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前と少女と僕

 僕が、涼子と再び再会したのは一週間後で、僕は本を返却しに大学の図書館に向かった先だった。彼女は、文庫の小説を読んでいたし、僕は僕で返却したついでに、図書館にある持ち出し禁止の本でも眺めようかと、図書館の奥にある禁書棚へ歩いている時だった。

 本当なら、僕と涼子は気付くはずも無かったけれど、お互い何かに集中してはいなかったし、何より、僕の足音が濡れていたので変に反響していたのが原因だ。涼子は顔を挙げて、気まずそうに顔を少しだけ顰めて、僕は僕で、声を掛けるべきなのかを少しだけ悩む事になった。結局、それだけの事だったけれど、涼子は再び本に視線を落として、僕も奥へ普通に歩いていく事が叶ったのだから問題は無かった。

「ねぇ、何で何も言わないのよ」

 問題は無いと思っていたのだが、涼子は僕が通り過ぎた後、わざわざ僕の居る所まで歩いて来て、律儀にそう聞いてきたのだ。僕は少々、涼子という少女の性格を、見直す必要があると思った。

「もう、過ぎたことじゃないかな。あの時、本当に迷惑だった。だけど、腸が煮え繰り返るほど、怒り狂うわけじゃない。些細な事だよ」

 あの後、スキンヘッドに殴られて、財布からお金でも盗られていようものなら、ここまで平静かつ大人な対応は出来やしないし、絶対に許す気はなかった。けれども、そんなことにはなっていない。だから、もう僕にとってはどうでも良かった。

「あの後、アイツが私のところへ来た」

 彼女にとって、あの時の出来事は終わっていなかったらしい。僕は、涼子を見つめて、出てくる言葉を待つ事にした。それが、僕のやるべき事だと思ったし、少女に逃げられた後に、スキンヘッドと会話した末路を聞く必要があると、奇妙な男気を持ってしまっていた。

「アイツに何を言ったの?」

「別に、他愛の無い話だよ。彼がどんな人生を歩み、どんな付き合いを君としてきたか。そんな話さ」

 涼子は、僕の言葉を聞いて、舌打ちをした。それはもう、はっきり憎たらしいとばかりに見せ付けられた。けれども、僕は対して咎めなかった。僕は、彼女がこれほど僕を憎む理由を知らないからだ。

「ありがとう。なんて言った理由がわかった気がする」

 スキンヘッドはそんな事を言ったのか。

「アンタ、何がしたいの?」

 おかしなことを聞いて来る。

「何が?」

「知らないの?」

「だから何が」

「アイツのこと」

「小学校から野球をやってた」

「そうじゃない」

「君の事を本当に好いてた」

 涼子は盛大にため息を吐き出したけれど、僕には何がなにやらさっぱりだった。

「彼、大友公平っていうの」

「へぇ」

「知らなかったの?」

「聞かなかったし、言わなかった」

「どうして、名前も知らない相手の過去を知っているのよ」

「その大友公平君はスキンヘッド?」

「そうよ」

「なら、彼が勝手に喋り出しただけで、僕はただ聞いてあげただけだ」

「本当?」

「本当だとも、君に学食の日替わり定食を奢ってあげても良い。それも七百五十円の高い方だ」

 通称肉定食と言われ、かなりのボリュームがある定食で、学食にしては高いが三人で食べれば丁度良いくらいの量はある。運動部が新入部員の歓迎会で、大食い大会をさせるのが密かな定番になっているのはこのメニューのお陰だった。

 涼子は、不機嫌そうに体重を右足に乗せて、左ひざを少しだけ曲げた。右手を腰につけて、くの字を作り出して僕を見上げてくる姿は、凄く可愛かった。子供らしいけれど、十分大人の身体で、大学の図書館に居るのだから、僕は彼女が大学生かもしれないと思った。

「何か言ってた?」

 涼子は静かに呟いた。不機嫌な顔はそのままだったけれど、少しこちらの様子を伺うような手探り感を覚える声だった。

「何かって?」

「たとえば、そう。人生に疲れたとか」

「彼は、ずっと疲れていたし、人生を諦めていたけど」

「えっ?」

 涼子は、少し惚けたように声を挙げた。

 僕はそんな涼子を他所に、足が疲れたので、適当な椅子に腰を落ち着ける。涼子は暫くして、僕の横へ寄り、隣の椅子へ同じように座って、此方を見つめてくる。

「どういう意味?」

「そのままだよ。生きていく事に疲れているようで、諦めていた」

 そう、彼は諦めていた。偽る事で、辛うじて生きていたようなものだった。

「そう」

 だから、涼子が僕に声を掛けてきた理由を、知ることも出来た。問い掛けてきた内容で、察する事が出来た。

「君が、悩む必要は無いと思うけどね」

 気付けば、僕はそう口に出していた。

「何よ」

「いや、君が大友君の事で悔やむ必要は無いと言ったんだよ」

「だから、どうして私が」

「では、何故だろう」

 僕は涼子を見据えた。横に顔を向けて、真正面からとは言いがたかったけれど、しっかりと見据えた。涼子は少しだけたじろいだけれど、僕から視線を外す事はしなかった。

「君は、どうして怯えているんだ?」

「意味が判らない」

 雨音が強くなった気がした。僕は、視線を外して後ろを振り向く。窓には白いカーテンが掛けられていた。

「言葉を変えよう」

 涼子は、動揺を隠していたけれど、瞳の激しい揺れが収まる事は無かった。

「君はどうして、僕に声をかけたの?」

「それは、アンタに迷惑をかけたから謝ろうと」

「だったら、出だしから間違っていないかな?」

「言いにくいじゃない」

 いきなりごめんなさい、巻き込むつもりはなかったの、許して。なんて言えるわけない。

 彼女はそう言って、顔を背けた。逃げるように背もたれに身体を預けた。僕はそれを追うように、背もたれに体重を掛けて、前を見つめた。視線の先には、学生の一人であろう男の子が、分厚い本を捲って、ノートに書き写している。レポートでも書いているのかもしれない。丸写しかどうかは判らないけれど、その学生は真剣な眼差しで、辛そうだった。

「でも、大友君の話をする必要は無かったんじゃないかな」

「煩いなぁ。いいじゃないそんなこと」

 僕の先入観からか、黒髪セミロングで、ぱっちりとした瞳を持った小柄な少女からは、およそ想像も出来ないほど、砕けた言葉遣いを使う涼子だったが、僕にはどうしてもそれが、彼女の魅力に感じられてしまう。

「ごめん」と僕は謝った。

 虚勢を張っている姿。僕には、涼子という少女が大人になろうと、精一杯背伸びをしているだけに思えてならないし、きっとそう思ったから微笑ましく可愛らしいと、感じたんだろう。そう考えていた。

「ねぇ」

「うん?」

「私の何処が良かったのかな」

 素朴。心の底から、本当にそう思っているから零れた言葉だと僕には思えた。横に視線を向かわせると、彼女は学生の姿をじっと見つめているようだった。

「容姿が一番。そして、羨望と希望かな」

「訳わかんない」

 彼女は笑った。その笑みは薄い紙切れのようだと思った。どうしてか判らないけど、すぐに破けてしまう繊細さを、覚えた。

「今時、黒髪の綺麗な女の子は珍しいって事」

 僕は、努めて明るく喋った。図書館という事で声量は勿論下げてだけれど、とにかく努めた。

「そうかな」

「そうだよ」

「見てるの?」

「男が女を見るのは本能だだと思う」

「私は?」

「勿論。あの時、大友君じゃなかったら、助けていたかもしれない」

「ありがと」

「どういたしまして」

 それきり、涼子は手に持っていた文庫を開いて読書を始めた。さっぱりしているようで、その実、とても気難しいのかもしれない。

 僕は席を立った。読書している涼子は僕を見る事も無かった。

 奥に進んで、適当に本を選びながら考えてみる。僕は今、どうして小難しい辞書を前にして悩んでいるのかを。この辞書を手にとって、重いと感じつつもページを捲ったとして、僕に何の意味があるのだろうか。

 涼子を眺める。小柄な少女だった涼子は、もっとちっぽけな存在に見えた。

 何やってるんだろう、僕は。

 ため息を吐き出した後、分厚い類語辞典を両手で持ちながら、僕は涼子の隣に座った。先ほどと変わらず、目の前では、学生が必死に何かを書いているし、横を見れば涼子がページを捲っている。

 僕はおもむろに、辞書を紐解いていく。何かを調べようとか、そんなつもりは毛頭無かったし、どうせなら哲学書とか、もう少し文章として読めるものを、手に取れば良かったと思う。これでは、僕が隣の少女を気にかけている事が露骨に判ってしまう。

 墓穴を掘った状態に陥って、僕は思わず頭を掻いて天井を見上げた。面倒ごとは嫌いだったはずだし、出来れば関わりたくはなかったはずだ。だとするならば、今、僕がしようとしていることは、どういう風の吹き回しになるのだろう。

 恋かも。

 まさか、僕がこの少女を好くのか。いや、好きになる理由を挙げろと言われれば、何ともなしに言う事が出来てしまう。

「今までの生活を送れば、それで良いんじゃないかな」

 考えるのは辞めた。やりたいから、僕は喋りたいから口を開いた。そう、これは僕の独り言で、隣で読書している少女には関係ない。

「悩む事が悪いとは思わないけれど、そうしたところで何かが変わるなんて事は無い。それこそ、イノベーションみたいな閃きでも起これば別だけれど、そんなもの簡単に沸いてくるわけも無いし、経験が蓄積されていなければそれこそ無理だ」

 誰かの大きなくしゃみが響いた。目の前の学生はそんなことに気にする様子も無く、小さくため息を吐き出して、レポートを読み直している。完成したのかもしれない。

「どうしたって、変われない事はある。どうしようもない事はそれこそ、沢山ある。むしろ、それが普通で悩むのが馬鹿らしくなる」

「判ってる」

 涼子は小さく呟いた。

「だけど、思うだけなら良いと思わない? 切欠にしちゃいけないの?」

「悪いとは言わないよ。だけど、それで陰鬱になる必要は無い」

「アンタには判らない」

「判らないね。君は既に変わっているのに、その事に気付かないなんて」

 涼子が僕を見た。僕は視線に気付いて、彼女の顔を眺めた。その表情は惚けているようで、それが愛らしかった。

「どういう事」

「君は変わろうとした。そして、気付いていた。大友君が本当は良い人で、君に憧れを抱いていた事に」

 僕は視線を戻す。

「デタラメ言わないで」

「うん。これは、勝手な推察で、独り言かな」

 本当に、何でだろう。似合わないと思っていた二人の男女。実は、中身を見れば案外お似合いだったかもしれない事に、気付かされた。

「自信が無かった。それとも、期待される事が嫌いだった。期待したかったのに、頼りたかったのに。その相手から逆に期待され、頼られた」

 面白い。気付けば僕の中から、喜びと楽しさが沸いてきて、笑顔を作り出していた。

「幻滅した、といよりも、同類だと知った安堵があった。けれど、望んではいなかった。本当は、誰かに依存したかったが、それが叶う環境ではなくて、必死に自分を殺して生きてきた」

 目の前で推敲していた学生が席を立って何処かへ行った。僕は少し、レポートの内容に興味を持った。彼がアレほど真剣に打ち込んでいるものは一体何だろうか。

「アンタ、友達居ないでしょ」

 涼子が言った。

「正解。でも、これが地なんだから仕方が無い」

 深い付き合いのある友人は居ない。当たり障りの無い広く浅い付き合いが僕の交友関係の全てだった。

「正直、羨ましいかな」

「そうかな」

「そうよ」

 涼子は、本を閉じてテーブルの上に置き、手を乗せた。

「何で、ありがとうなんて言われたか判った」

「それは、良かった」

「私の責任じゃなかったのね」

「そうだね」

「アンタは、何とも思わないの?」

「それほど親しい仲じゃなかった。一度きりの出会いだったからね」

「でも、アンタが死なせたようなものじゃない」

「そうかな」

「そうよ」

 何度目かの同じやり取りがなんだか可笑しくて笑いあった。

「死にたかったから死んだんだよ。大友君は、ただ死ぬ決心がつかなかったから、生きていただけだった」

 涼子は、僕を見つめているけれど、その顔は先ほどのような少女ではなく、一人の女のように憂いを見せる妖艶さがあった。

「そんな時、君に出会った。大友君は、戻りたかったんだ、昔の自分に。だから、昔の自分がしたかもしれない行動を取った。そして、助けた君にあろう事か憧れてしまった。どうして君に憧れたのかは解らないけれどね」

「勝手な話よね」と涼子は言った。

「そうだね。独りよがりだと思う。だけど、それは君も同じで、二人は案外お似合いだったかもしれない」

「アレと?」

「アレと」

 僕は”アレ”呼ばわりされた大友君には申し訳ないが笑ってしまった。涼子の顔がしかめっ面になったのが可笑しかった。

「相成れない。だけど、お似合いだった」

「何それ、矛盾してる」

「だと思う」

「で?」

 涼子は先を急かしてきた。

「大友君にも、君にも二つの人間が居たんだ」

「二つ?」と涼子は口を開いた。

「二人じゃなくて?」

「うん、二つ」

「外見と内面って事?」

「外見は、確かにお似合いではなかったね」

 僕の言葉に、涼子は前を向いた。

「私だって、苦渋の選択だったの。ちょっと、優しくしたら好きだって言われた。断ったら、付き纏いよ? そりゃ、もう不良の彼氏が居るくらいしないとダメだと思ったの」

 なるほど。

 確かに、それは大変だと思った。経験はないけれど、とにかく大変そうだと共感は出来た。

 そんな事を考えていると涼子が、訝しげにこちらを一瞥した。どうやら、僕の言葉を待っているようだった。

「外見というよりも、内面に二つ居たんだよ。相成れない存在同士がそれこそ陰陽みたいな関係で」

 僕は静かに口を開いた。

「大友君にも君にも、二つの大友君と二つの君が居た」

「片桐」

「えっ?」

「片桐涼子。呼び捨てでもいい」

「えっと、じゃあ、片桐さん?」

「何よ」

 これも、彼女の魅力の一つなのかもしれないと思った。呼び名を気にして名前を教える少女。

「片桐さんには、二つの人間が居る。素の自分と偽りの自分。そのせめぎ合いによって、片桐涼子という人間の内面が構成されている」

「そういうものなの?」

「これは、勝手な話だから、深く考えたらダメかもしれない」

「判った。でも、解る」

 涼子は、小さく頷いて見せた。

「大友君にも二つあった。輝かしい人生を歩んでいた中学校までの自分と、挫折を経験してから転げ落ちて行った自分。どちらも同じ大友という人間なのに、彼は過去の自分を理想の中で美化して行った。あの頃に戻りたいと切に願い始めていた」

 僕は、ゆっくりと口を動かす。ここには、水っぽいコーヒーが無いから、少し粘つく唇が嫌らしいと感じた。

「片桐さんにも二つある。変わりたいと願う自分と、今までの自分。どちらも同じ片桐涼子という人間なのに、変われる事で世界が変わると本当に思っている」

 涼子は腕を組んで見せた。既に、僕の隣に座っている片桐涼子という少女の怯える様子は消えていた。漠然としながら、空気を小刻みに震わせて、言い知れぬ恐怖を必死にその華奢な身体で受け止めていた彼女は、今とても綺麗な姿をしている。

「実のところ、何も変わらないし、戻る事も出来はしない。人間は一人で、過ぎ去ったから過去で、まだ訪れていないから未来で。過去は望んでも無理な事で、未来は未来で絶対訪れるけれど、その未来から逃れる術は無い。どんな未来だろうと訪れる」

 一人の少年は昔に夢焦がれて、今と未来に絶望してしまった。

 一人の少女は昔と今に絶望して、未来に夢焦がれてしまった。

「戻ろうとする事は無理だけれど、変わる事は出来る。けれど、それは今しか出来ない。今という不確定な場所でしか変われないし、融通も利かない。それを知りながら、片桐さんは未来を夢見た。もしかしたら変われるかもしれないと願った。だから、後悔している。所詮は幻想でしかなかった事だと。そう思いたいのに、気付けば新しい幻想を抱き、未来を夢見る」

 少年は、戻れぬ事を知り、生きる意味を失った。だけれど、夢を見せてくれた人に。希望をほんの一瞬でも見せてくれた少女に感謝出来るほど、変われる事が出来ていたはずだった。

 それが”死”という結果になってしまったけれど、大友君が決めた事なので、対して親しいわけでもない僕がとやかく文句を言う必要も無ければ、悲しんであげる道理も無い。

「前を見ても変わる事は出来ない。今を見なければ変わった事に気付きもしない」

 少女は、自分を呪った。変わりたいと必死に足掻いたかもしれない。けれど、現実は変わっていなかった。だからこそ、誰かに縋りたかった。けれども、今まで積み上げてきた自分自身がそれを邪魔してもいた。

「大友君が死んだところで、何の影響も無い。僕にとって、既に彼は過去の人で、僕に何をしたというわけでもない。」

 歯がゆい思いをしていた中で、少年と少女は出会った。最初は、希望を。そして直ぐに失望を両者に等しく与えた事だろう。

「感傷すらない。そもそも名前すら知らなかった人の死を悼むほど僕は優しくはない」

 何故、少女がここまで苦しみ、悩まなければならなかったかを知る術を僕は知らないし、正直に言えばあまり興味が沸いてこない。

「今、か」と涼子は呟いた。

「今なんて考えた事無かった」

 せめて、僕は気付いて欲しかった。ただ、なんともなしにそう思った。

「いつも今を生きているけれど、それは目に見えた時、肌で感じた時、頭で考えた時。既に、過去になり、新しい未来が迫ってきているんだから、難しいかもしれないね」

「難しい話は苦手」

「時の流れをどう区切るかで、解るのかも?」

「どうやって?」

 涼子は僕を見た。そこには、僕が出会った事のない少女が、好奇心旺盛な大きい瞳を輝かせながら座っている。

「一日と今とするか、一時間を今とするか、それとも一秒? コンマの単位まで細かく刻む?」

「なるほど、自分で決めれば良いのね」

「片桐さんは、片桐さんの世界で生きていけば良いんだよ。何も、他人の世界にあわせる必要は無いし、社会に合わせようとしなくても良い」

「それ、本気で言ってる?」

 涼子は不満そうに口を尖らせた。

「勿論。きっと理解してくれる人は出てくる。いないなら居ないで、カルト的な人気者になる可能性もある」

「何それ」

「異端者は勇者になるか魔王になるかの二択しかないってこと」

 評価されない人間は居ない。それこそ、評価されない人間は、存在している事を認識すらされていないだろう。

 良い、悪い。どちらにしても、評価してくれるという事は、客観的に自分を見つめなおす事が出来る手段の一つだ。

 彼女は、今、僕と大友君という、人から今まで受けた事のない評価を貰ったんだ。これを生かすも殺すも、彼女自身。

「そう、かな」

「そうだよ。だから、大友君は魔王になって、君は魔王になりかけてた」

「笑えない」

「でも、片桐さんはもう」

「解ってる」

 涼子はそう言って微笑を浮かべた。

「そう、なら良いかな」

「うん」

 目の前に居た学生が帰って来たのを僕と涼子は確認した。彼は、またレポートを執筆し始める。

「もう行くね」

 その様子を見ながら、涼子は静かに席を立った。僕は、止める事もせずに目の前で作業する学生を観察していた。

「ねぇ」

「うん?」と僕は顔を横に向けた。

 涼子が、僕を見下ろしている。

「付き合ってって言ったらアンタはどうする?」

「どうだろう。言われた事が無いからな」

「馬鹿」

「ごめん」

「でも、思ってくれる?」

「お安い御用で」

「ありがと」

 僕は席を立つと、学生の後ろへ向かう。彼の肩からレポート用紙を覗き込む。

 なるほど。

 彼はレポートなんて書いていなかった。

「君」

「えっ?」

「これは、小説かな?」

「あ、はい」

「読んでも良いかな?」

「えっ? でも、まだ推敲の途中で」

「出来ているところまでで構わないから。興味があるんだ」

「あっ、はい。なら、どうぞ」

 それは、在り来たりな男女の恋愛小説だった。

 主人公は男子高校生でヒロインの女子高生を不良から救い出した。けれど、二人の第一印象はあまり宜しくない。だけど、学校生活を過ごす内に打ち解けて、やがては結ばれるのだろう。

 僕は、興味を持った事を後悔した。視線の先には、期待を込めた視線を向ける学生が居る。まるで、夢見る純粋無垢な少年だった。

 さて、どう言えば良いのだろうか。



(了)



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