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どこまで続くか誰も知らない(1)

 船が港に入ると、甲板はにわかに慌しくなった。

 初めて訪ねるはずの街並みは朝靄に包まれ、霞んでいるせいでよく見えない。石造りの建物が建ち並ぶくすんだ景色が続いている。大きな港のようで、岸には多くの船が停泊し、港の外れには倉庫らしき建築物が窺えた。


 甲板に立つクラリッサは外套に包まり、寒さに震えながらそれを眺めた。

 船が岸壁に近づいていくにつれて無性にほっとしていた。

 長かった船旅もようやく終わろうとしている。クラリッサは航海の終わりを心から歓迎していた。どこまでも続く水平線も潮風の香りも、そして船での寝泊りも、もうしばらくは要らないというのが正直な気持ちだった。

 そしてクラリッサ以上に、港への到着を今か今かと待ち望んでいる者がいる。


「……この景色。靄がかかっているところまで同じよ」

 メイベルが感嘆の声を上げる。

 やはり外套に包まり、潮風に吹きさらされながら甲板に立っている。

 身体を冷やしてはいけないと、クラリッサも、あの不真面目な執事ですら制止したのだが、女主人は朗らかにそれを拒んだ。少しでも早く街の景色を見たかったのだという。

「昔来た時とあまり変わっていない気がするわ。細かいところまでは覚えていないけど……」

 誰に語りかけるでもなく、メイベルは手を伸ばして霞む街並みを指差してみせる。

「確か向こうにね、聖堂があるの、とても背の高い尖塔が目印なのよ」

 それでクラリッサは目を凝らしてみたが、該当する建物の影を認めることはできなかった。何もかもが曖昧にぼやけた景色を漫然と眺めているだけだった。

「そちらで奥様と旦那様は夫婦の誓いを立てられたのでしたね」

 女主人の傍らに立つバートラムが、そつのない口調で相槌を打つ。

 メイベルは興奮気味に頷いた。

「ええ。もう四十年近く前のことなのに、まるで昨日の出来事のように思い出せるわ」

 クラリッサにとって、四十年という歳月は途方もなく長いもののように思える。少なくとも四十年前、自分はまだこの世に生まれてすらいなかったのだ。


 レスターとメイベルの四十年前の姿も全く想像がつかなかったが、当然のように二人にも若かりし頃があった。そして近づいてくるあの街が、若き夫妻にとっての出発点であったという話は知っていた。

 その昔、二人はやはり船旅の末にこの港町へ辿り着き、聖堂で神に誓いを立てたのだという。

 当時まだ十代のうら若い娘だったメイベルは、故郷を遠く離れた地でレスターと夫婦になった。それこそが二人の結婚生活の始まりであり、今日まで続く幸せな記憶の幕開けでもあったのだ。

 メイベルは件の聖堂をもう一度訪ねようと考えているようだった。この街に着いたら長く宿を取り、思い出深い地をじっくり巡ってみたいと言っていた。


「わたくし、とても楽しみにしているの」

 痩せた胸に手を当ててメイベルが語る。

「だって、こんなおばあさんになってからもここへ来られるなんて、思ってもみなかったんですもの」

「ご希望が叶えられて何よりです」

 バートラムが言葉をかけると、メイベルは嬉しそうに表情を和ませる。

「ええ、ありがとう二人とも。おかげでしばらくは幸せな思い出に浸れそうよ」

 到着前から思い出を蘇らせてははしゃぐ女主人を、クラリッサも微笑ましい思いで見つめていた。

 メイベルの幸いはクラリッサにとっても幸いだった。この街での滞在が平穏かつ満ち足りたものになることを心から願っていた。

 

 やがて船は錨を下ろし、岸へと繋がれた。

 岸壁まで渡された板の上を、旅を終えた乗客たちが次々と歩き、船を降りていく。

 早々と荷物をまとめていたクラリッサたちも急いで下船した。まずは鞄を提げたバートラムが降り、その後から渡し板をゆっくりと辿り始めたメイベルに手を差し伸べる。

 女主人が岸に降り立ったのを見届けてから、最後にクラリッサが板を渡る。こちらにもバートラムは手を差し出してきて、クラリッサは拒もうとしたのだが揺れる板のせいで掴まらざるをえず、後で一応侘びを告げた。

「大変お手数をおかけしました、バートラムさん」

「気にすることはない。君の為ならいくらでも手を貸すよ、クラリッサ」

 機嫌がいいらしいバートラムは、メイベルには聞こえないようそんなことを囁いてくる。

 クラリッサは反射的に顔を顰めたが、言い返すのも時間の無駄だと各種皮肉や嫌味を呑み込んだ。


 船旅から解放され久々に降り立った大地は、思いのほか覚束なく感じられた。

 何日も揺れる船の上にいたからだろう。靴底に触れる地面はふわふわしており、まだ波に揺られているような心許なさがあった。

 クラリッサが足踏みをして地面の感触を確かめているうち、朝方の港は堰を切ったように賑わい始めた。船から降りた客たちと彼らを出迎える人々、そして次の出港へ向けて慌しく駆け回る水夫たちでごった返している。荷物の積み込みもこれから始まるようで、遠くから大きな箱を担いでくる屈強な男たちの姿が見える。


「ここに長くいてはお邪魔でしょう。わたくしたちもそろそろ行きましょうか」

 メイベルが逸ったように口を開き、すかさずバートラムも頷く。

「ええ、奥様。まずは宿を取りに参りましょう」

 クラリッサとしてもその提案に異存はない。

 まだふらつく足元から自らの荷物を抱え上げた時だった。


 突如として女の高い声が響いたかと思うと、港を埋め尽くす人波の向こうでざわめきが起きた。

 その人波を掻き分けるようにして、誰かがこちらへ駆け込んでくるようだ。

 クラリッサも思わず手を止め、そちらに目を向けた。

「アル! アルフレッド! 帰ってきたのね!」

 誰かの名を呼びながら人混みを転がり出てきたのは、金色の髪を輝かせる若い娘だった。

 仕立てのいいドレスをまとったその娘は、弾けるような笑顔を浮かべてクラリッサたちの脇を通りすぎていく。

 その姿を何気なく目で追ったクラリッサは、その娘を出迎える男の姿を発見した。

「ソフィア! わざわざ迎えに来てくれるなんて!」

 娘の名を呼び返した青年には見覚えがあった。

 駆け寄る娘に対して惜しみなく向けられるあの愛想のいい笑顔。潮風に揺れる栗色の髪。船旅を終えたばかりだというのに至って小奇麗ないでたち――まさに数日前、甲板でクラリッサにしつこく声をかけてきたあの青年だ。


 クラリッサが呆然とする目の前で、金髪の娘は栗色の髪の青年の元へ飛び出し、青年は両手を広げてそれを迎え入れる。

 娘が大地を蹴って力の限りに飛びつくと、青年はいささかよろけながらも彼女を受け止め、二人は熱い抱擁を交わした。

「ああ、アル! あなたの帰りを待ってたの! ずっと待っていたのよ!」

「待たせてごめん、ソフィア。君の顔をまた見られて嬉しい……!」

 傍目には想い合う恋人たちの感動の再会と言った光景であり、長旅にくたびれた人々の心にはこと響くものがあったのだろう。

 港を行き交う者たちもふと足を止めて抱き合う二人に見入り、温かな眼差しを送ったり、軽口で囃し立てたり、口笛を吹いて祝福したりとまるで祭りのような賑わいを見せた。

 そうした周囲の反応がますます二人を燃え上がらせたと見え、抱き合う娘と青年はうっとりと視線を交わしていた。

「あなたが旅に出てから、毎日聖堂に出かけて祈りを捧げていたの。あなたが無事に帰ってきますようにって」

 娘が目を潤ませながら訴えれば、青年も満足げに顎を引く。

「きっとその祈りが届いていたのだろう。どこにいても、君を一日たりとも忘れたことはなかったよ」


 ――よくもまあ、ぬけぬけと。

 クラリッサは胸中で呟いたが、それほど強い怒りは覚えていなかった。むしろ呆れ果てているといった方が正しい。青年に声をかけられた事実を公言しようという気もなく、ただ目の前の光景の先行きに部外者ながら不安を覚えたという程度だ。

 もっともクラリッサがどう思おうが恋人たちに聞こえるはずもなく、見つめ合う二人はやがて人目もはばからずに唇を重ねようとして――そこでクラリッサの視界は、誰かの大きな手によって遮られた。


「君の目には毒だ。見ない方がいい」

 バートラムの声が頭上から降ってくる。

 とっさに面を上げると、いつの間にやら背後に立っていた執事が、後ろから手を回してクラリッサに目隠しをしていた。

 そこで視線が合い、こちらを見下ろすバートラムが意味ありげに微笑む。

「私も君が胸を痛めているとは思っていないがね。気分のいいものではないだろう?」

「……お気遣いを、どうも」

 クラリッサは思わず呻いた。

 確かに気分はよくなかったが、目の前の光景が身に堪えたというほどでもない。クラリッサとてあの青年をよく思っていたわけではないのだ。しつこく声をかけられただけで誘いには断固応じなかった。

 それでもバートラムが気にかけるようにこちらを見下ろしていたので、声を落として打ち明ける。

「恋人のいらっしゃる方だとは思っていなかったので、酷く驚いただけです」

 するとバートラムは青い瞳を細め、甘く囁く声で応じた。

「そう落ち込むことはない。君には私がいるのだから」

「ですから、そういうことでは……」

 見当はずれな慰めを貰い、クラリッサは肩を落とす。

 いつもなら怒りに任せて睨みつけるところだが、今回ばかりはその気力もない。目の前の恋人たちにすっかり吸い取られてしまったような気さえする。

 だが執事はクラリッサを宥めるように微笑むと、更に声を抑えて続けた。

「君の気持ちは酌むが、ここでは堪えておいてくれ。奥様はいたく感銘を受けておいでだ」

「え……?」

 彼の言葉を訝しく思い、クラリッサは視線を巡らせた。


 すると抱き合う恋人たちを見守る人の輪の中に、確かにメイベルの姿があった。

 胸の前で皺だらけの手を組み、顔には慈愛に満ちた微笑を湛えて、彼女はそっと呟く。

「素敵ね……。愛し合う恋人たちはいつの世も、見ているだけで幸せな気持ちになれるわ」

 クラリッサの知る限り、メイベルは大変に善良な婦人である。

 彼女の目や耳にきれいでないものは入れたくないという思いがクラリッサにもあり、ましてやかの青年の愚行などなかったこととしてしまいたいほどであった為、結果として彼女は執事の意向を受け入れることにした。

「元々、言い触らすつもりもございません」

 クラリッサが肩を竦めると、

「賢明な判断だ。まあ、意趣返しに君も抱擁をしたいと言うなら、私が相手を務めてあげよう」

 バートラムはそう言って、クラリッサの肩を抱こうと腕を回してきた。

 もちろんすぐさま払い除けてやったが、彼はそれこそ堪えたふうもなく笑っていた。

 旅先だというのに相変わらず軽薄な人だ。そして自分の周りにはなぜこうも軽薄な人物ばかりが現れるのだろう――クラリッサはほとほと呆れて、深く嘆息するより他なかった。


 それでも気を取り直し、メイベルの傍へ歩み寄ろうとして、ふと、金髪の娘を抱く青年の姿が視界に飛び込んでくる。

 嫌悪感から目を背けるより早く、彼の方もこちらを向いた。


 その瞬間、彼と目が合ったような気がした。

 直後、片目をつむられた。

 ように見えた。


 クラリッサが顔を顰めるより早く、青年は娘の輝く髪に顔を埋めてしまう。おかげで目の錯覚か、それとも現実として起きたことだったのかは判断つきかねた。クラリッサとしてはただの見間違いであって欲しいところだったが――。

 なぜか嫌な予感を覚えていた。

 そしてこういう悪い予感ほど、得てして望んでもいないのに当たるものなのである。

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