8話 その拒絶、致死量につき
阿久津 魅夜は、お金と名声を求められた。
浅見 凛は、献身と時間を奪われた。
鳳 麗華は、鳳の規律に縛られた。
蒼井 深守は――。
その「存在」すら、認められなかった。
◇
――深守視点――
「......好きです。付き合って...ください」
「……ごめん。今は部活に集中したいんだ」
その言葉を、わたしは純粋に信じていた。
フラれた痛みはあったけれど、彼はストイックで、一生懸命なんだと自分を納得させていた。
――あの日、放課後の廊下で『真実』を耳にするまでは。
『あぁ、深守? ……ねーわ。俺と付き合うにはスペック不足。せめてランクAはないとな。アイツはランクでいうとEマイナスってところかな』
『うわ、ひどっ(笑)。というかお前、本命の彼女いるだろ(笑)』
『あんな地味な女、隣にいるだけで俺の価値が下がるんだよ。ランクの低い人間は、このクラスに存在する資格がないっつーの』
心臓が、凍りつく音がした。
わたしという存在は、彼にとっては『スペック』と『ランク』という数値で測られる、価値のないガラクタだった。
絶望したのは、彼に対してだけじゃない。
次の日から、その男の言葉を「正解」として受け入れたクラス全員が、わたしを無視し始めた。
誰もその異常を指摘せず、ただのシステムエラーを処理するように、わたしを「無いもの」として扱った。
彼も、彼に同調するクラスメイトも、この世界のすべてが、反吐が出るほど嫌いになった。
それ以来、わたしは物理的な世界を閉ざした。こうして一人の引きこもりが完成した。
外界を拒絶し、ノイキャンのヘッドホンで音を遮り、暗い部屋でパソコンや機械いじりをするだけの毎日。
生身の人間(男)なんて、もう見たくない。
けれど、窓を閉め切った部屋の空気は淀み、わたしの心は窒息しかけていた。
自分という存在(実体)を消して、ただの『視点』になれるなら、この息苦しい世界を許容できる気がした。
わたしは逃げるように、自作のドローンを空へと解き放った。
今日もわたしは空に向かってドローンを飛ばす。
◇
部屋を埋め尽くすマルチモニターの青白い光が、わたしの皮膚を白く焼く。
ゴーグル越しに映し出されるのは、地上三十メートルから映るドローンからのライブ映像。
風を切るローターの音が、ワイヤレスイヤホンを通じてわたしの鼓動と同期する。
――見つけた。
レンズが捉えたのは、雑踏の中を歩く一人の青年、結城 悠。
わたしは彼のことを、この醜い世界の「バグ」と呼んでいる。その理由を今から話すよ。
ある日のテラスのレストラン。
せわしなく動く店員に何度も声をかけようとして、そのたびに「透明人間」のように無視されていた気弱そうな女性客。
彼女が泣き出しそうな顔をした瞬間、近くの席にいた悠さんが手を挙げた。
「すみません、注文いいですか。あ、ついでにあちらの方もずっと待たれているようなんで、先に向こうから聞いてあげてください。」
あくまで自分の注文のついでを装って、彼は彼女に光を当てた。
とある日の公園。
誰もいない時間に、黙々と清掃ボランティアをしていた腰の曲がったおじいさんに、彼は足を止め、深く頭を下げた。
「いつも綺麗にしてくれてありがとうございます。おかげで気持ちよく歩けます」
清掃員の方は、魔法をかけられたように顔を輝かせていた。
極めつけは駅前の広場。
お世辞にも上手いとは言えない、けれど喉を枯らして必死に歌うストリートミュージシャンの青年がいた。
通り過ぎる人々は冷ややかな視線を向け、悠さんと一緒に歩いていた友人たちも、面白がるように鼻で笑った。
「うわ、あいつ音程外しまくり。あんなの実力の無さを晒してるだけだろ。見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
友人の一人がそう吐き捨てた瞬間、悠さんは立ち止まり、歌う青年を見つめながら穏やかに言った。
「そうかな?俺は、周りにどう思われてもいいってくらい、あんなに何かに夢中になれるの、すごく格好いいなって思うよ。……なんだか、応援したくなっちゃうんだよなぁ」
と言いながら青年のギターケースに向けて硬貨を投げ入れていた。
悠くんは、男たちの冷笑を静かに、けれど明確に塗り替えた。
それは波風を立てない陽だまりのような声だったが、そこには「上手さや技術では測れない価値」を見い出し、口にする、彼なりの強さが宿っていた。
――この醜い世界に彼のようなバグ(優しい人)が存在しているなんて。
わたしは、震える手でコントローラーを操作する。
◇
今日は、わたしの部屋に転がっていた空き缶をドローンのアームに掴ませていた。
悠さんの進行方向。彼が数秒後に足を踏み出すそのアスファルトの上に、私はそっと缶を落とす。
カラン、と乾いた音がした。
悠さんが足を止める。彼は周囲を見渡し、誰が捨てたとも知れないそのゴミを、迷わず拾い上げた。
そして、すぐ近くのゴミ箱へ。
画面越しに、わたしの指先がモニターの中の彼の手に触れる。
「……拾ってくれた。はじめての共同作業……あぅぅ。うれしいよぉ、悠さん」
頬が熱い。胸の奥が、壊れそうに跳ねる。
デジタル信号の向こう側。わたしは彼に「認識」された。
ドローンと空き缶を通じて、わたしは初めて、透明な存在から、彼と同じ世界を共有する何者かになれた気がした。
「……もう一度だけ。もう一度だけ、信じてもいいのかな」
そんな時だった。
舞い上がったわたしの指が滑り、ドローンの高度が急激に下がった。
ローターの風が悠くんの前髪を揺らす。
「あ……っ、しまっ……!」
バレた。ストーカーだと思われたらどうしよう。
警察を呼ばれる? 軽蔑される?
パニックで硬直するわたしの前で、悠さんがレンズを覗き込むように顔を上げた。
そして、彼は驚くどころか、あどけない少年のように破顔した。
「あ、最近この辺飛んでるよね? いつも器用に飛ばしてるね。バイバイ!」
悠さんは、カメラに向かって大きく手を振った。
「……あうっ! 悠さん、笑顔……っ、かわいい……!」
モニター越しに、わたしは熱に浮かされたように身悶えた。
彼は、ドローンの向こう側に「わたし」がいることを、疑いもなく肯定してくれた。
心臓の鼓動が、これまで叩き出してきたどんなものよりも速く、熱く、激しく、私の胸を突き上げる。
「会いたいな。……画面越しじゃ、足りないよぉ」
わたしはモニターを消した。
部屋に、静寂と窒息しそうな空気が戻る。
わたしは、埃を被っていた外出用の大きめのパーカー服に着替えた。
ノイキャンのヘッドホンを深く被り、スマートグラスを装着する。
引きこもりという安全な殻を脱ぎ捨てる。
それは、わたしにとって宇宙服なしで真空に飛び出すのと同じくらいの自殺行為だった。
◇
外の世界は、凶器で溢れていた。
降り注ぐ太陽光は網膜を焼き、他人の話し声は鼓膜を抉る。
ヘッドホンの遮音機能だけが、わたしの正気を繋ぎ止めていた。
「あ、う……」
ドローンのGPSを頼りに、彼が今いるはずの広場へ向かう。
何度も足が止まり、過呼吸になりかけた。
それでも、胸のポケットに隠したコントローラーの感触が、わたしに彼の背中を思い出させた。
――いた。
わたしは入念に準備した計画を実行する。
自分の大事なデコレーションした予備のメモリカードを、彼の歩く道にわざと落とすのだ。
ポロリ。
わたしはできるだけ自然な動作でそれを落とすことに成功した。
計算通り彼がそれを拾い上げる。
「あ、これ君の? 大事なものだよね」
悠さんが目の前にいる。
「あ、あう……ぁ……」
わたしの脳内では、かつてない規模の脳内会議が開催されていた。脳内は、爆発寸前で火花が散っており、すごいことになっていた。 数千、数万のシミュレーションが駆け巡り、たどり着いたはずの「答え」は。
「あ、あう……ぁぅ……」
喉から出たのは、正体不明の奇声だった。
わたしはひったくるようにメモリカードを奪い取ると、全速力でその場から逃走した。
現実は非情だった。
部屋に帰り着き、布団に潜り込んで叫ぶ。
「死にたい! 死にたい消えたいもう無理! なにが『あう』よ! わたしは赤ちゃんなの!? バカ! バカ!バカ!わたしのバカ!」
けれど、指先に残るメモリカードは、彼が触れたせいで微かに温かかった気がした。
その温度が、わたしの絶望をゆっくりと、でも確実に「勇気」へと再起動させていく。
「……次は、絶対に逃げない。……ちゃんと、伝えるんだ」
◇
三日後。わたしは再び、彼の前に立っていた。
場所は、彼がいつも読書をする広場。
ベンチに座り、文庫本を読んでいる悠さん。
太陽の光を浴びた彼は、レンズ越しに見ていたよりもずっと眩しくて、暖かそうで。
わたしは、地獄の釜を開けるような思いで、ヘッドホンを外した。
世界が、ドロドロとした音の濁流となって押し寄せる。
「あ……あのっ!」
悠さんが顔を上げた。
わたしの濁った瞳が、彼の澄んだ瞳と衝突する。
「あ、君は……こないだの」
覚えていてくれた。それだけで、わたしの脳内は焼き切れそうだった。
わたしは、自分が何者かも忘れて、喉を震わせた。
スペック、ランク、Eマイナス。そんな言葉たちが脳内で渦巻いてしまう。
(言うんだ。言うんだ。言うんだ)
きっと明日になったら、この薄氷のような勇気は溶けてなくなってしまう。
今、この熱暴走した勢いのまま伝えないと、わたしは一生、画面の中のガラクタのままだ。
「わ、たし……あなたのことが、……す、好きです! つき、合って、ください!」
それは、わたしの人生のすべてを賭けた、最大出力の告白だった。
もしここで彼に否定されたら、わたしの命はそこで終わる。
沈黙。
広場の喧騒が、遠ざかる。
一瞬が一生のように感じる。
ごくり。
悠さんは、困ったように眉を下げ、わたしを真っ直ぐに見つめた。
「……ごめんなさい。」
――あぁ。
色のついた世界が、急速に色あせていく。
悠さんに触れられたはずの温度が、氷のように冷えて、わたしの輪郭を消していく。
ここにいてはいけない。 わたしはやっぱり、存在してはいけないただのガラクタなんだ。
存在を認められなかった恐怖が、窒息しそうなほどの重圧となって、わたしの肺から空気を奪い去った。
声にならない声が脳内に響く。
あ、あ……あぅ……っ
致死量だった。
心臓が、破裂したような気がした。視界が真っ白に染まる。
やっぱり。やっぱり。やっぱり。スペックとランクが不足してるんだ!わたしは、ガラクタなんだ!!透明人間が、一瞬だけ色を持とうとした報いなんだ!!!
「あ、あ、あああ……っ!」
言葉にならない悲鳴を上げながら、わたしは走り出した。
背後で彼が何かを呼ぶ声がしたが、それすらもわたしを殺す刃にしか聞こえなかった。
ヘッドホンを乱暴に耳に押し込み、わたしは自分の部屋へと逃げ帰った。
◇
ガシャーン!!!!!
パソコンのキーボードを床に叩きつけた。
「死にたい……死にたい、死にたい……!」
暗い部屋。
やっぱり、世界は毒で満ちている。
男なんて、みんな同じだ。わたしを見てない。わたしなんて、最初からいないのと同じなんだ。
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、わたしは自傷行為のようにドローンの電源を入れた。
最後に。最後に、彼を「呪う」ために。
彼が他の男と同じように、わたしのことを笑っている姿を「観測」して、この恋を完全に殺すために。
ドローンは、まだ広場の近くにいた。
悠さんは、さっきのベンチで、バイト先か大学の友人らしき男性と話していた。
ライブ映像。リアルタイムの、残酷な真実。
『すまん悠、さっき告白されてるとこ見ちゃったわ。あの子、すごい可愛かったじゃん』
悠さんの友人が、茶化すように言う。
ああ、笑えばいい。Eマイナスの女に告白されて迷惑だったと、吐き捨てればいい。
「……見られちゃったか」
悠さんの、静かな声。
『なんでフったんだよ? タイプじゃなかったのか?』
「正直、一瞬言葉を失うくらい魅力的な子だったよ。あんなに震えながら、命がけみたいな顔で想いを伝えてもらえるなんて……おれには勿体ないくらいだよ。」
――え?
私の思考が、フリーズする。
『じゃあ、なんで?』
彼は続けて言った。
「だから、余計に中途半端な気持ちで返しちゃいけないなって。彼女があれだけ勇気を持って伝えてくれたんだから、おれもそれに見合うだけの確信を持って応えたいなって。彼女がどんな人なのかをちゃんと見て、大切にしたいと思ったんだよね。」
悠さんは、遠くの空を見上げていた。
そこには、わたしが飛ばしたドローンがあるはずの空だ。
『……お前、相変わらずバカ真面目だな。自分の方が格下だと思ってんのかよ』
『格下だよ。あんなに勇気を持って踏み出せる彼女に比べたら……』
ライブ映像が、涙で滲んで見えない。
前に告白した男は、勝手にランク決められて、わたしはクラスの中で透明にされた。
でも、悠さんは。
わたしの勇気を、わたしの想いを、わたしの存在を――誰よりも大切にしたいから、安易な返事をしないために告白を断った。
彼は、わたしを見ていた。
透明なんかじゃない。
Eマイナスなんかじゃない。
一人の、大切にされるべき「女の子」として、彼はわたしを尊重してくれた。
「……あぅ、っ……。う、ううう……っ」
嗚咽が止まらない。
でも、それはさっきまでの絶望の涙じゃなかった。
信じて、よかった。
男の人なんて、最低だと思ってた。
でも、この世界には、一人だけ。
わたしという存在を、自分よりも高く見積もってくれる、バカみたいに優しい人がいた。
わたしは、床に投げ捨てたヘッドホンを拾い上げた。
もう、音を遮るための鎧はいらない。
「……あぅ、っ……。う、ううぅ……っ……悠さん。……わたしには、悠さんしかいないよぉぉ」
モニターの中の、寂しげに笑う悠さんを見つめる。
まだ、チャンスはある。
彼はわたしを嫌いじゃない。むしろ、魅力的だと言ってくれた。
彼が「自分じゃ不釣り合いだ」なんて言ったけど今のわたしは彼に見合っていない。
だから胸を張って彼の隣を歩けるわたしになるんだ。
彼が「ちゃんと見て、大切にしたい」と言ってくれたわたしのことを、私自身が誰より大切に思えるように。
画面の中の景色じゃなくて、この生身の心で、彼が見ている世界を一緒に歩きたい。
わたしは、部屋のカーテンを勢いよく開けた。
差し込んできた光に、思わず目を細める。
「……待っててね、悠さん。次は、画面越しじゃないわたしで、もう一回会いに行くから」
ドローンを呼び戻す。
帰還した分身を抱きしめて、瞳は初めて、レンズを通さない自分の瞳で、鮮やかな世界を見つめた。
――蒼井 深守
致死量の拒絶が、透明だった彼女に色を与えていく。
少女の恋は、今、モニターの外にある本物の『光』に向かって、その一歩を踏み出した。




