7話 その男、生真面目につき ―― 一枚の硬貨と命がけの告白。
この世界は、ときどき「優しさ」を忘れてるんじゃないかな――。
ふとした瞬間に、そんな場違いなことを考えてしまう。
男女比1:4という歪な環境。
街を歩けば、選民意識に浸る男たちの傲慢さと、それを取り合わなければならない女たちの殺気だった視線が、痛いほど肌を刺す。
……いや、そんな風に世界を冷めた目で見ている自分自身が、一番歪んでいるのかもしれないけれど。
レストランで、店員さんに気づいてもらえずオドオドしている客を見かけると、なぜか俺まで落ち着かなくなる。
自分の注文でもないのに、「すいません、あちらの方、呼んでますよ」と口を挟みたくなってしまう。
そんなお節介、相手にとっても余計なお世話かもしれない。
ゴミをポイ捨てする若者を見ても、正義感から怒りが湧くわけじゃない。
ただ、その後に掃除する人の苦労や、捨てた本人が後でふと感じるかもしれない気まずさを想像して、勝手にソワソワしてしまう。
結局のところ、俺はただの「小心者」なのだ。
周囲に漂う小さな不協和音が、まるで自分のことのように気になって仕方がない。
格好良く言えば共感力が高いのかもしれないが、実態はただの「放っておけない損な性分」でしかない。
駅前で歌うストリートミュージシャンに対しても、同じだ。
音程のズレた歌声に、通行人がクスクスと冷笑を浴びせている。
あれを見ていると、耳の奥が熱くなる。
まるで自分が舞台に立って恥をさらしているような、あの居た堪れない感覚。
授業中に先生をうっかり「お母さん!」と呼んでしまったアイツを見た時や、親が店員さんに無理な難癖をつけている横に立たされている時のような――。
逃げ出したいのに逃げ出せない、あのムズムズとした嫌な汗が背中を伝う。
冷笑している人たちだって、本当は気づいているはずだ。
一生懸命な誰かが笑われるのを見るのは、自分の心が少しずつ削られていくような、とても気分の悪いことなんだと。
……まぁ、そんな風に勝手な解釈を広げている俺の方が、この世界の「仕様」に置いていかれているだけなんだろうけど。
でも。
一生懸命歌う青年に冷笑を浴びせるあの空気だけは、どうしても、喉の奥に刺さった魚の小骨みたいに、ずっと消えてはくれなかった。
誰かの「一生懸命」が、ただの「笑いもの」として扱われるのは何となく気分がよくない。
……頑張ってる人は応援したくなるんだよなぁ。
駅前広場、喉を枯らして歌う青年の前。
嘲笑いながら通り過ぎる人波を分けるようにして、俺は一歩、踏み出す。
ポケットの中で指先に触れた、小さな金属の塊。
チャリン、と硬貨が跳ねる音。
◇
最近、不思議なことが続いていた。
自分の歩く先になぜかやたらと空き缶が落ちていたりする。
そして、空を見上げれば、一機のドローンがときどき俺を見守るように旋回していた。
ドローンの動きは、どこかたどたどしい。
操作している人間の「不器用な一生懸命さ」が透けて見えるようだった。
「あ、最近この辺飛んでるよね? いつも器用に飛ばしてるね。バイバイ!」
相手に聞こえているかはわからないが、一応それらしいことを言ってみた。
するとドローンは、まるで顔を真っ赤にした少女のように、激しく上下に揺れて飛び去っていった。
なんだか、面白いな。
元々、こういう「窓越しのやり取り」みたいなのはけっこう好きだ。
客船が出航するとき、甲板にいる見ず知らずの人に向かって手を振ったりとか、
上空を飛んでいるヘリコプターに向けて大きく腕を振ってみるとか。
向こうから反応があったら何となく嬉しい気持ちになる。
◇
数日後。広場で本を読んでいると、一人の少女が俺の前に現れた。
深いフードに巨大なヘッドホン。スマートグラスに流れる無機質なログ。
オーバーサイズのパーカーに華奢な身体を埋め、ブルーライトを宿したままのような青白い肌をしている。
おどおどと周囲を伺うその目は小動物みたいで、デバイスの冷たさとは裏腹に、驚くほど澄んでいた。
あ、数日前に落とし物を拾ってあげた子だ。
その時は、彼女は俺の前で「あ、う……」とだけ言って逃げてしまった。
今回は、彼女はまるで「今から決闘に挑みます」と言わんばかりの悲壮な決意を湛えた瞳で、俺を見つめていた。
ゆっくりと、自分の鎧を脱ぐようにヘッドホンを外す。
羽のようにふわりと跳ねた髪が、彼女の小さな輪郭を際立たせた。
周囲の雑音に眉をひそめ、何かと戦うように震える彼女が、口を開く。
「わ、たし……あなたのことが、……す、好きです! つき、合って、ください!」
心臓を抉り出すような、全力の告白。
その言葉を聞いた瞬間、言葉を失った。
こんなにも一生懸命に「好き」と言ってもらったことなんてなかったからだ。
彼女の全身は小刻みに震えている。
握りしめた拳は白くなり、瞳には涙が溜まっていた。
嬉しい。
素直に、そう思った。
彼女は、一瞬で見惚れてしまうくらいには魅力的だったから。
けれど。だからこそ、きちんと返事がしたい。
……冷静に考えたら、俺たちまだちゃんと会話もしたことないしな。
こんなに強い想いをぶつけてくれてるんだから、きちんと相手のことを知った上で返事をするのが筋だろう。
考え抜いた末に、彼女の目を見て、結論を口にした。
「……ごめんなさい」
その瞬間、彼女の瞳から光が消え、深い絶望の色に染まった。
「あ、あ、あああ……っ!」
悲鳴を上げ、彼女は走り出した。
「あ、待って! きちんとお互いのことをしって……!」
俺の声は、再びヘッドホンを押し当てた彼女にはもう、届かなかった。
◇
ベンチに座り込み、しばらく立ち上がることができなかった。
追いかけたい気持ちはあったが、足が前に進まない。
偶然駆け寄ってきた友人が「なんでフったんだよ!」と呆れている。
俺はたどたどしく、
「相手のこときちんと知らないのに返事なんかできないでしょ。」
と、自分の考えを説明した。
友人は「相変わらず変なところでバカ真面目だな」と俺の肩を叩いた。
彼女を追いかけることもできず、なんとなく空を見上げた。
差し込んできた夕陽が広場を鮮やかなオレンジ色に染めあげていた。
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