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どこまで続くか誰も知らない(4)

 その晩、メイベルが眠ったのを見計らい、クラリッサは執事に相談を持ちかけた。

「朝にお話しした通り、相談に乗っていただけますか」

「構わないとも。しかしその前に相談料をいただこうかな」

 バートラムは余裕を窺わせる穏やかさで応じた。

 相談料という言葉にクラリッサは戸惑う。普段角突き合わせている相手に相談を持ちかける以上、こちらが下手に出なくてはならないこともわかっている。だが彼の軽薄さもアルフレッドの誘いと同じくらい厄介なものであり、何を要求されるのか内心恐々としていた。

 しかし彼はクラリッサの困惑すら見抜いたように、さらりと続ける。

「私の為にお茶を入れてくれないか。話をすれば喉が渇くだろう」

「そんなことでしたら」

 胸を撫で下ろすクラリッサに、からかうような笑みを向けることも忘れていない。

「何を頼まれると思った? 君がそれを許してくれるなら、私もためらわず頼むところだ」

「……とびきり美味しいお茶をご用意いたしますので、しばしお待ちを」

 クラリッサは逃げるように話を打ち切り、彼と自らの為に茶を入れた。

 主不在の客室にほのかな茶の芳香が満ちていく。

 それは朝から室内を包み込んでいた花の香りを一時退け、ささくれ立っていたクラリッサの心をわずかながら落ち着かせてくれた。


 二人は温かい茶で一息つき、それからお互いに少しの間客室の中を見回した。

 宿の客室には今朝送りつけられたばかりの花が飾られている。

 円卓にも、それ以外の調度にも、窓辺にも、そしてとうとう床の上にまで並べられた色とりどりの花々――あまりの量に宿から花瓶をいくつも借りなければならず、それでも間に合わなかった分は浴室の浴槽に浮かべてある。

 メイベルは花に囲まれた部屋を眺めては満足げにしていたが、クラリッサはいい加減花が嫌いになりそうだった。


「全く、ろくでもないことになりました」

 クラリッサが零すと、向かい合わせで円卓を囲むバートラムがにやりとする。

「それだけ君が魅力的だということだよ。私以外に君を見初める人間がいるのは気に食わないがね」

「わたくしはあなたの不真面目さが気に障ります」

 そうやり返したクラリッサだったが、内心その気に障る相手に助けを乞わなければならないことを自覚していた。

 この一件はもはや自分一人では切り抜けられない状況に発展しつつある。

 そしてこの旅が始まって以来、クラリッサは様々な形で彼に救われてきた。不本意なことだが、現在のクラリッサはバートラムが頼れる人物であることをとてもよく知っている。

「大体、本気でそうお思いですか? あの方がわたくしに好意をお持ちであると」

 逆にクラリッサが尋ねると、バートラムは優雅な仕種でカップを傾けてから目を上げる。

「おや、意外と冷静な見方をする」

「当然です。あの方は気まぐれな浮気心でわたくしに声をかけておいでなのでしょう」


 船上でアルフレッドと遭遇して以来、彼の言動には不信しか抱いていなかった。

 だが彼の婚約者に対する態度は優しく、慈愛に満ちているようにしか見えなかった。ほんの小一時間眺めただけの二人のやり取りががただの演技でないという保証はなく、世間知らずのクラリッサが真実を見抜けていないだけという可能性もあるだろう。だがどうも、それだけとは思えないのだ。

 そうだとすると疑問が募る。

 結婚を眼前に控えた身でありながら、なぜアルフレッドは浮気をしようとするのか。

 そもそも彼に浮気をする心算などあるのだろうか。偶然知り合った田舎娘をからかっているだけで、こちらが本気になれば鼻で笑ってあしらうつもりでいるのかもしれない。無論クラリッサには本気どころか、一時の浮気心にさえ付き合ってやるつもりもなかったが。


「そこまで読めているのなら安心だよ。私は君が本気にするのではないかと不安で仕方がなかった」

 冗談めかした口調でバートラムが言ったので、クラリッサは思いきり顔を顰めた。

「本気なのはこの一件をどうにか解決したいという意思のみでございます」

「それは結構」

 執事は余裕を崩さず微笑み、続ける。

「ならばこの件は単純明快だ。あのアルフレッドなる坊やに君を諦めさせればいいだけだ」

 当然ながら、それは誰もが望む最良の解決策となるだろう。

 アルフレッドは婚姻に際して汚点を残すこともなく――全くなくはないかもしれないが、少なくともそれにクラリッサが関わることはなくなる。クラリッサは気が滅入るような悩みから解放され、そして誰より大切な女主人の結婚式の思い出を汚さずに済む。

 しかし船上でのやり取りだけで懲りず、改めて誘いをかけてくるような男だ。諦めさせるのも容易ではないだろう。

「そんなに簡単にいくでしょうか」

 クラリッサは疑問を口にしながら、この場にいない当人の代わりに、花瓶に活けた赤い薔薇を睨みつける。

 心優しいメイベルはクラリッサに贈られたこの花も飾っておこうと言って、わざわざ花瓶を用意させたのだった。忌々しいほど赤々とした花びらを見る度、自分の髪はこれほど赤くはないと歯噛みしたくて仕方がなくなる。

 クラリッサにとってこの花束は、添えられたカードと合わせておよそ考えられる限り最大の侮辱と言えた。

「わたくしはいっそあの方に花束を叩き返してやりたいくらいです。あの愛想だけはいいお顔目がけて棘を刺して差し上げようかと思っておりました」

 思い返せばむかむかしてくる。憤懣やる方ない様子でクラリッサが呻くと、バートラムは小さく吹き出した。

「君の気の強さも私には可愛いものだが、しかし今回ばかりは自重したまえ」

「なぜです」

「あの坊やも相手を選んで声をかけているということだ。いいかね」

 彼は至って優しく、言い聞かせるように語った。

「君はこの地では異邦人であり、君の身元を保証できるのは私と奥様しかいない。そしてここでは奥様のお立場も決して強固なものではない」

 メイベルについて言及されると、クラリッサも怒りを収めなくてはならない。

 何があろうと彼女だけは守り抜かなくてはならない。それはクラリッサとバートラムにとって最優先の命題だった。

「一方であちらの坊やは町の有力者のご子息とのことだ。ましてこれから領主の姪御と結婚される身となれば、白いものを黒いと言っても従う者が大勢いることだろう」

 バートラムの話を聞くうち、クラリッサはいよいよ自らの受難を悟って気が滅入ってきた。

「つまり、あの方よりもわたくしの言葉を信じてくれる人など、この街にはいないということですか」

「私と奥様の他にはな」

 強く刻み込むような口調でバートラムが言い添える。

 しかしたった三人で、この街中を敵に回すようなことはできない。何としてでも穏便に切り抜けなくてはならない、ということだろう。

「そこで初めの話に戻る。かの坊やには君を諦めてもらわねばならない。それもできる限り後腐れなく、むしろ何事もなかったかのように」

 クラリッサとしてもこの一件がソフィア嬢の耳に入るような事態は避けたい。

 身を乗り出し聞き返した。

「何か策がおありなのですか、バートラムさん」

「もちろんあるとも。だがその前に」

 彼はいつの間にか空になったカップを持ち上げる。

「お替わりを貰えないか。君に入れてもらったお茶は格別の味がする」

「……かしこまりました」

 肩透かしを食らい、クラリッサは嘆息した。

 だが彼からはこの茶が『相談料』だと言われていた。当然ながら無下にもできず、逸る心を抑えて再び茶を入れる。


 カップを茶で満たして差し出すと、バートラムは端整な顔に極上の笑みを浮かべた。

「ありがとう、クラリッサ。ところでこの件に関して、君にもう一つ確かめておきたいことがある」

「何でしょう」

 クラリッサは目を瞬かせた。

 そしてバートラムは入れたての茶をじっくりと味わいながら、

「私に相談を持ちかけたということは、私を信頼してくれているという解釈でいいのだろう?」

 と尋ねた。

 改めて問われるとクラリッサは口ごもりたくなる。自分に学がないことも、自分一人ではメイベルを救えなかったであろうことも、彼の如才なさにこれまで何度も助けられてきたことも自覚はしている。こうして相談の場を持ったのも彼の力が必要な状況だったからだし、他でもないクラリッサ自身がそう思っていた。バートラムの助力が必要だと。

 そして不本意なことではあるが認めなくてはならない。

 クラリッサは彼を頼りにしているのだ。とても。悔しいことに。

「ええ、もちろんです」

 答えるまでにたっぷりと間を置いたつもりだったが、もしかするとそれほど長くは経っていなかったのかもしれない。

 何にせよクラリッサは頷き、それでバートラムも目を伏せた。

「喜ばしいことだ。君から私を信頼する言葉が聞けるようになるとは、少し前なら考えもしなかった」


 クラリッサもよもやこの執事を信頼し、頼りにする日々が訪れるとは思いもしなかった。

 不毛なやり取りを続けてきた八年間と比べると、ここ一ヶ月ほどの出来事はじっくり煮詰めたように濃厚で、自分が置かれた状況も目に映る景色も全て目まぐるしく変わっていった。そんな激動の日々において、クラリッサの心もまた変貌を遂げつつあるのだろう。

 今はまだ素直に受け止めきれていないところもあるが、信頼できる仕事仲間を持てたことは幸いでもあるだろう。

 あとはあの軽薄な言動さえ慎んでくれれば、ひとまず文句もないのだが。


 どうにかして自らを納得させようとするクラリッサに、バートラムが告げた。

「では、私を信じて欲しい。今から私が告げる策は、恐らくあの坊やを退ける最も効果的なものとなるだろう」

 自信に満ちた物言いにクラリッサは息を呑む。

「本当、ですか? それほどの策があなたにおありだと……」

「信じて欲しいと言ったばかりだよ、クラリッサ。私の言う通りにすれば間違いはない」

 確かめようとする問いを遮り、バートラムは真剣な面持ちになる。

 彼の言葉の続きを、クラリッサはじっと待った。いつしか期待さえ抱いて待っていた。

 それを察しているかのように、彼はもったいつける口調で言った。

「君は明後日の茶会であの坊やに会い、そしてこう言えばいい。――自分には既に恋人がおり、それゆえ他の男からの求愛には応じられないと」

 クラリッサはぽかんとした。

「恋人など、わたくしにはおりません」

 気の抜けた声で口を挟むと、バートラムは小さく首を振る。

「方便だよ。わからないかね、クラリッサ。君は彼に嘘をつくのだ。かの坊やも君に意中の相手がいると知れば、さすがにしつこく追い縋りはしまい」

 船上で誘いをかけられた時と同様に、嘘で応じるということなのだろう。

 だがその嘘はあの時と違い、クラリッサがたった一人でつかねばならない嘘だ。果たしてつき通せるものか、恋人がいるどころか今の今まで一度も持ったことがないという事実が露呈してしまわないか、にわかに不安に駆られた。

 それでクラリッサが俯くと、バートラムは安心させるように口を開く。

「そしてその相手が誰だと問われたら、私の名を挙げればいい」

 面持ちこそ真剣だったが、声は楽しそうに弾んでいた。

 予想だにしなかった提案をされ、クラリッサの頭は一気に混乱を極めた。そんなことは考えもしなかったし、それが本当に良案であるのかどうかなどもはや考えることさえできない。

 何から尋ねていいのかわからず、とりあえず眉を顰めておく。

「つまり――あなたが仰りたいのは、私があなたと恋仲であるふりをするということですか?」

「その通りだとも。私なら君と口裏も合わせられるし、上手く装うこともできる」

「だ、だからといって、なぜあなたと……!」

 呆然としているうち、思い出したように怒りと苛立ちが湧いてきた。クラリッサは噛みつこうとしたが、バートラムは至って冷静な態度を崩さない。

「先程も言っただろう。この街で君の身元を保証できるのは私と奥様だけだ。そして我々の間には八年という長い付き合いがある。君のことはそれこそ、恋するようにくまなく知っているとも」

 彼の青い目が意味ありげに細められ、クラリッサを捉える。


 青と一言で言っても様々な色彩があるものだが、バートラムの瞳は恐ろしいほど深い青色をしていた。澄み切った底なしの湖のような青だ。見つめられたクラリッサは妙な心のざわめきを覚え、カップの中で揺らめく茶の水面に視線を落とす。

 一人で嘘をつくわけではないとわかり、正直安堵していたところもあった。すっかり手を焼いていたアルフレッドへの対応にバートラムが手を貸してくれるというのだから、これほど頼もしいことはない。確かに退けられるのではないかという実感も少しながらある。

 だが――クラリッサの決して低くはない気位、自尊心をどう納得させるかという問題がここで新たに立ちはだかった。

 以前より信頼してはいるが、八年間ずっと天敵扱いしてきた執事と、恋仲であるふりをする。

 果たして内心を顔に出さず、上手く装いきれるだろうか。


「信じてくれ、クラリッサ。私は必ず上手くやってみせる。それも穏便に、奥様には何の被害も及ばぬようにな」

 バートラムが促すように声をかけてきたので、クラリッサは渋々面を上げた。

 深い青色の瞳は内心を窺わせないほど穏やかだ。彼が自分をからかっているのではなく、この事態に立ち向かおうとしているのだととわかる。わかるのだが。

 最終的には気位や自尊心も、それより高い忠誠心の前に屈してしまった。

「……それで、事が穏便に済むのなら」

 クラリッサはようやく口を開いた。

 納得のいかなさや怒り、苛立ちなどに荒れ狂う心を鎮めようと、震える声で続きを言った。

「そのようにお願いできますか、バートラムさん」

「任せておきたまえ」

 バートラムは深く顎を引いた後、クラリッサを宥めるように笑いかけてきた。

「君となら、誰が見ても疑いようのない完璧な恋人同士を演じてみせよう。さあそうと決まれば練習だ。まずはおやすみのキスから始めようか」

「お断りいたします」

 きっぱりとクラリッサは拒み、この提案を受け入れたことを早くも悔やみ始めていた。


 だが他の策が思い浮かぶはずもなく、そして茶会は明後日に迫っていた。時間がないのなら仕方がないのかもしれないという思いも確かにあった。

 結局は、彼の策に乗るより他ないようだ。

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