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その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果  作者: ヤッくん


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9話 その男、汚文字につき―― 角が取れるまで、優しさを煮込んで

――クソがァァァァァァァァ!!!!


お隣さんの部屋から響いてきた、この世の終わりみたいな絶叫で跳ね起きた。


時計を見ると外はもう真っ暗だった。バイトから帰ってきて、少しだけ仮眠をとるつもりが、ずいぶん深く眠ってしまったらしい。


壁一枚隔てた向こう側から、ドゴォォン! と何かが激しくぶつかる音が聞こえる。

……また、隣に住む阿久津魅夜あくつ みやさんだろうか。


廊下ですれ違うたびに鋭い罵倒を浴びせてくる彼女が、「普通」じゃないことは分かっていた。勝手に俺の部屋に上がり込み、作り置きの飯を平らげていくような無茶苦茶な女だ。


普通なら警察を呼ぶか、管理会社に泣きつく案件だろう。

だが、それでも「まぁ、いいか」と思えてしまう出来事が、以前に一度だけあった。


思い返すと少し照れくさいし、とにかく、それ以来どうにも調子が狂ってしまい、今ではすっかり「なぁなぁ」の関係になっている。


今の俺にとっての問題は、叫び声のあとに不意に訪れた、あの「耳が痛くなるような静寂」だ。怒り狂ったあとの、すべてを諦めたようなあの重苦しい気配。

そのまま放っておいて眠りにつくには、どうにも寝覚めが悪い。


やりこんでたゲームのデータでも消えたんだろうか?

せっかく積み上げたものが一瞬でパーになると、大声をあげたくもなるけども。


壁の向こうから伝わってくるあの「重い空気」は、セーブデータなんかじゃなくて、きっともっと別のことなんだろうと思う。


俺はバイト先の常連さんからもらった大量のジャガイモを見つめた。


「……ま、ジャガイモ消費を手伝ってもらおう」


常連からもらった大量のじゃがいもを消費するのを手伝ってもらおう。肉じゃがにはちょっと自信がある。それに嫌なことがあったときは美味しいものを食べるに限るしな。


じゃがいもの皮を剥き、手際よく肉じゃがを煮込み始める。

角が取れるくらいまで煮込むと、味が染みておいしくなる。


最近の魅夜さんは、いつも全身をトゲで武装しているみたいだ。

煮込んで角が取れたジャガイモを食べたら、彼女のトゲトゲしさも少しは丸くならないだろうか。


……というか、正直なところ、彼女には自分でもっと料理をしてほしい。

勝手に俺の作り置きに手を出されると、その日の献立の予定が狂って困るのだ。


鍋がコトコトと音を立てる間、俺は一枚のメモ帳にペンを走らせた。

「おいしくて簡単な肉じゃがレシピ」。

これを渡せば少しは自炊に興味を持つだろうか、という淡い期待を込めて。


タッパーに熱々の肉じゃがを詰め、俺は意を決して隣の部屋のドアを叩いた。



コンコン、と。

なるべく優しく、刺激しないように。


「魅夜さん。こんばんは。……って、真っ暗じゃないですか。停電? 」

ドアが開いた瞬間、そこには幽霊みたいな顔をした魅夜さんが立っていた。部屋の中は真っ暗。スマホの微かな明かりが、彼女の顔を不気味に照らしている。


「……テメェ。何の用だヨォ。アタシを笑いに来たのか? あァ!? 見ろよ、一文無しの女王様だぜ! ケヒャヒャ! 傑作だろォが!!」


こりゃ相当荒れてるな……。ギャンブルで大負けでもしたんだろうか。

烈火の如き罵倒。でも、その瞳はひどく濡れていて、いつもの毒舌に元気がないように見えた。


「笑いに来たんじゃないですよ。……バイトの常連さんから大量のジャガイモもらちゃって。肉じゃが作ったんですけど、一人じゃ食べきれなくて。……魅夜さん、いります? 捨てるのもったいないし」


「……は? 肉じゃが………テメェ、頭沸いてんのかヨォ? 恩を売って、後で高く売りつける算段なら無駄だぜ」


「あはは、そんなわけないじゃないですか。ただ、肉じゃが。……冷めると美味しくないですよ。火加減とか結構頑張ったんですから」


拒絶されるのを承知で一歩、暗い部屋の中に踏み込んだ。


彼女の暗い顔の理由の本当のところはわからない。でも栄養さえ摂れば、またいつものように元気よく俺を罵倒してくれるはずだ。


「何があったか知らないですけど、早く俺の知ってるいつもの魅夜さんに戻ってくださいね。あ、掃除と料理はたまには自分でしてくださいよ。掃除したての部屋でちゃっかりくつろがれるのも、困りますから」


「……バカ……てめぇ……適当なこと言ってんじゃねぇぞ……。」


俺を見つめる大きな瞳から、ぽろりと涙が溢れるのが見えた。

あぁ、これはゲームのデータが消えたわけじゃなさそうだ。


「おい、悠。……呼び捨てだ」

「はい?」


唐突な要求に、俺は面食らった。


「アタシが呼べっつったら呼ぶんだよォ。……ほら、早くしろよ……ッ!」


彼女は顔を伏せ、耳まで真っ赤にしている。


……え、呼び捨て? なんだか、この世界の距離感はよく分からないな。


名前を呼んだ瞬間、彼女の肩がびくっと跳ねた。

そのまま石像みたいに固まってしまった彼女に、タッパーとレシピメモを預ける。


「はい、これ。魅夜、秘蔵のレシピだから内緒ですよ。自炊すれば食費も浮きますから」



自分の部屋に戻ると、しばらくして、隣からまた物音が聞こえてきた。

何か、必死にキーボードを叩いているような音だ。


……あぁ、きっとレシピをメモ帳に打ち込んでるんだな。感心感心。


1時間ほどして、再び俺の部屋のドアが叩かれた。

開けると、そこにはさっきよりもずっと血色の良い魅夜さんが立っていた。


ただし、なんだか目がバキバキにキマっている気がするけれど。


「悠。アタシの部屋に来い!……あとコーヒー淹れろ。今すぐだ。あと、呼び捨てを続けろ。敬語もやめろ」

「……えっ? あ、はい。いいですけど……。夜にカフェイン、大丈夫ですか?」


なんだか、さっきまでとは別の意味で、彼女のテンションが振り切れている気がする。

 

彼女の部屋に行くと、そこにはスマホがセットされていた。

ビデオ通話か何かだろう。俺は言われるがまま、彼女にコーヒーを淹れた。


「悠。……おい、悠。コーヒー、お代わり。ブラックで、やっぱ砂糖は一個ね。あと、さっき言っただろ、呼び捨てにしろって」

「魅夜さん、ホントに元気になったなぁ。はいはい、コーヒー淹れますよ〜」

「呼び捨てで呼ぶんだよォ! あと敬語もやめろ……ほら、早くしろよ……ッ!」

「はいはい、魅夜、コーヒーいれるよ〜」


なんだか、介護をしている気分になってきた。

でも、死にそうな顔をしていた彼女が、こうして楽しそうに「ネットの向こうの友達」と交流しているのを見ると、少し安心する。


「ほら……あー、しろ。あー。............食べさせろって意味だよ!言わせんな!あとふーふーもしろ!」


なんか急に要求が激しくなってきたな。

はぁ、まぁ今日だけね。


「......ほら、魅夜。口開けて。あーん」

「……ん、んぅ……っ。……ふふ、おいしすぎ。……あ、これ、まだ熱いな。悠、ほら。ふーふーして。もっと熱を飛ばせよ」


「……熱い? 猫舌なんですか。ごめんごめん。ふー……ふー……。はい、これなら大丈夫かな?」


魅夜さんは、食べさせてもらった肉じゃがを頬張りながら、恍惚とした表情を浮かべている。


……そんなに美味しかったのかな。隠し味に砂糖を多めに入れたのが正解だった。


配信画面には、ものすごい勢いで文字が流れているけれど、「舌やけどしてない?」とか「肉じゃがおいしそう」とか、そんな応援メッセージが流れているんだろうな、と勝手に解釈した。


魅夜さんが楽しそうに、俺の書いたあの汚いレシピメモをカメラに向けている。きっと、「汚い字だけど味は最高!」とか紹介してくれているんだろう。


「あ、そうそう。明日の夜、また新しい動画あげるから。タイトルは『献身的な飼い犬を脱がしてみた』……なんてね。ケヒャヒャ! 冗談だよ、悠。そんな、……そんな可愛い顔で困るんじゃねぇよォ!」


「冗談でも通報されそうなこと言わないでくださいよ……」


俺は本気で困ってしまった。露出狂の動画なんて、通報されかねない。

魅夜さんは、俺の反応を見てケラケラと笑っている。

 

上目遣いに俺を覗き込む、その澄んだ瞳。俺をからかってニシシと笑う彼女の、そのあまりに幸せそうな顔を見ていたら、なんだか毒気を抜かれてしまった。


さっきまで絶望に沈んでいた彼女に比べれば、こうして俺の困った顔を見て、頬を微かに染めて笑っている彼女の方が、――ずっと、「生きてる」って感じがした。


配信が終わり、魅夜さんは満足げにスマホを置いた。


なぜか彼女はティッシュを鼻に詰めている。

そして時間はいつのまにか夜十一時を過ぎている。


明日も早いしそろそろ帰ろう。


「俺バイト明日早いんでそろそろ帰りますね。」 

「……テメェ。……その、……あー…ボソボソ(消え入りそうな声)」


ん?全然聞こえん。


「――あァ!? 勘違いすんなよ! 掃除の続きをさせようと思ってたんだよォ!!」

「はいはい、わかりましたよ。……今日はゆっくり休んでくださいね、魅夜」


 俺は自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。


 明日はバイトが早い。早く寝ないと。

 ……あぁ、でも。なんだか明日、すごく賑やかな一日になりそうな予感がする。


 そんな予感を抱きながら、深い眠りに落ちた。

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