#02 『お前、違うな』
お使いの端末は正常です。
彼らはもう十年以上も長い付き合いをしている幼馴染だ。
初めて出会ったのは小学生の頃。真紅が小学一年生の時にこの地域に引っ越してきた頃だ。その時はまだ真紅という名前がネタにされた記憶はない。
当然、先にコンタクトしたのは樹だった。当時の真紅は人見知りが激しく、日常会話もあまり得意ではなかったため、自分から率先してコミュニケーションをとる勇気は一切無かったようだ。だが、樹の積極性と無頓着さのお陰か、初めはかなり友情と疎遠になりがちだった真紅も、次第に樹のペースに順応し、いつしか自分から話しかけるようにもなっていた。
その時からもう二人は、いつも磁石のように同伴で行動していた。
遊ぶとき、勉強するとき、帰宅するとき、一時も彼らはお互いから離れることはない。それまさに一心同体のようで、押し引きのバランスが均一な仲良しコンビ。大人や先生から漣みたいな子達だね、なんて面白がられたこともある。その通り彼らの相性はいつでもどこでも抜群で、何に関しても正反対だった。
誰よりも運動に長けて、何事にも率先して行動する天真爛漫な樹。誰よりも勉学に長けて、何事もよく見据えて行動する湛然不動な真紅。真逆の二人の性質は、まるでやじろべえの如く不安定ながらも左右平等に整っていた。それが今もこうして、高校生になっても変わりなき関係であり続けている。
正反対、対照的な彼らだからこそ、それぞれの良さでそれぞれの悪さをカバーし合える。まさに理想的な親友。理想的な関係。
彼らはきっと、二人で一人の存在。
彼らの毎日が壊れるなんてことは――なんてことは――
――ありえなかったはずだった。
***
「イヅキ!!イヅキ!?どこにいるの!?イヅキ!!」
慌てに慌てた叫び声。その呼び声。木々の隙間で激しく飛び交う人間の鳴き声は、、そのボリュームとは相反してとても醜く力ないものだった。
消えた。そう、消えていた。
ジャージ姿が。唯一の親友が。与ヶ島 樹が。
気付かなかった。気付けなかった。
それはあまりにも唐突で、音無で、一瞬で。まるで手に負えないほど儚く刹那――勘付いたときにはもう跡形もない。
何度目を拭っても、何度瞬きを続けても、それは一向に不変。不変。不変。彼が、樹が、イヅキが――消えてしまったのだ。
――どうしよう、どうしようどうしようどうしよう!
突然の異変に戸惑い、揺るぎ、狂わされ。より彼の呼吸器官は忙しなく過剰に機能する。
何が起こったかなんてのはさっぱり理解できていない。自分が今どんな立場にあるのかもよくわかっていない。ほとんど景色に違和感らしい違和感はなかったから。
ただ、何か変わったことがあると知り得るなら、確かにもう一人の少年は姿を眩ませていた。
間違いなく彼の有無だけは、わかりやすく変化していた。
――いや。
それだけじゃない。
五月蝿く喚いた蝉のさえずり。黒生地で煌めくつぶらな星光。そして何より、あそこまで自身を苦しませた劈くような躰の痛み。その全てが、この一瞬で風のようにどこかへ過ぎ去っていった。
記憶は特に欠けてない。故に、ついさっきまで認知していた音も形も色も模様も、欠片のひとつすら忘れていない。今日は一体何日か、ここは果たして何処なのか、これまで何をしていたか、一切合切何から何までちゃんと自覚にある。意識を失った風でもなかった。
だからこそしっかりと覚えている。たしか、いや、絶対に樹はそこにいた。その事実に狂いはないはずなのだ。
今普通なら、隣に樹は立っているはずなのだ。
――どういうこと?一体どうなってる?何があってこうなった?
身を走る焦燥感。毛一本一本が、ピリピリと寒気を察知する感触がする。鳥肌もふつふつと芽生え始めてきた。
ありえない。ありえない。ありえなさすぎる。まさか――まさか本当に非科学が――?
一つ、冷や汗が垂れた。
もし――もしも本当に、そういうことが起きているのだとしたら。そうであるなら、今起きているのは一体何なのだろう。何なのだろう。何なのだろう。
幻覚症状?パラサイコロジー?洗脳?ポルターガイスト?キャトルミューティレーション?サイコキネシス?七不思議?神隠し?封印術?地縛霊?悪夢?ループ現象?ドッペルゲンガー?クローン?カオス?シンクロニシティ?臨死体験ホーンティング呪怨形態因果作用タイムスリップ転生瞬間移動予知夢電気人間四次元――
――いやいやいやいや。まてまてまてまて。
パシン、と頬が自分に叩かれた。
落ち着けコー、もっと冷静になれ。彼は自ら叱咤する。
――非科学がどうかなんてのは、万が一。もしもの話。ほんとに例えば、ってだけ。賢い人間になりたいなら、こんな迷信を簡単に真に受けちゃ駄目だ。
バッグの中を漁って、スマートフォンを取り出す。スリープモードを解除して時刻を確認すると、もう次の日まで三時間もない。
――きっとどこかにいるはず。たぶんどこかにいるはず。はぐれただけかもしれないじゃないか。見失っただけかもしれないじゃないか。いや、そうに決まってる。そうなんだ。
唐突に迫る瞬間的な頭痛だって、健康な人間であってもよくあると言えばよくあるものだろうに。痛みが起きて、イヅキが消えて。別にそれらが偶発的に連なって起きたところで、飽きるほど生きてきた現実は現実のまま一定であり続けるのが当然だ。非科学が自己感覚で成り立つ厳しさは今まで〝体験しなかった〟自分が一番よくわかっているじゃないか。それが自然の摂理、そして世界の神秘なのだから。もしかしたら、様々な勘違いをでっち上げていた人間たちの言動はこういう思い込みが起因したのかもしれない。
その脳内で羅列する文言は、〝確認する〟というよりは〝言い聞かせる〟に近いものだった。悪く言えば逃避的な自己暗示に該当する〝甘え〟だろう。だが、少なくとも頭は先程より冴えてはいる。
――惑うな。平常心、そう平常心だ。
こんなところでゴチャゴチャ考えてる暇はない。まずは彼の行方を探さなくては。はぐれただけならまだいいけど、人攫いや事故なんかだったら大変だ。それに夕暮れには帰ると言っておいてこんな時間なんだ。保護者も心配してるに決まってる。
もう一度バッグを開いて、ペットボトルを取り出してごくりと大胆に給水する。それだけでより意識と気分が清くはっきりとした。
――まずはスマホで連絡できるかどうか。電波は届いている。番号も当然わかる。あとはあっちが電源さえ切ってなければ交信はできるはずだ。
思ったが早く、真紅は数回タップを繰り返して樹の電話番号を入力し、発信ボタンを正確に触った。妙に慣れた様子から、いかに普段から彼との通話サービスを利用している回数が多いかが把握できる。耳元にそれを近づけると、既にプルルルル……と拍子の抜けた音が鳴動していた。
――……これでもし普通に繋がって、本当に何でもなかったらそれはそれでどうしよう。
そんなことを思いながら、探し求める相手が応答するのを気長に待つ。
こちらはあれだけ心配して、あれだけ泣きそうになるくらい危機感に怯えたのに、「ちょっと小便してましたぁー、へへっ」なんて軽いテンションで丸ごと返されたら割に合わない。
そう、昔から樹は自身のピンチだけは何でも軽く捉えるタチだ。自分の財布を旅行先に忘れたときも、キャッチボールで勢い余って校長室の窓ガラスを大破させたときも、いつも笑って物事を〝ひとつのバラエティー〟のように簡易的かつ楽天的に認識してしまう。そんな樹のマヌケな態度に振り回されて、どれだけ真紅に二次被害が及ぶ事例があったかもわからない。
今回は甘やかさない。今度はしっかり自分が満足できるまで姿勢正しく土下座してもらう程度の覚悟はしてもらわなければ。
多少日頃の鬱憤晴らしも兼ねて、彼には仁義を通してもらうことにしよう、安全を前提に密かにそう真紅は決意した。
それにしても。
『prrrrr……』
「…………」
長い。何度類似した音がスピーカーでループされただろう。本当に電源を切っているのか、はたまたどこかに忘れたのか――何にせよ、そろそろお決まりのあの台詞が流れてくる頃だ。
こんなことで手間をかけてはいられない。「ただいま、電話に出ることができません」なんて告げられた瞬間に、即座に終了ボタンを早押ししてやる。真紅は耳元からスマートフォンを遠ざけた。
そして同時刻、それに続いてその女性の声はやってきた。
『おかけになった電話番号は――』
――来た。結局これか。全く本当に面倒なことに――
再び液晶の面前に親指を構える。その距離わずか1センチもない。いつでも切断する準備はできていた。
だが、たった今彼の予想した台詞との違和感が――
『――現在使われていな|
い《・》か――』
――…………………………え?
その行為を、絶対に許さなかった。
***
――え?使われてない?イヅキのケータイが?
『市外局番から――』
――え?市外局番?なんで?え?え?
もう一度同じ数列をタップして、もう一度同じように通話をかけ直す。しっかり一文字ずつ丁寧に入力して。
『おかけになった電話番号は現在――』
だが、相も変わらずその応答には変化がない。通話を再びブツリと切った。
今度は電話帳を参照し、その番号に間違いがないことを確認する。その上で、もう一度その連絡先へと。
『おかけになった電話番号は――』
しかし、やはりその勧告には動きがない。通話を再びブツリと切った。
――いや待ってよ。どういう、なんでこんな――?
もうこれ以上この番号に期待をしても意味はない。手があるとするなら、他の手段――別の番号しかない。今度は、イヅキに一番身近な相手――イヅキの自宅の番号に繋げてみた。
だが。
『おかけになった――』
「だめか……!」
断念。通話を再びブツリと切った。
ぼとりと疑念が落ちる。とても不気味で、どうしようもないくらいに出来上がった色、重み、そして存在感。
〝繋がらない〟とかじゃなく、〝ない〟――この事実が、より真紅の思考回路を狂わせる。
――スマホが壊れたのか?携帯電話会社のトラブルか?それともイヅキが機種変更でもしたのか?
様々な可能性と疑惑をパターンに提示していくが、どれも突拍子がなくて信憑性もない。時報にはしっかり接続できるし、特にこれといった目ぼしい情報も見受けられない。その上、イヅキとは出掛ける前に通話で連絡をできていた事実があるのだ。
――何にせよ、もう自分の足で特定するしかない。
半ば感情任せでスマートフォンをバッグの内部に思い切り突っ込む。そしてそれをしっかり肩にかけると、真紅は焦り切った様子で森の坂を駆け下りていった。
最早落としたペットボトルなど放置して。
チャプン、チャプンと余った液体が起伏する。この容器の――たったひとつの廃棄物の、置いてけぼりにされなような虚しさと、醜さと、そして脱力感。自然からは存在がまるで浮いている。
颯爽と下る少年の背後で、どこか嫌気のさす甲高い音が聞こえた気がした。森の烏が喚いただけだろう。
たぶん。
***
「もーッ……!なんでッ……!こんなことにッ……!」
樹を探し回って小一時間と少し。未だ事態は全く進展していなかった。
いや、むしろ後退しているのか。森の周囲をぐるりと回って、街中であり得そうなスポットを緻密に歩き回って、もしかしたらあっちも自分を探しているのではと引き返したりして。ついには樹の親戚の住む隣町にまで大移動し、もうこれ以上散策できない程に少年は走り、求め、失敗した。これだけヘトヘトになっても姿を現さない彼は、本当にどこに行ってしまったのだろう。
「困ったなぁ……」
もう諦めが肝心か、それとも友達の安全第一か。疲労感と厚意の狭間で葛藤しながら、それでもなお真紅は暗闇の中をとぼとぼと歩き続ける。
たまに目に映る街灯。もう何度同じようなカタチをしたオブジェクトにすれ違っただろうか。蛾や蝿は光を求めてあらゆるそこに集まるが、今の真紅もまさにそれだ。
――やっぱり深く考え過ぎなのだろうか。
宛先の見つからない懇願を地面に零しながら、うつらうつらと彷徨い続ける。眠気もそろそろピークに近づいてきた。明日も一学期の終業式があるというのに、どうしてこんな深夜徘徊とも思われそうな――いや、まさにそうであることを強要させられているのだろう。
何となく杞憂に終わる気もする。あまり気負う必要もないのかもしれない。そんなことを予感に察していてなぜそれでも探し続けるのか――自分の中で全く答えは見つからないが、何故か彼は今も親友を目掛けて自律的に動く足のされるがままになっていた。
――まるでゾンビみたいだ。
自分の醜い歩き様に呆けたように苦笑して、すぐそばのガードレールに手をかけ歩幅を限りなく小さいものに縮める。本当に少し――1ミリにも満たない程度だが、心と身体にポッカリと隙間ができた。
と、同時刻。どこかでまた烏が叫んだらしい声。悲鳴にも近いほどその鋭さや必死加減は尋常ではない。こんな時間にも関わらず、同族間での縄張り争いでも勃発しているのか。ここまで騒々しい事例もこの辺りではなかなか珍しい。よっぽど激しい暴力沙汰か事故なのだろう。烏社会の様式というのもなかなか厳しそうなものである。
そんな音に耳を澄ましているうちに、続いてザッ、ザッ、と僅かに目の前に足音が聞こえて。
「…………!」
もしかして、と視線をそちらに送るが――結局何の面識もない赤の他人。ヒステリックな柄の私服と、生え変わったばかりのようなジョリジョリの髭のおじさん。あまりにイヅキとは程遠い容貌と顔立ちをしていた。
――こんな時間にこんなところを歩くなんて、何か特別な用事でもあるのかな。
そんなことを心に呟きながら、いつの間にか止めていた歩みを再び進めて、また一歩、また一歩と前進していく。段々と足取りも覚束なくなってきて、ダンベルが引っかかぅたように重い瞼はほとんど半開きに等しかった。
もう限界、もう沢山。俯きながら脳裏でそんなことばかり連呼しながら、真紅はヨロリと姿勢を揺らした。
――別に攫われたところを目撃したわけじゃあないんだ。きっとあの無頓着なイヅキなら、何の気なく明日も登校してくるに違いない。十分頑張った。頑張ったよ。
無駄ながらも懸命に積み上げた自分の功績を一人切なく讃えながら、真紅は諦めを正当化するようにこくりと密かに頷いた。
完全に疲れ切った背中。誰から見ても彼がまともに歩けてるようには思わないだろう。彼は最早居酒屋帰りの酔っぱらいよりも千鳥足で、残業帰りのサラリーマンよりもゲッソリとした表情をしていた。
「おいお前、大丈夫か?」
ぼーっ、と疲れが広がる彼の耳元に、確かに低くてぼそぼそした声が聞こえた。そちらへとのっそり振り返ってみると、その声の主はつい先程のおじさんのようだ。
「そんなにフラフラして。しかもこんな時間に……具合でも悪いのか?」
どうやら心配してくれているらしい。顔に似合わず随分と温厚な気性を持ったおじさんだ。人は見た目によらないとはこういうことを言うのだろうか。
「いえ、ちょっと疲れただけなので。もう帰るところですから大丈夫です」
「本当に大丈夫か?顔色も悪そうだぞ?」
「いや、本当に大丈夫です。どうか気にしないでください」
地を向いた目線をおじさんに向ける。そして樹にかつてそうしたようにニコリと笑って見せて、真紅は自身が問題ないことをその顔色で示した。多少やつれてはいるが、それでも笑顔と言うには花丸の出来栄えだ。きっと何も知らないこのおじさんなら、その笑みをそのまま信用してくれることだろう。
「わざわざ心配してくれてありがとうございます、おじさんも夜道には気をつけてください」
そう言い残して真紅は後を立ち去る。疲労感は少しも回復はしていないが、あの心優しいおじさんのお陰で大方気は楽になった。足運びも何とか安定してきて、帰宅は無事済ませられそうな気がする。
――結局謎は謎めいたままだった。だが、きっと大丈夫なはず。
何ヶ月何年と時間が進めばそれもただの笑い話になるだろう。今更どうこう尽力したところで、今の真紅には達成できる余地がない。
――そう、問題なし。
自分の中で繰り返しそれを暗示しながら、真紅はまるで大量の宿題から解放されたように機嫌良さげに直線を進む。
何となくこの後バッタリ樹と出くわす気もして、足取りが軽くなってきた――
――その時だった。
「?」
突然ガシッ、と、真紅の肩が強く掴まれる。握られる。一体何事だと不思議そうに振り返ると、やはりあのおじさんだった。
「どうしました?」
真紅がぽかんとしながらおじさんにひとつ問いかける。何かやはり心配気な要素があったのだろうか。それとも忘れ物でもしていたのだろうか。それともまた別に用事があったのだろうか。いくつかそれらしい可能性をぽんぽんと思い浮かべながら、おじさんの返答を気長に待つ。
「…………」
だが、依然おじさんは無言。表情は妙に真っ直ぐとしていて、まるで自分を見ているのではなく、自分より〝もっと奥を見ている〟ような視線。問いに返す話題がないというより、返す気がないようだ。
「あの……?」
少しずつ、おじさんへの不信感が芽生えてきた。
もしやこのおじさん、声をかけられてはいけない男だったか。最近学校でもちらほらと不審者情報はよく聞く。まして、全国的にはこういったことから麻薬売買や援助交際への道に貶められるなんて実例は結構あるものらしい。こんな時間に学生が制服でほっつき歩いているのだ。罪に汚れた大人が目をつけてきてもおかしくはないだろう。
「…………」
しばらく経っても、いつまで経っても、おじさん――男からの返答はない。ただギリギリと強めな握力で肩を掴みこちらを凝視するだけで、全く動きが見受けられない。そろそろ確信犯と断言してもいいのだろうか。
「その……さっきも言いましたけど僕もう家に帰りたいので、これでお暇させて頂きますね」
早めにこの男から離れたほうがよさそうだ。真紅はその手を振り払おうと両手で腕部を掴み返し、力を押し返す。
だが。
「…………」
やはりその手は離れない。頑なに放そうとしない。結構な力がある。とてもじゃないが自力では解放できない。
「あの……そろそろやめてくれませんか?」
「…………」
応答ナシ。だめだこれは。真紅は困惑した様子で口元を歪めた。
――このままじゃ逃してくれそうもないのだ。ここはもうすぐに警察に連絡しよう。何が目的かは知らないし、刑法もそこまで詳しくはないけれど、軽い罪には問われるくらいのことはしているに違いない。
やむを得ない、そんな雰囲気で片手をバッグに回して、自身のスマートフォンを確かに手中に収める。そして今日何度目かの通話画面を開いて、三桁数字を入力しようとした――
――その時。
「お前、違うな」
突然、男は一言少年に投げかけた。
「えっ?」
「違うな、違う。違うよな。全然違うよな。違うんだよな」
違う。違う?違う。――違う?そんな語句ばかり。そんな単語ばかり。全く語彙が発展するように見られない。
ヘンテコな言葉だった。全く意図も理解できない。哲学的な真理を説いてくるのか、それとも何らかの形で自分で考え答えを見つけろということなのか、とりあえず今のところ真紅の脳では解釈できない境地のようだ。
「えっと……」
「違う。違う違う。全然違う。全く全く、違う、違う違う」
「あの……どうし――」
「違う。違う、違う。違う違う違う違う違う」
謎。謎の窮地とも称せる発言。
彼が聞き返してからもずっと男性は真紅が何かと違うということを連呼している。どう反応しても、何もしなくても、違う。違う。違う。違う――その違うらしい何かは特に指し示す様子はない。とにかくその差異の有無だけを連々と真紅に突き付ける。
「あの……聞いてますか……?」
一体何が違うのか。そしてどう違うのか。やはり真紅はさっぱり理解できなかった。というより、理解しようがなかった。今男性が話し続けていることは、あまりに当たり前とは逸脱し過ぎている。彼がこんなことを考えてる間にも、もう二十回はその言葉を吐き捨てられた。
そして何故か男性は、一度も瞬きせずこちらを凝視しながら、さらに一歩二歩と距離を詰めてくる。じりじり。じりじり。じりじり。それに応じて真紅も、一歩二歩と後退する。ゆっくりと、じっくりと。全く意味のわからないことだらけだが、とにかくその男性の歩く歩幅は極端に狭い。それだけが何か、真紅のどこかをピリピリと削るように強く擦ってきた。
いや、もう状況の説明は必要ないだろう。ここまで来れば、彼でも、誰でも見て直ぐに分かる。どうにもその男の様子がおかしい。人道的とかじゃなく、人間的に。明らかに何かおかしいのだ。
「違う。違うんだ」
「だから何の話をして……」
「違うんだよ」
話を聞く様子がない。こちらをどうする気配もない。
とにかく男は、こちらを見つめて、見つめて、見つめて、見つめて見つめて見つめて見つめて見つめて見つめて――真っ直ぐすぎるアイコンタクトで体の節々を突き刺してくる。
男の表情は、暗く、重く、悍ましく。瞳が黒々と他の色を塗り潰して、そして瞼をパチリと見開いて――何か〝悪い感情〟が増幅していた。その〝悪い感情〟とは、怒りと言うよりも、憎しみというよりも――もっと別な何か。その〝別の何か〟が、確かに様相から感じられる。しかもこのこんな夜遅くにこんな顔と出くわして、目を合わせられるわけがない。そこらのB級ホラー映画なんかに出てくるゾンビや亡霊なんかよりは数倍恐ろしく、数十倍威圧を感じ取れる。
男に対する真紅の見え方が、一気により〝悪いモノ〟へと変貌していった。
ぼとりと、疑念と畏怖が落っこちる。それは悶々と膨張し、肥大化し、心のスペースを限りなくぎゅうぎゅうに詰め込んでいく。
――この人、麻薬売買とかそれ以上に――もっとやばいんじゃ?
そう察知して。
そこでふと、真紅は相手の首元に謎の違和感を感じる。
目を凝らすとそこには――妙な傷跡――〝何か突き刺さったような跡〟がある。視界が暗くてあまり目立たないが、その模様はまるで、肉を喰らい血潮を啜る猛獣たちの歯型のような――
「ッッッ!?」
そんな歯型に釣られてすぐ――途端に、真紅の背筋が氷のように冷え切った瞬間があった。
――この人――この人の服――!
この男の、何故か凄く印象に残るヒステリックな私服の模様。まるで赤いスプレーがかけられたような掠めた赤のグラデーション。その濃厚さ。これは単なるファッションなんかじゃない。この色は、この匂いは、間違いなくこれは――
――血。
「違う、違うよお前」
やばい。やばい。これは多分、いや絶対やばい。
間違いなく、今自身は限りなく危険な状況に向き合わされている。
一体何かは解らないけれど、確かに危険だと神経が、脳が、命が警告している。
逃げなきゃダメだ。警察とかなんだとかその前に、すぐにでもここからいなくならなきゃだめだ。
消えなきゃだめだ。
そんなことを考えているうちにも、じりじり、じりじり。そんな風に距離が段々と狭くなっていく。きつくなっていく。迫っていく。
もうこれ以上近づきたくないくらいに。もうこれ以上は正気が保てないくらいに。
――何だ、何のつもりだ――!?
より嫌な予感が、滾ってくる。
どこかで――どこかで不穏な音が、不協和音がする。
とても不快な、気持ちの悪い嘔気を催すような音。
耳元に蛞蝓のように伝わってきて、それでいて耳障りに鼓膜をノックして、いて――それで、それでそれで――
「なっ、なんだか分かりませんけど、僕もう――」
それで。
「――ひグッ!?」
ついにその直感が、彼の首元に襲い掛かった。