、何かに、どこかに、誰かにぶつけたかった。
なんで、なんでなんでそんなことに。なんでなんでこんな事態に。なんでなんでそうまで大事に。なんでなんで僕はそんな目に――!
途方もない怒気がぶくぶくと増幅する。
手帳を握る手が次第に強く大きいものになり、ページの端に微かにじんわりと手跡が残されていった。
唾を飲み込んで後味に残るのは、数々の理不尽に楯突く興奮と、何ともしようがない自分に無念を感じる虚しさと。そんな負の感覚ばかりが己の内で繰り返されて、繰り返されて、真紅の思慮はより荒波へと揺れ方を変えていって――そして、そしてそして――
「――………………?」
ピタリ、と。
瞬間、乱雑に手帳を読み漁り終えた辺りで、何故か完全にストップした。
あれっ。
開眼した目付きのまま完全に硬直する表情。
影に埋もれた冷たさから一転した顔色と、妙に鋭く透き通った瞳。突然、真紅の加熱した精神がクールダウンした。
――ちょっと待てよ。ちょっと待てよ。
何か思い出したように再び手帳のページを戻して、また1から全てを見返してみる。
ぺらり、ぺらり、と不自然に素早いページの進み方を見て、女性は不審そうに少年の様子を見つめていた。
対するその少年といえば、何やら別の興奮が湧き出てきたようで、全く忙しない手の動きが止まらない。少しも焦りと不安が隠せない様子で、手汗と掴む力でよれたページを再びテキパキとめくる。めくり続ける。
――どうして。どうして――?
真紅の脳内に浮かび上がったのは、何とも面倒なものながら、新たな疑念と連なる伏線、ただそれだけ。しかし、それは決して真紅をさらに混乱させるほど悪どいものではないらしい。
そう、それはもっと別の、僅かに進捗したような感覚の残る、より明快な手掛かりとなる答え一歩手前のような〝何か〟。
真紅の中で一つだけ重い扉が開いたような、そんな微かな進歩と達成感。
間違いなく、確かな真理に近付けるキーがその先にある。真紅の好奇心と欲望が、例え焦燥に駆られようとも無意識にそれを求めて細かく指を動かしていた。
果たして、何が彼を叩き起こしたのか。一体何が、こんな展開を招いたのか。
その真髄は、とても単純なものだった。
――いいんだ。僕のはまだいい。なかなか納得いかないけれど、どうしても解せないことだけど、それでも現実を受け止めなければ現状はどうすることもできる筈がない。だから、自分の問題は素直に、安直に、逃げずに受け止める。けど。だけれど。
――どうしてイヅキの名前まで無い――?
そう、それはまさに皆無。〝当たり前〟が、またもや消失している。
確かに――その目次には親友・樹――だけではなく、その家系、与ヶ島の姓を持つ一家の名義が一人も表記されてはいなかった。
真実の証拠として、見付からない消し跡や流れるように自然な筆記体――やはりミスで抜け落ちたような様子でもない。
ページを見渡す以上、〝ヨ〟から始まる名字は例え三人家族の〝与ヶ島〟が追加されてもたった八件しか存在しない上に、今あるそれらは全てこの街とは違う別の地域に位置する住所だ。市名以外キーワードが一掠りもしていない限り、ここまで大胆に書き違える可能性は急いでいようが何でいようが極めてゼロに等しいだろう。
――ちょっとまってちょっとまってちょっとまって。
そして、事はそれに限る話ではなかった。
驚愕。そこには――与ヶ島家どころか、誰一人〝知り合い〟の名義が見付からないではないか。
すぐ近所に住む高校のクラスメートの名前も、森に隣接した神社に暮らす神主の名前も、頻繁に利用していた定食屋の店主の名前も、バイト先の心優しい頼れる店長の名前も――その目次には、真紅の記憶に思い当たる固有名詞が一つも存在していなかった。
それは意図的に削除されたというより、ましてや見落としで省かれてしまったというより――やはり与ヶ島家同様最初から自然とそこには無かったような背景が感じられる。
初対面であんな状況から助けられた故に、とてもじゃないがここまで彼女が巧妙にかつ繊細に隠蔽できるとも考え難い。
一人や二人ならまだ考慮できたが、この見付からなさ加減はあまりに調べ切ったにしては〝多すぎた〟。
――これって、これって一体どういう――
「こッ!?」
そこまで考えたところで、グイッ、と唐突に真紅の体が女性の方へ引かれて、思わず少年は悲鳴を漏らした。
唐突のうつ伏せ状態。訳もわからず、ましてや状況の説明もなくいきなり口を手で抑えられて、真紅はモゴモゴと状況の説明を要求する。
「シッ!!」
警告。女性が警戒した様子で、真紅に伸し掛かるように車の影に身を潜めていた。
どこか切羽詰まった表情で真紅の口元を無理矢理閉ざし、自身も静かに息を殺す。その目線はただトンネルの先だけを密かに見据えていて、とても集中した顔色だ。
何か、とても言い表せないような危険な予感がしたらしい。真紅も何となく空気を理解して、直ぐ様呼吸を安定したものに整えた。
「――!!」
しばらくしてそのワゴン車の横を、一台のトラックが悠長に通り過ぎた。その普通過ぎる通過の仕方と何気ない余裕。背面に運送業車のマークが付いている辺り、恐らくバケモノが〝人間らしく〟配達の仕事を済ませているのだろう。
真紅があと少しでも抵抗していれば、危うく彼らの存在が再び奴らに露見するところだった。
「――まだ化物にも働き者はいたみたい」
トラックが見えなくなったのを確認して、女性は真紅を抑える腕を離した。
解放と同時に大量に溜めていた二酸化炭素を吐き出す少年。
微かに見えたドライバーの〝普通さ〟に細かく身震いしながら、恐る恐る立ち上がり真紅は小声で諦めきったように苦悶を吐いた。
「やっぱりあれも……〝そう〟ですか……?」
「まぁ……こんな危険な状況で普通に生活できてる奴がいたら基本〝そう〟ってことかな。逆に私たちのようにコソコソ隠れたり化物に追われ回ったりしながら生き延びている人は――大体は味方ってこと。見分けは大事にしないとね」
「なるほど……参考になります。それで、この後どうしますか……?」
「んー……君も疲れているだろうし、とりあえず一度森に入って休息しようか」
その言葉を聞いた途端、今までのことを忘れるくらいに真紅は目を大きく見開いて思わず女性を二度見した。
「えっ!?森っ!?」
「そ、森。何度も言うけど……奴らは何も無ければ普通に人間みたいに生活する。深夜にわざわざ森に入ってくるような人なんて、まず滅多にいないだろうからね」
「えっ、でもっ、野宿ですか?シェルターとかじゃなく……?危険すぎませんか?」
「大丈夫。実は仲間が森を拠点にテントを張ってくれているの。そこにさえ辿り着けば、ちゃんと安全に待機できるから。さ、面倒事になる前に早く行こうか」
そう告げたが早く、女性は運転席に回ってガチャリとドアを開けた。
乗り込んだと同時にすかさずエンジンをかけて、周囲に重々しい音を響かせる。
真紅も足早にワゴン車の助手席に座って、万が一に備えあらかじめシートベルトをしっかりと装着する。
安全対策だけはバッチリ。な筈。それを終えるのを横目で確かに確認すると、女性はすかさずエンジンをかけ、直ぐ様ギアチェンジしてくるりと華麗にターンしながら、トンネルに向かって一直線に加速させた。
白いガードレールに沿ってシルバーカラーのワゴン車が、風を切りながら小道を駆け抜けていく。前方でライトに照らされた木々があっという間に車を通り過ぎる辺り、相当なスピードが出ているのがわかる。
ふと横をすれ違う景色に目を向けてみるが、やはり少々影が濃すぎるようで、海の麗しく波打つ様子も街灯のない夜道からではどうにも拝見できなかった。
「――そういえば、私からは話してなかったね、真紅」
そんな窓の模様を他所に、緩やかなカーブをハンドルを切りながら女性がこちらにアイコンタクトした。その声と名前に反応して、真紅もお返しにその目線を女性と合わせる。
「私の名前は葉暮愛夏。以後よろしくね」
「!あっ、よ、よろしくお願いします、葉暮さん」
どうやら自己紹介だったようだ。特に緊張した場面でも話題でもないので、安心したように真紅は笑みを漏らす。
「下で呼ばれたいな、私」
「エッ……じゃ、じゃあ愛夏さんで」
「ありがと。そのままでお願いね」
可憐に笑う姿。これだけ見れば、とてもあんなバケビトと勇敢に戦う勇者のようには思えない。普通に美しい一般的な女性だった。
彼女の希望を聞いたあたりに、僕はコーと呼んでくれると嬉しいです、と真紅はあと少しでそれを述べかけた。が、こんな事態にそんなこと言ってられないと大人しくその口を閉じた。
やはり真紅呼称は少々抵抗があるようで、自分がやはりイジられているのではないかと過度に勘違いしてしまうらしい。
久々に普通に真紅と呼ばれた気がするな、そんなことを心で呟くと、そこから再び今はいないイヅキのことを思い出して、真紅は少々大袈裟にため息をついた。
とても重々しくて疲れ果てた、不自然に冷たいため息だった。
――こうして今更ながらようやくお互いの実名を確かめ合い、嫌なことを再度考え込んでしまったところで、改めて真紅は窓の外に顔を向ける。
その闇夜のなんと仰々しい色合いと濃厚さ。相も変わらず光の美しかった筈の空は、大量に黒ペンキを塗りたくられたままでいた。
「空が好きなの?」
女性――もとい愛夏が、そんな物寂しい彼の姿を見てアクセルを踏む力を弱めながらふと聞きつける。
「いや、特には――」
その質問に、真紅は小さく微笑みながらそう答える。
――明日には、たぶん雲が晴れて、それで星が見えて海も見えて――きっとあのイヅキも、ここに帰ってくるだろう。
この極限の追い詰められた状況に、小さな羨望を抱きながら。
淡い期待だったかもしれない。儚い願望だったかもしれない。
でも、それでも彼は戻ってきてくれる。また遊びに来てくれる。そう信じた。もう信じるしか、なかった。彼には、何も術が残されていなかった。
墨に汚れた、暗闇の街沿い。
未だ月は見えない、夜の天上。
赤いランプを灯した飛行機だけが唯一、黒のキャンパスを微かに小さく汚してくれていた。
きっとあれも、バケビトだ。