地球最後の花嫁―宇宙人とエンゲージ?!―
西暦一九九七年。事の始まりは、米国西海岸。波と戯れるサーファーたちが、いつもより高い波に目を輝かせていたとき――ジョージ・ワトソンは誰よりも早く異変に気づき、驚嘆の声とともに、海を指した。
彼の指さした先。一人の男が、海の『上』に立っていた。それは、全身に白いライダースーツのようなものを纏った長身痩躯の男。やけに肌の白い男を眺めて、ジョージははじめ、それを撮影しているはずのカメラマンを探した。しかし、いくら首を巡らせても、機材も撮影スタッフも見当たらない。一人またひとりと海を指して騒ぎ始める者が増えるうちに、白い男の足元から何か砂状のものが溢れ湧き出た。海水を消失させ、増え続けるものは勢いを増して浜辺を越える。異変に気づき、顔色を変えた頃には時既に遅く、それはジョージの足首を覆い隠して逃避を阻む。白い砂のようなものは、そのまま彼の太ももまで。恐怖に喘げば、白い粒は口内を浸して蹂躙する。舌先が感じた刺激に、己を覆い尽くさんとするものを、ジョージはようやく理解した。それは、塩化ナトリウム――白い男の足元から溢れた塩の波は、驚愕する人々を巻き込み、次々と塩の柱へと姿を変える。アメリカ大陸西海岸全域は塩で覆われ――人々を恐怖に陥れたのである。
それを始まりとして、世界各地で異変が相次ぐ。
ソ連に全長五十メートルの氷の巨人が現れたかと思えば、イタリア北部で植物が急速に生い茂りジャングルと化し、エジプトは国土の六十パーセントが水に覆われた。
テレビは連日大騒ぎ。地球外生命体の襲来。突然変異。天変地異。あらゆる専門家が、激論を交わす中、確認されただけでも変事の数は片手を超す。対処のために国連に派遣された連合軍が、何もできぬままに壊滅する中。成す術のない人間たちは、ついに世界の終わりが訪れたと、誰もが空を仰いで絶望する。
しかし、遠き極東の地――その世界が覆るような異変を、桐生アザミは知らなかった。台風十六号の嵐に紛れて、はじめて外の世界に逃げ出した、テレビさえ見たことがない十五歳の少女には、自らの運命は、いまだ遠い世界の話だった。
*
地球激震の日より一年。昭和七十三年。七月。
桐生アザミの朝は早い。目覚まし時計といったものは必要なく、毎朝日の出とともに覚醒は訪れる。ぱちりと一度開いた目にまどろみの気配はなく、彼女は一度大きく伸びをするとすぐに起き上がり、布団を畳んで部屋の隅に寄せた。元々物置だった部屋だ。クローゼットには布団を収納するだけのスペースがなく、部屋の中には段ボールが積み上げられたまま。一年前。急遽少女が居候するようになったときの名残だ。
それを眺めて、アザミはパジャマがわりのTシャツを脱ぎだした。男物のTシャツは、マスターのお古。新しいものを買ってあげるから捨ててはどうかと、何度もマスターに言われてはいたが、アザミは頑なに首を振っていた。それは、はじめてマスターに貰ったものだ。丁寧にTシャツを畳み、丈の長い紺色のシャツワンピースに着替えてから、手早く髪を纏める。幼少期より長く伸ばした髪の毛は、腰につくほど長い。それを一本の長い三つ編みにして、さらに後頭部で輪にして括れば、身支度は終わりだ。部屋を出たアザミは軽やかに階段を駆け下りた。少女が居候する建物は、三階建て。一階が店舗で、二階がマスターの居住区。そして、三階が、元物置のアザミの部屋。二階の廊下を進む途中、マスターの部屋の扉を小さく、三度ノックする。勿論寝起きの悪い彼はこれでは目覚めないだろうが、毎朝の習慣だ。
廊下を進み、さらに一階に続く少し急な階段を下りていくと、そこは『ちきゅうや』という看板のかかった小さな喫茶店になっていた。レースのカーテンから、朝の陽ざしが差し込んで、生けた野草に降り注ぐ。花瓶の水をかえたあと、冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いで飲み干した。朝のルーチンをこなすアザミは、最後に内鍵を開けて、喫茶店の扉を開ける。ドアの横に設置された赤いポストから新聞を取り出し、見出しを眺めた。
「えっと……こおりの、きょびと、きたがみか? きょびと? きたがみさんは、きょびと?」
「それはですね……『氷の巨人、北上か』ですよ」
おっとりと訂正する声がきこえて、アザミの顔に笑みがひろがる。
「あ、マスター! おはようございます! 珍しく、はやいですね」
「はい……おはようございます……アザミ君が早いから……僕も早起きするようになっちゃいました」
ふああと、大きく欠伸をするのは、三十代前半ほどの中肉中背の男だった。喫茶店『ちきゅうや』の店主であり、アザミの現在の同居人である『マスター』だ。
「でも、瞼がくっつきそうですよ」
「はい……おやすみなさい……アザミ君」
「……えい」
しょぼしょぼに細まったマスターの瞼を、指と指とで無理やり押し開くと、ぎゃあと悲鳴があがる。マスターは朝が弱く、いまだ夢ごこち。ソファにぐったりと体を預けている彼を横目に、テレビをつけた。今朝のニュースは、イギリスに謎の濃霧が発生した速報と、ソ連に出現した氷の巨人が観測不明となっているとのニュース。見慣れた日常だ。地球激震の日から、一年。人間というものは図太いもので、崩れた日常が当たり前となれば、順応して適応する。マスターの健やかな寝息と、テレビの音だけが流れる場で、アザミは朝食の支度にとりかかった。朝食は、ホットサンド。マスター手製の食パンをトースターで焼き、ゆでたまごに、マヨネーズとからしをあえて、お隣さんにもらったきゅうりを切ってはさむ。野菜は貴重だから有難い。完成品にオレンジジュースを添えて、マスターの前に置いた。
「マスター、ご飯にしましょう」
「ああ……すみません、アザミ君がいてくれて、本当に助かります。一人のときは、朝ごはんなんて食べてなかったんです……」
寝ぼけたままに、彼はアザミの頭をなでる。ただでさえ細い目を、糸のように細めて彼は謝るが、アザミはこっそりと幸せをかみしめる。頭に乗せられた手を意識して、ほっぺたを赤くした。彼に恩返しができるのならば、朝食ぐらい容易いこと。マスターには、恩義がある。彼は何の縁もゆかりもないアザミを匿い居場所をくれた。世間知らずで字も読めなかった少女に根気よく付き合って、果ては喫茶店のウエイトレスという職まで与えてくれた。ホットサンドをナイフで切り分けて、一口にしたものをそっと口に入れてかみしめる。しあわせの、味がした。しかし、そんな二人のなごやかな朝の風景を、サイレンの音が切り裂いた。深く地の底から鳴り響くような警報の音。またかと、思わず窓ガラスの外を眺めたアザミの横で、ぱちりと、マスターが覚醒する。
「アザミ君」
まどろみから覚めた目が、細まって笑みを作った。
「先に逃げていてくれますか? 僕は、町子さんを手助けして行きますので」
町子さんというのは、喫茶店の隣に住む独居老人である。マスターはてきぱきと、階段下の避難用ザックをアザミに手渡すと、自身も安全靴を履きはじめた。
「……でも」
「だいじょうぶ。人混みについて行ってください。必ずあとで行きます。いざという時は、町内会長の田中さんを頼って。アザミ君のことは話してありますから」
きっぱりとそう言われれば、アザミは伸ばし損ねた手を握り、頷くしかなかった。
*
避難は五度目だけあって滞りなかった。市民の混乱も最低限に抑えられている。統率された群衆は、無心に小学校を目指して坂を上る。辿りついた小高い丘から、眺める景色もまた見慣れたものになりつつあった。
「この警報。今度は何だ。市の職員は何をしている」
「……市長は……何でも、県境に……」
大人たちが何やら難しい話をしていたが、アザミには興味がなかった。彼女は校門を眺めて、そこに求める姿を探し続ける。
「…………マスター……」
いくら待っても、彼は現れない。待つことにも飽いた頃。周囲の人混みが、突然騒めいた。声につられて頭をあげると、少女は大きく目を開いた。人々の指さす先には、紙面やテレビの画面越しに幾度と見た光があった。横一線。伸びた光は建物を薙ぎ払って、焼野原へと変える。
――あれは。
光源は遥か先で捉えられなかったが、熱線は幾筋も伸び続けた。その度に、崩壊する慣れ親しんだ街。何故。嘘だろ。どうして、この街に。遠く指さす人の声が、嘆きを帯びて重なる。しかしその声は、アザミの耳には既に届いてなかった。彼女は立ち上がり、避難する人波に逆らって走る。マスター。アザミは歯を食いしばって、坂を駆け降りる。マスター。マスター。心の中で何度も呼んで、溢れそうになるものを必死に堪えた。
『あなたは、わたしの全てです』
記憶の向こうで、揺れる黒髪。心の臓を掴まれたような、圧迫感が胸を占める。転げ落ちるように坂を駆け降り、上がった息を無視して走り続けた。そうして、親しんだ通りに出れば、電柱は傾き、崩れた家屋が道路を塞ぐ。変わり果てた街の様子に呆然と足を止めたのと、地響きに足が崩れたのは同時だった。咄嗟に地面に手をついたアザミの瞳が、助けを求めて周囲を巡る。その目が、ようやく望んだものを捉えた。
「マスター!」
三十メートル程先に、老婆を背負ったマスターの姿が見えた。掛けられた呼び声。それに、彼はひどく驚いた顔をして――アザミを、怒鳴りつけた。
「馬鹿! はやく、逃げるんだ!」
「え?」
彼の視線の先――アザミは空を見上げた。テレビの向こうにあったはずの光景が、目前に迫っていた。崩れ落ちるマンション。頭上に迫った、落石。スローモーションに流れる景色の中。ああ。私、死ぬんだと、事実を受け止めたアザミの上に絶望が雪崩落ちた。
*
アザミは幼いころから無茶ばかりして、手の付けられない子供だった。松の木に登って枝を折るなど日常茶飯事。大人たちに叱られる姿は日に一度や二度どころではなく、木に吊るされた時など、何をしたかと問われれば、御上の膳を盗み喰らったとけらりと笑う。アザミはいつも周囲を驚かせてばかりいた。誰もが彼女の自由な姿を目で追って――笑顔や憤怒、果ては唖然とした顔と、多種多様な表情を浮かべた。あの閉じられた空間で、アザミだけが光だった。
*
「う…………」
飛んだ意識が戻ると激痛が襲ったが、同時に、己が生きていることに驚いた。見上げた瓦礫は回避可能なものではなく、アザミは確かに死を覚悟した。何故無事なのか。当惑しながら視線を巡らす。どうやら瓦礫に埋もれたようで、背中にコンクリートの塊の感覚があった。暗闇の出口を求めて、少しでも明るい方へと目を向ける。光を求めた瓦礫の合間。切り取られた空を見上げれば、人影が視界にうつって、咄嗟にマスターと声をかけた。
「光に導かれ、探し、求め続けたものが、これか」
しかし、その影は望んだ人ではなく、光の先から幼さを残した声が落ちてくる。逆光となった姿は、闇。その中で、ただ黄金に輝く瞳が爛々と光る。
「これがオレの花嫁だと。これでは、岩も砕けぬぞ」
影は深く息をつく。その言葉の端々には確かな失望が混じるのに、その金色の瞳は熱を持って、一心にアザミに注がれる。その視線にからめとられて、少女は息をとめた。硬直する少女に向かって――矛盾を抱えた者は、傲岸に言い放つ。
「まあ、いい。貴様、オレとエンゲージしろ」
光に慣れてきた目に焼き付いたのは、石の上に立つ全身黒づくめの少年だった。それは、十二、三歳ほどの年下の子供。猫の様に吊り上がった、大きな目がひどく印象的で――まばゆく光る金色の目に見つめられた身体がこわばり、訳も分からぬまま鳥肌が全身を覆った。その瞳の中、縦に伸びた瞳孔に、ああ。本当に、猫のようだと、アザミは思った。思ったところで、呼吸を忘れた少女の体が限界に達し、彼女は意識を手放した。
*
七つのとき。手を引かれるまま、はじめて部屋を抜け出した。束の間の自由に戸惑いながら、地面を踏みした素足。ぺちゃりと、小さな足が濡れた。乳母が見たら仰天して腰を抜かしたことだろうが、雨に濡れた大地を踏みしめたとき、頭の中で星が弾けた。足の合間に泥が入り込んでくる感覚。初めての世界の感触に、閉じた殻が割れたような衝撃を受けた。思わず見上げた夜空も、踏みしめた大地も、何処までも広く繋がり続いていた。世界の広さに眩暈がした。幾度として貴女は不自由だと、乳母子に言われ続けたようやく意味を理解した。はじめて――自分の世界が閉じられていることを、強く。感じた。
その後、すぐに見つかって連れ戻されてしまったが、途中迷い込んでしまった局で、ちいさな子猫をみつけた。それは、足の先から頭のてっぺんまで真っ黒な猫だった。にいにいと、泣き続ける声をきいて、無視することができなくて、その黒猫の、金色の瞳に魅せられて、幼い少女は手を差し伸べた。逃れられない、子供たち。意味がないと分かっていても、その小さな仔に、少女はクロと名前をつけた。
*
言い争う声が聞こえた気がして、目が覚めた。
「……ま、す、たぁ……?」
「はい、おはようございます。アザミ君」
半分は寝言のような呼び掛けだったが、即座に彼は応えた。その声は、いつもと同じく柔らかいのに。その手は、穏和という言葉とはかけ離れたほど強く、痛みを伴うほどアザミの手を握りしめていた。
「マスター? わた……し、ど……して」
「はい。おかえりなさい。アザミ君……心配、しましたよ」
周囲を見渡すと、目覚めた場所は喫茶店『ちきゅうや』。店内は割れたガラスが散乱し机が倒れて荒れ果ててはいたが、やはり、慣れ親しんだ場所に来ると安堵が勝った。ほっと息をつくと、緊張をといた体に激痛が襲う。頬にガーゼ。膝に包帯。動いてはだめですよと、更に手慣れた様子でマスターはアザミの左手に添え木をする。怪我の対処を淀みなく行うので、何処で覚えたんですかと問いかければ、昔、少しと、彼が言う。町子さんはと問いかければ、無事避難させましたと、彼は微笑んだ。しかし、ふと。マスターの微笑みにいつもの柔らかさがないことに気付いた。一見普段と変わらぬように振る舞う男。彼は尋常ではない緊張を纏っていた。彼の意識の元を探り、アザミは薄暗い店の隅に視線を向けた。
「誰……?」
そこにいたのは、気を失う前に見た少年だった。激情を宿してアザミを見つめる姿は、毛を逆立てた猫のようだと、咄嗟に思ったアザミの目と、彼の目が合わさった瞬間。訳も分からぬまま全身が怖気だった。
「ああ、やっと目覚めましたね。花嫁」
緊迫した空気の中。響いた声は少年のものではなかった。戸惑うアザミが声の主を探すと、それは、ふよふよと彼らの前に浮いていた。
「え」
口の部分にファスナー、毛並はナイロン。抱き心地の良さそうなサイズのそれは、どう見ても兎のぬいぐるみ。宙に浮いた人形は、開いたファスナーの口から、お会いできて光栄ですと言葉がこぼれる。
「ワタシはこの黒いのに仕えている、かわゆい兎さんです、えーと、名前は。まあ貴女方に言っても発音できないので……そうですね。ピー・マンとでもお呼びください」
「……ピー・マン?」
「絶妙な苦み。苦痛の果てにある、ほのかな甘み。癖になっては抜け出せない、そんな、男に、ワタシはなりたい」
つまりはワタシも、大人の味です。なんて、きらりと赤い目玉ボタンを輝かせる兎。一年前。飛び出した外界には知らないものが溢れていた。自動車に電車、テレビ。今度は喋るぬいぐるみ。世の中というものは、どうやらアザミの理解の向こうにあるらしい。少女は傍らの大人の袖を引いた。
「マスター、あれ、中に、なにか」
「中の人などいない!」
カッと目を見開いた兎が大声で叫んで、牙を剥く。アザミは驚き一歩引いた。
「はっ……いけないいけない……ぬいぐるみ被って親しみやすさを無理矢理演出。花嫁の警戒心を解くという……素晴らしき計画が……テイクツー! お会いしとうございました! 桐生アザミ様! 我らが求め続けた花嫁!」
何やらぶつくさと言っていたぬいぐるみが、思い直したように、両手を開いてにこやかにこちらに近寄ってきた。アザミは、マスターの袖を無意識に握りしめながら、彼の影に隠れて問いかける。
「……は、花嫁って、私が?」
「ええ、そうです! 貴女様は、こちらの第四皇子の花嫁となることが定められた、残念な方なのです! さあ、思い切って、これとエンゲージ!」
「……えん、げーじ? エンゲージって、何? 何を、するの」
「ああ、そんなに怖がらないでいいんですよ。初めは痛いかもしれませんが……難しいことは何一つありません。エンゲージというのはですね」
ただ。そういって、兎はさも当然のように言い放つ。
「体液を交換するだけです」
ぼぐっと、綿が抉られる音が響いた。暴走するぬいぐるみを黙らせたのは、立ち上がった黒づくめの少年だった。
「貴様は、それ以上しゃべるな」
彼は兎を殴りつけると、口のファスナーを閉じて投げる。キッチンの方角に飛んで行ったものを横目に、マスターは少年からアザミを隠すように立ち上がった。
「君は……君たちは、人間ではない、ですね。アメリカの塩の男と、同じモノ、ですか」
「カンがいいな。地球人」
緊迫が増す場に、マスターの袖を強く握りしめると、同時に室内のプレッシャーがより高まり、少年の刃のような殺気がむき出しになった。ひりつくような緊張の中。黒い少年が、腕を持ち上げる。その人差し指をゆっくりと持ち上げ、先をマスターに向けて、照準を定める――咄嗟に、アザミは二人の間に飛び出した。
「ま、マスターを! マスターを傷つけたら、私、貴方を許しませんっ!」
ぴたりと、少年の手が止まった。二人の視線が合わさり絡めば、金色の瞳に吸い込まれた。沈黙が続く。長く続いた静寂の果て。先に顔を逸らしたのは、少年の方だった。
「……くだらん」
彼は無表情を装っていたが、アザミにはその顔がどこか傷ついて見えた。背を向けて喫茶店を出て行く少年の背に、声を掛けようか悩んで手を浮かせる。その手を、マスターが握った。
「追いかけたら、駄目です。あれには、関わるべきではない」
「でも……」
瓦礫に埋まったアザミ。あの、全てが破壊された場で、気を失う狭間。不機嫌そうな少年が――アザミに向かって手を伸ばした。彼女を助け起こし、再びマスターと巡り合わせてくれた。
「マスター。でも。あの子はたぶん私を助けてくれたんです……お礼と挨拶はちゃんとするように、私はマスターから教わりました」
彼が何者だとしても、感謝の心は変わらないはずだ。引き留めようとするマスターの手を離して、アザミは少年を追いかけた。
*
辿り着いた先は近所の児童公園だった。目的の少年は、ブランコに腰掛けて足をぶらぶらとさせていた。真っ赤な頬を膨らませた姿は、奇異な瞳を持つとはいえ、宇宙人には見えない。近寄って声をかけると、彼がぱっと顔を上げた。少年は――これでもかというほど刻まれた眉間の皺をさらに凝縮させて――吠えた。
「ますたー、ますたー、ますたー! そればっかり! いいか、貴様を助けたのは、オレだ! ……なのに、何故。他の男といちゃいちゃしている!!」
は。と、目が点になった。あの、と。興奮する少年に呼び止めるより早く、彼はブランコから飛び降りて、地団駄を踏んで訴える。
「あの男は、大人だ!」
分かるだろうと。怒りに燃える目がアザミ射抜いて告げる。あれは、欺瞞に満ちた大人だと。
「大人なんて、大嫌いだ! 奴らは身勝手な価値観ばかりを押し付けてくる。オレの髪が黒いのは生まれつきであって、不浄などではないというのに……! 第一、貴様も散々大人に都合よく利用されてきただろうに、何故大人を……あの男を! 信用するのだ」
突如話を振られて驚いたが、アザミの心は落ち着いていた。彼の声に波打つ心はなく、彼女はただありのままを受け取る。彼の言う通り、アザミは幼き日より大人の顔色を窺い生きてきた。ゆえにアザミは知っている。この少年に言われるまでもなく――怒れる少年が、次に告げる真実を、ずっと前から知っている。
「貴様は、あの男に騙されているのだぞ!」
『アザミ君』
ただでさえ細い目を、糸のように細めて笑うひと。その、やさしい瞳の奥にうごめくもの。彼が何かを秘めていることなど、以前から気付いていた。アザミは、目の前で怒り狂っている少年を眺めて微笑むと、大きく膨らんだ少年の頬をつんとつついた。空気を溜めた頬は、ぷすうと抜けた音をしてしぼんでいく。その様を眺めれば、思わず小さな笑いが零れた。
「な! 何が面白い! 馬鹿にしているのか!」
「ううん。私のこと、心配してくれてるの? 優しいのね。ねえ……あの瓦礫から私を出してくれたのは、君だよね?」
ぷいと、横をむいた顔は、拗ねた子供そのものだった。異星人であることばかりに気をとられていたが、この子が年下の子供だということを強く意識した。
「お礼がいいたいの……だから、君の名前をおしえてくれる?」
「……貴様たちには、発音できない」
え、と戸惑うアザミの前で、彼は口を開いて、自らの名前らしきものを発した。だが、その間、口や舌が動くことはなかった。その音は、例えるならば、テレビを叩き壊した際に鳴り響く、こわれた電子音の羅列だった。アザミは目を剥いた。
「ほら、みたことか。発音できないだろう。オレのことは、好きに呼べ。貴様が、好きに名付けろ」
唇を不満げに持ち上げて、つんと、彼は顔を逸らす。じゃあと、言葉を詰まらせたとき、はじめて気が付いた。目の前の少年は凡そ人と変わらない外見をしているとばかり思ったが、彼の頭頂部には、一本の触角があった。ひょっこりと伸びたそれが、まるでアザミの回答を心待ちにするように、右に左にゆれる。まるで、猫のしっぽみたい。そう思えば、咄嗟に一つの名前が浮かんだ。
「くろ?」
「そう。クロって名前で呼んでも……いい? だめ?」
「…………よい、許す!」
少年の触角が、これでもかと、嬉しそうに回る。あまりに喜ぶので、昔心をわけた猫に似ていたなんて、死んでも言えない。そう思いながら、アザミは笑む。クロ。彼に向かって、頭を下げる。たすけてくれて、ありがとう。と。
手を握って二人で帰路を歩いた。アザミには兄弟がいるが、会ったことは一度もない。年下の少年の手をにぎり、まるで弟が出来たみたいだと、少女はすこし、嬉しく思った。
*
「ただいま。マスター」
「アザミ君! ……おかえりなさい……無事で、良かった」
喫茶店の扉を開くと、からんと、ドアに設置された鐘が鳴る。はっとこちらに振り向いたマスターは心配しすぎて憔悴した様子だった。彼は転げ落ちるように椅子から立ち上がり、アザミの手を取る。
『貴様は、あの男に騙されているのだぞ!』
一瞬クロの声が過ったが、アザミはマスターの手を強く握り返した。彼を安心させるように、はっきりと大丈夫ですよと微笑み、視線を隣の少年へと向けた。
「……改めて、紹介しますね、マスター。この子は、えっと、帝星エディ……エディ」
「帝星エディヴァンダ」
「そう! それ! の、第四皇子の、クロです。はい、クロ、一緒にお辞儀して」
よろしくおねがいします、と二人頭を下げて笑う。固まったマスターに満足したアザミは、キッチンに向かい壊れた冷凍庫に手をかけた。
「なんだ、これは」
数分後。カウンター席に座り込む少年の前に、完成したものを置いてやる。
「なにってクリームソーダだよ」
先程の礼もかねて、アイスは多めに載せてある。本当ならば、この喫茶店『ちきゅうや』の名物。マスターの、ほっこりほこほこホットケーキを振る舞いたいところだったが、キッチンは半壊状態。アザミの今できうる、彼女なりの恩返しがこの、アイスてんこ盛りのクリームソーダだった。
「どうぞ、めしあがれ」
しかし、当の少年はそれを、右に左に眺めて、アイスが溶け始めるほど、用心深く見つめたあと。椅子の上に立ち上がり顔を歪ませた。
「さては! 毒だな! どえらい色をしとる」
メロン味だからと、説明しても緑の液体を突き刺し、子供が吠える。
「しゅわしゅわしとろうが! 胃をとかす、酸性だろう」
炭酸だからね。そう、説明を重ねても、彼は手を戦慄かせて、天をあおいだ。
「毒殺とは……! 我が花嫁たらんものが、なんと嘆かわしい!!」
これ以上の問答は無駄だったので、アイスをすくったスプーンを口の中に放りこんだ。
*
アザミたちが留守の間。マスターは半壊したテレビを修理して映るようにしていた。電源を入れて、ざっと映像の映った画面に拍手する。さすがマスター完璧。二杯目のクリームソーダを満喫するクロの横に座って、アザミは画面を凝視する。割れた液晶に映し出されたのは、崩壊する首都京都の映像だった。
「これを、見てくれるかい?」
マスターが指をさす。その先を目で追えば、映し出されていたのは、凍える氷の巨人の姿だった。無慈悲なる氷の女王。彼女が一歩踏足を踏み出す度に、限りなき蹂躙が都を襲う。唖然とするアザミの横で、クロが言った。
「あれは、一姉様だ」
「……一姉様とは、どなたですか?」
マスターに声をかけられ、むすりと黙り込んだ少年の傍らで、復活したピー・マンがにこやかに笑う。
「皇子には、兄姉が六人いましてね。これを含め全員で七人。あの方は、一番上の姉君。銀に輝く、冷酷なるもの。エディヴァンダが誇る、一の姫君ですよ。それでは、そろそろ本題に入りましょうか……そもそも、彼ら七兄弟が、この星で異変を起こしているのは、まあ、ぶっちゃけ王位争奪戦をしているわけです。彼らは次の王となるべく、この星で花嫁を見つけ、彼らの手助けのもと、玉座を得るために奔走しているわけです。そして此度、皇子は貴女様を花嫁と見定められました」
「……なんで、私なの?」
クロに向かって問いかけたはずが、その声に答えたのも、ピー・マンだった。
「彼ら一族には、本能で花嫁を見定める力がある。いわゆる一目惚れですね。貴女は皇子に選ばれた。彼の生涯ただ一人の人だ。貴女は、皇子の花嫁となる運命なのです」
運命。ここ一年、離れていた言葉を耳にして、アザミは顔をこわばらせた。彼女は唇を噛んで、首を振る。
「……私、結婚なんて……許されない」
「ああ、安心してください。この星の花嫁とワタシたちの『花嫁』は違います。なんていうのでしょうね、そう、花嫁は王の権威の象徴であり、守護者です。我が星では、国民たちが王の花嫁を神のように祀るのです。ですから、ワタシたちが求めるのは、貴方たちが想定する、伴侶としての花嫁ではありません。これの子供を産めってわけじゃないので、安心してください……蠱毒という言葉を知ってますか?」
ふるりと、首を振ると、彼は朗々と説明を続けた。
「一つの壺に、数多の毒蛇や毒虫をいれるのです。中で虫たちが殺し合って、最も優れた毒が残る。その毒をもって、事をなす。エディヴァンダの皇帝は不老不死です。継承にあたり、皇帝はこの星を蟲壺と定めた。己を殺す毒を、あの方は求められているのです」
毒。上機嫌にメロンソーダを頬張る少年に、暗い影はない。分かっていないのかもしれない。つまり彼ら兄弟は殺し合い、最後には己の父を殺す定めを持つという。
「ああ、そんな悲観しないでください。ほら、皇子もこっそり傷ついていますから。花嫁に選ばれるということは素晴らしいことなんですよ。何せ彼らは、花嫁に献身的です。この生意気皇子も、貴女の僕。貴女の言葉には決して逆らいません。できないように、できている。つまりは、銀河を統べるべき一族の花嫁となる貴女には、この世の全てが与えられる。富も、名声も、権力も。欲と名の付くものは、すべて。あらゆる享楽が貴女のもの。その悉くを、思うがままに。貴女に跪かぬものは、一人としていなくなる。皇子が皇帝となれば、更には不老不死までついてくる。貴女は、今至上の権利を手にしているのです」
さいっこうじゃないですか。拳を握って、兎は訴える。しかし、その声は、何一つ。アザミの心には響かなかった。
「……それの、何がいいの」
「なにって! 世界の全てを手にしたようなものですよ! まさか、いらないとでもいうんですか?!」
十五歳まで、あらゆるものを与えられた。望もうが望むまいが、注がれ続けた。飢え喘ぐこともなく、衣食住全てに満たされた日々だったが、それだけだ。マスターがいて、喫茶店の常連さんたちと話して、日々が笑みに満たされた。勿論物資が足りなかったり、失敗して泣くこともあったが、毎日が濃く満たされ、全てがあったときより、今の生活の方がずっと、充実していた。
「うん、私には、必要ない」
「いらないっ……?!」
人形の頭のてっぺんから、裏返った声が飛び出る。
「なんてことだ……! 地球人は、欲にまみれた生物だと聞いていたのに……!!」
ぬいぐるみが挫折を味わっている傍らで、クロが立ち上がった。
「茶番は終わりだ……アザミ。貴様はいらないと言ったが――本当に、そうだろうか。貴様の内には飢餓がある。全てが崩れ落ちるその瞬間。果たして貴様は、何を願う」
え、と。戸惑うアザミの前で、彼は来たと――空を見上げた。
「我が麗しき、一姉様。お会いしとうございました」
彼がそう、呟いた刹那。視界が白に覆われ閃光が走る。収縮し破裂する空気の塊。それが店内を蹂躙する。吹き飛ぶ店のドアと、押し寄せる土砂に、アザミのかけがえのない日常が、奪い攫われた。
*
一年前。少女は、走っていた。
行くあてがないことなど、本当は分かっていた。それでも、振り払うように走り続けた、足に疲労がたまり、もつれて、崩れた。日が暮れるにつれ雨脚が強まり、夜闇に視界がとざされる。逃げ出したときの決意は遠ざかり、次第に、不安が浸食する。幾度も転び、血に濡れた膝。すりきれた手のひら。それでも、彼女は走らねばならなかった。ついには、がくりと崩れた足を動け動け罵り叫んで、血にまみれた足を殴った。立ち止まっていられない、泣いていけないと、己を奮い立たせて立ち上がる。しかし、そうして立ち上がった少女も、再び濡れたアスファルトに足をすべらせた。あっと思って手をつこうとしたときには、顔から地面に激突する。額から血が流れ、ぐったりと倒れた体。立ち上がらなければと、義務感に己を奮い立たせても、崩れた体は思うように動かず、一度こころがくじけると、眼の奥が堪えようがなくあつくなった。心に暗く、入り込む闇。絶望に、耐えていた涙が滲み始めたとき――傘が差しだされた。
『君も、迷子ですか?』
ただでさえ細い目を、糸のようにほそめて笑う。あの人が笑いかけて、傘をさしだした。血も、縁も、出自も関係なく、差し出されたものに、どれだけの価値があるか。たった一人で堪え続けたものが、嗚咽となってこぼれおちる。次々と、溢れる涙が頬を濡らす。
だいじょうぶですよ、と。彼は言った。すこしだけぎこちなく、少女の涙をぬぐいとる長い指先。彼女の頭を撫でる手のひら。その手に、無心にすがりついた。勢いに傘が飛んで、二人雨に濡れた。反射するテールランプ。ざあと、雨水をはじくタイヤの音を聞きながら、いつまでも、抱きしめ返してくれた腕にすがりつづけた。
必ず、恩義を返す。そう願って生きてきた。そう願う事で、生き続けることができた。
*
「……っ」
激痛で、目を覚ますのは何度目だろう。目覚めた体が重いのは、体の不調のせいではない。どうやら体の上にソファがのしかかっているらしく、身動きが上手く取れず、目を開くのも億劫になる。しかし、何とか目を開くと、自分の上にのしかかるものが、ソファなどではないことに気付いて愕然とした。
「マ、スター……?」
彼はアザミをかばうように覆いかぶさっていた。ぐったりと、力ない身体に意識はなく、その肩を掴むと、何かあたたかい液体が、手のひらに付着した。
「ますたー……どうしたんですか、ねえ」
いくら揺り動かしても、彼は目覚めない。焦燥がアザミを浸食していく中。彼の眉間から、つうと一筋、血が伝い落ちていくのを見れば、さあと血の気が引いていった。
「っ……ひどい、冗談……っ。ねえ、マスター!!」
絶望の第二波は、無慈悲に襲い来た。
「ああああああ!!」
破裂した空気にすくい上げられ、二度三度と転げる体。ようやく、止まった時には、抱きしめていたはずのマスターの姿がなく、アザミの下半身は瓦礫に埋もれ、腹から下の、感触がなかった。ただ、すべてが、熱く、目の前が赤く染まる。あのひとを、助けないと。ただただそれだけの使命感で、アザミはつながっているか分からない足を奮い立たせる。ぶちぶちと、何かがちぎれる音がして、脂汗が噴き出した。しかし、それでも少女は瞳を燃やし、這いずるために腕を動かす。そんなアザミを見下ろす者がいた。クロ。瓦礫の上に、少年が無傷で座り込んでいた。
「一姉様は冷酷だ。容赦なく、この街は灰塵と化すだろう」
「マスター……ますたー……」
ずるりずるりと這い続ける少女を見下ろし、彼は目を細めた。
「……何故、そこまでする。あの男は、貴様の何だ」
「あのひとは」
どこにいるかも分からない人に向かって、無心に手を伸ばす。ずるりと、体を動かす度に、ごふりと喉の奥から赤いものが溢れ出ても、彼女は体を酷使する。
「わた、しの……ひかり、だから」
ぼたぼたと、みっともないぐらい、涙が溢れてこぼれた。もう、どうしようもない。一個人はどうすることもできない絶望に打ちひしがれて、少女は術を見失っていた。
「そうか」
細めた目を、ゆるやかに閉じると彼は立ち上がった。すこし寂しげに、彼がわらう。
「ならば、オレは貴様の闇となろう」
流れるように近づく少年は、アザミの手を取る。うやうやしく、紳士的に、彼はその手の甲へ口づけた。
「貴様たちは勘違いしているが、オレたちには攻撃的な機能は備わっていない。よって、オレには、貴様を助けることはできない」
かすれた目の端が、ようやく倒れるマスターの姿を捉えた。ぐったりとして、動かない人。その姿が、目に焼き付いて、また涙が零れ落ちた。
「ますたーを助けたければ、貴様が戦え。オレと、エンゲージしろ」
迷いが瞳にゆらぐ。しかし、それも一瞬だった。この命はそもそも己の物ではない。ならば。できることなら、それを恩義のために使いたいと。断腸の思いで決断する。からからに乾いた喉から、たった一言。いいよと言葉が零れたとき、それまでの余裕に満ちた表情が少年から剥がれ落ちた。急くように、抱きすくめられた身体。精一杯、せのびした少年の唇が、ふれる瞬間。頭の中を、流星が駆け抜けるような煌めきが襲った。
*
マスターを避難させた後。少女は自らの足で、戦場へと向かった。対峙した先に氷壁が立ちふさがる。氷の巨人。アザミの前に、巨躯たる恐怖の化身がそびえ立つ。そして、その肩の上には、いつか映画で見た宇宙人のグレイを彷彿させる滑らかに光沢を放った体があった。銀に輝くそれは、蠱惑的なほどなまめかしく、完成された女の肢体。同性であっても、息を呑まずにはいられないその肉体を前にしてアザミは、ほうと息を漏らす。真に美しきものに、讃美の言葉など必要ない。その傲慢なまでに美しき姿に、自然とその正体を察した――彼女こそ。帝星エディヴァンダ第一皇女。氷結の銀妃。一切の感情を凍らせた瞳は、静かにアザミを見下ろして、その肉厚の唇が言葉をこぼす。それは、日本語ではないはずだったが、なぜかアザミの耳に届いて、心を震わせた。
『謳え、エカチェリーナ』
聲に呼応するように、氷の巨体が大きくその口を開いた。轟音。咆哮が、紫電と走る。足元から激風がアザミを襲い、体が浮いた。あっという間に吹き飛び、ぼろ雑巾のように叩きつけられる肉体。しかし、不思議と痛みは遠く、ただ熱に浮かされたような浮遊感があった。アザミはよろよろと立ち上がり、恐る恐る背後を振り向く。視線の先。一帯が、完膚なきまでに消し飛んでいた。こんなものに。勝てるはずがない。そう思った目に、恐れが滲む。
「勝てる!」
その意識を吹き飛ばす声が、すぐ耳元で響いた。
「イメージしろ、アザミ! 貴様は、オレと契った。貴様の姿は、自らの願望を表す鏡だ」
ただ、従順であれと育てられた。いつか、仕えるべき方の傍に侍るため、望みを持つ事など、許されなかった。気付けば、彼女は泣いていた。泣いた娘に、再び、衝撃が走る。容易く吹き飛ばされる体。二度三度と地面に叩きつけられ、腕があらぬ方向に曲がる。
「アザミ!」
もはや、何処にいるかもわからない、クロの声だけが響き渡る。望むなと、言われ続けた少女に向かって、彼は、彼女にとっての禁忌を犯せと叫び続ける。
「願え! アザミ! 貴様は、何が! 欲しかった!!」
きぃんと、響き続ける耳鳴りの中。アザミは、夢を見た。
いつかの夜。
台風が通り過ぎ、嵐が途切れ、雲が晴れ、広がった星空は、何処までも続いていた。あの空が、欲しかった。ただ、自由が、欲しかった。
『お慕いしています』
記憶の中の少女は、最後に涙を落とした。
『あなたは、わたしの全てです』
――そして。
かたく閉じた繭がほころぶように、まろやかに、彼女は羽化する。
――少女は、禁忌を犯した。
背中から生えたのは、玻璃のように薄い結晶、宝石のような、きらめくつばさ。
銀妃がわずかに目を開く。その手が、アザミにむけられ、凍える巨人が咆哮する。開いた虚が、こちらに照準を定める。
跳べ。飛べ――
ぐっと、一度の跳躍は、彼女を天上へと運ぶ。空の上から眺める景色は、何故か涙があふれでた。一年暮らした街は、夕日を浴びて、瓦礫に覆われた無残な姿をさらしていた。
「アザミ、貴様なら、出来る!」
氷に埋もれた巨人の黒い目に、アザミの翼が映りこむと、それは一際大きな咆哮をあげた。
極色の翼が、ビキビキと、その鋭さを増していく。
戦い方など分からない。誰かと言い争ったことさえもない。しかし、その翼は、知っていた。目の前の、巨人を屠る、その術を――
血を失いすぎた体は、意識を手放す寸前だった。一撃。たった一撃だ。アザミに放つことができるのは。全ての思いを込めた一撃。願う度。その翼が硬度を増す。祈る度。その翼が、光を増す。ビキビキと、一層甲高い悲鳴のような音を放ちながら、肥大化する翼。かすれた視界で、照準を定める――大きく一度弾けるように。しなる翼が極光を放ち一閃。金属が砕け散るような、高い音が響いたあと。確実に。その巨人の左半身を抉り取った。おおおおおおおおお。洞窟を風が吹き抜けるような、最後の咆哮。手を彼方へと伸ばした巨人の体に、開いた空洞。空白の向こうに、広く続く空を見た。夕日に濡れて染まった空は禍々しいほどに赤く、血の色をしていた。
*
「……! ……ザミ!」
遠く、名前を呼ぶ声が聞こえる。自分の顔を覗き込んでくる人をながめて、少女はぼんやりとしていた。何故、わたくしを、アザミと呼ぶのかしら、と。少女は、周囲を見渡して、アザミを探す。いつも誰より側にいた人。闊達で自由な、わたくしの光。探し求めて、伸ばした手が、行方を失いと途方に暮れた。ああ、そうだ。彼女は、もう。最後に、握った手のひらは震えていた。おひいさま。いつもの溌剌とした声が聴きたいと思ったのに、彼女は消え去りそうな声で、少女に告げた。お慕いしております。はらり、はらりと、涙をこぼして、アザミは告げる。あなたは、わたしの全てですと。震える手を離して、アザミは門外へと少女を突き飛ばした。心を分け合った、乳母子。罪が明らかになれば、待つのは死罪だと知りながら、彼女は少女を囲いから逃した。その死を対価に、アザミは少女の自由を願った。
「アザミ?」
幾度目かの呼び声に、少女――桐生アザミの偽名を名乗った娘は、目を開いた。全身に激痛が走る。普段ならば目覚めがいいはずの頭は重く、目の前の光景を受け止めることに、ひどく苦労した。ただ、たどたどしく、目の前の少年を呼ぶ。
「……く、ろ?」
「アザミ! やったな!! よくやった!」
ひょこひょこと、頭の上の触角を揺らして、クロが喜んでいる。体いっぱいで、アザミの成果を喜んでくれる。酷使した肉体と精神は限界だった。言葉一つ紡ぐことさえ億劫だったが、歓喜する少年を見つめて、アザミは彼に声をかけていた。
「…………ね、え、クロ」
「なんだ、アザミ」
張りつめたものが今にも切れようとしていた。急速に遠ざかる意識に、感覚が鈍くなる。うまく回らない舌に苦戦しながら、アザミはクロに尋ねた。
「わた……し、がんばった?」
「ああ、頑張った」
アザミのものより、すこし小さな手が、まるでこの上なく大切なもののように、少女の手を握りしめる。
「……わたくし、存在してもいい……?」
「当たり前だ」
クロは微笑んで、アザミの頭を抱きしめてくれた。とくん。とくんと、聞こえる。心臓の音がここちよくて、誰かのぬくもりを感じ取って、随分と久しぶりに――やわらかなまどろみが訪れる。
ああ。だけど。何故だろう。
あの氷の巨人に最後の一撃を食らわせた瞬間。聞いたこともないはずなのに、何処か懐かしい声を聞いた気がした。それは、一人の少女の声。凛として、気高い彼女の声は、アザミに告げた。殺してくれて、解放してくれて、ありがとう――と。
*
夜闇に紛れ、とあるビルの最上階に、眼帯の男と、黒衣の少女がたたずんでいた。彼らの見つめる先には、粉々に崩れ落ちた残骸が横たわる。
「一姫・銀妃を倒すものが現れるとは。あの黒い姿。あれは捨て置かれた末の皇子か。選んだ人間は……花嫁殿。汝と同じ、日ノ本の国のものだな」
「そうだ、あれが……鬼生の娘だ」
「きりゅう?」
「調べが足りてないな、異星人。ならこれでどうだ。あれは……日ノ本の鬼産みだ」
黒衣の娘は息を呑んだ。さすがに己の陣地と定めた国情は裏の裏まで調べていたらしい。
「……なぜ胎貸しの娘が、外に出ている。鬼産みは……短命で儚いと聞くが」
「インセストの業だ。あれは特に血を濃くさせたらしい。通常鬼産みの娘は十で初潮がきて、役目を遂げる。しかし、あの娘は十五になっても来なかった。典医が環境を変えてみてはどうかと提言したころ。丁度あの娘が逃げ出した……典侍の独断で、それを様子見ていたらしい」
「それが……よりにもよって、我らが帝星に、奪われたのか。く。ははは……人の帝も口惜しかろう。泳がせた魚に、羽が生えた! とんだ笑い草だ! きゃつらの悔しがる顔が浮かぶ!」
腹をかかえて笑い狂う少女の姿を、眼帯の青年は眺めて、ぽつりと言った。
「だが……美しい、翼だったな」
「……花嫁殿、汝の心は我が姫の」
「分かっている。浮気などしないさ。最期まで……エンゲージすることは叶わなかったが、俺の命は……桃華のものだ……ところで、その花嫁というのを、何度やめろと言えばわかる。俺は男だ」
「男だろうが、女だろうが、選ばれたら花嫁だ」
「本当に頭が固い。まあ、いい。エスカ。行こう。桃華の遺志を、叶えるために」
帝星。エディヴァンダの皇子は、四人。
一皇。純白にして離垢。二皇。赤きものは苛烈。三皇。金を帯びて、傲岸に誇る。四皇。黒き影は、闇に隠れる。
帝星。エディヴァンダの皇女は、三人。
一姫。銀輝たりて冷酷。二姫。慈愛の光は緑を纏う。三姫。夢に満ちた瞳は淡い薔薇。
七の血は、七の花嫁とともに。その血は入りまじり、昇華され、礎となろう。願わくは――消えゆく彼らに、至高の光あらんことを――
*
星空の下、カセットコンロであたためたミルクを、マグカップにゆっくりと注ぎ込む。数滴はちみつを垂らして、まじないをかけた。零さないように気を付けて、階段を下り、辿り着いた地下室の戸をちいさく三度ノックすると、扉をすこしだけ開いて、黒い少年がこちらを覗き見てくる。こちらの様子を窺う姿は、まるで毛を逆立てた猫のようだ。
「こんばんは。クロ君。アザミ君は、目覚めましたか?」
「起きて、寝た」
そうですか。と、そこで会話が途切れ、沈黙が降りる。ドアの前で立ち尽くす男を眺めて、少年は眉間に皺を寄せた。
「何だ……まだ用か。大人は嫌いだ。去れ」
「ははは。そんなこと言わないで。はい、どうぞ」
いつまでたっても開くことのない扉を前に、マスターは両手に持っていたマグカップのうち片方を、少年に向かって差し出す。
「なんだ、この。乳白色の液体は。気持ち悪い」
「ホットミルクです。体が、あたたまりますよ」
「いらん」
「ひどいなあ。アザミ君のクリームソーダは三杯も飲んだのに……」
やんわりと非難する言葉を投げれば、あれはオレの花嫁だからなと、警戒する猫がいう。
花嫁。その言葉に、傷だらけで戦っていた少女の姿が、頭に浮かび奥歯を噛んだ。
「……クロ君。ここを、開けてくれませんか。アザミ君を血塗れにしたままでは、あまりに可哀想だ」
「……」
「アザミ君は、君の花嫁だ。僕が何を否定しようと、もうその事実だけは覆せない。だけど、せめて、今だけは……僕に彼女を助けさせてください」
沈黙する少年は、やがて扉を開いた。
*
凝り固まった血と泥で、彼女はひどい有様だった。
大きく裂かれた腹部は、エンゲージした結果なのか、すでにピンク色の肉がもりあがって傷を覆っていた。捻じれた足がそのままくっつこうとしていたので、苦労して肉を絶ち、骨を正しくつなぐ。痛み止めを打ったが、薬は思うように効かなかった。処置の最中、激痛に耐えきれず、少女は何度も金切り声をあげて嘔吐する。その姿は、目を覆いたくなるほど痛ましかった。室内に血と消毒液の匂いが入り混じって充満する。口元を拭い、汗と血にまみれた体を綺麗にする。点滴から落ちる雫をながめて、一連の処置を終えるころには、男の体は汗だくになっていた。頬を伝って落ちていく汗が一滴、ぱたりと、少女の背中に生えた翼に落ち、光をはじく。人の道を踏み出した少女。その背にせり上がった宝石の翼に、目を奪われたあとで――正気に返った。
「……クロ君。アザミ君のこの翼。いつになったら消えるんですか? 服を突き破っているから、代わりの服を用意しようにも、このままでは着替えることができない」
ブランケットをかけて、裸の体を覆い隠しているが、いつまでもそういうわけにはいかない。少しの非難を滲ませて提言すると、当の少年はきょとんとした顔をして、信じられないことを言いだした。
「消す? 何故だ? うつくしいだろう。その翅は、アザミの一つ目の願いだ。それは、誰にも――アザミにさえも、消すことはできない」
「……はい?」
アザミの肌を突き破って生えるもの。体を覆い隠す布では隠しきれずにはみ出た翼に、少年は、うっとりと指を這わせたかと思えば、その一翼に口づけた。
「あの、凍える巨体を見たか? 素晴らしかったな。願いを重ね、思いを積み上げた。その集大成の一つといえよう。残念ながら、それを維持するには核が脆すぎたのが難点だったな。オレなら、もっと上手くやる、アザミはもっと。美しくなる」
欲望に満ちた目が、ねっとりとその翼を蹂躙する。不穏なものが、足元から滲み上がって、男は少女を見下ろした。そうして、眠る少女の顔に、苦悶の影がさすのを見れば、顔が、こわばり、手が震える。
「……クロ君……今日……アザミ君が倒したのは、何ですか?」
「なんだ。今更。オレの一番上の姉だと言っただろう。一姉様だ」
「……質問が……悪かったですね。ではその一姉様がエンゲージした相手――あの氷の巨人。アザミ君が殺したのは、誰です」
その問いに、クロの黄金の瞳が、ゆっくりと見開かれ――やがて、黒いものを孕んで、細められる。彼は持ち上げた口角を緩めて、告げた。
「……エカチェリーナ・ルキーニシュナ・トルスタヤ。確か……十四歳のロシア人の少女だ」
十四歳。アザミよりも、二つ年下の、少女。覚悟してはいたが、真実は想定より残酷で――重くのしかかる事実に、男は深く瞼を閉じた。
「あれが……あの化け物が、元人間だと、言うのですね」
「間諜のものによれば、そうだな。エカチェリーナは、足がない娘だったそうだ。外を自由に歩きたい。そのささやかな願いは歳月とともに高まり、果ては他人を見下ろしてやりたいと願ったそうだ。はっ、実に一姉様と意気投合しそうな娘だ。そんな願望が肥大化して、あの強靭な氷体を作り上げた。人間の欲望とはすばらしいな。アザミももっと願えばいいのに。そしたら、もっと強い姿になれる」
最後に聞いた、あの轟音のような咆哮。空に向かって、伸ばされた腕。あれは、もしかしたら。助けを求める声だったのではないだろうか。自らの足で歩きたいと――ただそれだけを願った少女。その肉体は、願いを重ねる度に作り替えられて、助けを求める言葉一つ、あげることも出来なくなった。
「不思議に、思っていたんです。何故、あの巨人が、いきなり南下したのか」
氷の巨人――その名で呼ばれる通り、エカチェリーナの変貌した外殻は、強靭な氷壁によってできていた。亜寒帯のソ連から南下を続け温帯の日本へと向かう事は、愚策でしかない。溶け落ちる体では、その絶対の防御を保ち続けることはできない。現に氷壁は溶けて落ち、テレビで見たものより一回り小さくなっていた。アザミの一閃も、常ならば、通用しなかっただろう。
「彼女はきっと、願ったのですね」
氷の巨人と変わり果てた少女。彼女は自ら南へ向かった。一歩足を進めるごとに、その体が溶けて消えることを知っていながら、自らの、死を願った。
「……ロシア人の子は、死んだんですよね」
「当然だ。あの巨体が崩壊するところを見ただろう。そして、エンゲージした花嫁が死ねば、一姉様も死ぬ。逆もまたしかり。一姉様が死ねば、花嫁も死ぬ。運命をともにしたのだ。さぞ、幸福な眠りが訪れただろうな」
「ようやく、自分の言葉で語った……クロ君。君は、嘘が付けないタイプですね。そして、自分でそれを知っている。だから、君は、語らない」
己を裏まで見透かす瞳を、不愉快そうに眺めて、クロは問う。
「他者を分析し、己の尺度で測る……はっ、片腹痛いわ。それで、オレを分かったつもりか。本当に。これだから大人は嫌いだ」
「そう。ですか……ですが」
男は言葉を切った。自分の対峙すべき相手を見据え、ひたりと静かな目が追及する。
「貴方も大人でしょう?」
「子供のふりはいい加減やめなさい。人間の子供の皮をかぶって、アザミ君を騙して……大人が嫌い? 大人が嫌いな大人なんて――何より一番たちが悪い」
金色の目が、一際大きく見開かれ――やがて、細まる。けたけたと、少年のふりをしていたものは笑う。顔中の皺を寄せて――寄せすぎて――張り付いた人の皮がずれても意を介さずに、人外のものは嗤い続けた。
「……く、くく、くはっ。褒めてやる地球人。まさかそれを見破るとは。だが、オレはアザミを騙していたわけではない。アザミに嫌われたくなくて、言わなかっただけだ……第一、貴様がよく言うな。欺瞞者。知っている。知っているぞ」
そして、少年のふりをしたものは、男を指さしにたりと笑った。
「なあ。生きたふりをしているだけの、死にたがりよ」
男は瞼を閉じた。
いつかの、嵐の夜。絶望の果てに、死ぬためだけに迷い込んだ場所で、気まぐれに差し出した手を握った少女がいた。男は限界だった。罅の入った心は崩壊する寸前で、死だけが彼の救いだった。
しかし、少女は男に縋り付き、二人は共に暮らすようになった。彼女は知識に飢えていた。何も知らぬ少女を教え諭すうち、無表情だった彼女の顔に少しずつ笑みが満ちる。真っ当な大人を演じ続ければ、まるで自分が普通になったように錯覚した。一年。かけがえのない、一年だった。彼の壊れた心の隙間は、今はもうアザミの笑顔で一杯だ。死なないといけないのに。死なないと、赦されないのに。自分が死んだあと、彼女の笑みが無くなることを考えて、全てを先送りにしてきた。だからこれは罰で、同時に、最後の贖罪の機会だった。
「……僕は、アザミ君を守ります」
「ふうん……まあ、よい。今はその無礼を許そう。貴様がアザミを守り、アザミが貴様を守ることを願う限り――貴様はオレの駒だ。名を名乗れ。その誉を貴様にやろう」
「いいえ。今は――ただの、しがない喫茶店の店主です」
敵は残り五。そして全ての始まりである、白いスーツの痩身の男も、いずれ向かうべき敵だ。全てを浄化し、塩の柱とかえるもの。
「敵を、教えてください。塩の男。彼は、何ですか」
――兄様と、彼は彼方を見つめて呼びかけた。はるか先、最大の敵を見据えて、彼は告げる。
「……我が兄妹の頂点たる、至高の兄上」
爛々と輝く眼が、ひときわ強い、煌めきをはなつ。
「あの方は、地球とエンゲージした」
眠る少女はまだ、己の運命をしらない。
2016年公開同人誌の再録です




