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その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果  作者: ヤッくん


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4話 その布地、致死量につき

――りん視点――



 狂っている。今私は、間違いなくどうかしてる。

 

 自室のキッチンで猫用のミルクを温めながら、私は自分の震える指先を必死に抑えていた。


 換気扇の回る規則的な重低音だけが、今の私の正気を辛うじて繋ぎ止めている。


 だが、その背後――脱衣所の方からは、ザーザーというシャワーの音が、鼓膜を直接、そして執拗に撫でるように響いていた。


 男女比一対四。


 この歪な数字が支配する世界において、男の子は生まれながらにして「搾取する側」の人間だ。


 努力もせず、女の献身を吸い尽くし、当たり前のように複数の女性を侍らせて使い捨てる。それがこの世界の、反吐が出るような「普通」だ。

 

 そんな世界に絶望し、二度と男に自分を切り売りしないと決めていた。


 大学時代から社会人一年目にかけて、私が捧げたあの地獄のような二年間。


 アーティストになる夢に破れて腐っていた元カレを、私は「私が支えてあげなきゃ」と、持ち前の前向きさで支え続けた。

 

 自分の食費を削り、必要な機材や楽器を買い与え、営業職の仕事でボロボロになって帰った後も彼の部屋を掃除し、手料理を食べさせ、再起を願って励まし続けた。知り合いや友人、お店や会社にも頭を下げて、ライブや音源を宣伝してもらえるようにお願いもした。


 その結果、彼はメジャーデビューを掴み取った。……その時は本当に嬉しかった。


 けれど、成功した瞬間に彼は私を捨てた。



――「君といると惨めだった頃を思い出して重い」と。


 

 私は、彼の夢を再起動させるためだけの使い捨てバッテリーだったんだ。

 

(……なのに、なんで。なんで私は、この人をこの部屋に入れちゃったのかな)





 すべての始まりは、今日の昼過ぎ。


 どんよりとした雲の下で、一人の男が捨てられた子猫を慈しむように撫でているのを見かけたところから始まった。


 端正で、どこか浮世離れした清廉な空気を纏ったその男――結城悠ゆうきゆうという青年は、箱の中に丸まっていたやや大きめなラグドールの子猫を、慈しむように優しく撫でていた。


「飼えなくてごめんな。良い飼い主に拾われてな」


 そう言いながら子猫にキャットフードのパウチを与えていた。そして、少しでも誰かの目に留まりやすいよう、通行人の邪魔にならない範囲で、かつ目立つ場所に箱を整えていた。

 

 その言葉と行動を見た瞬間、私の脳裏に「かつての自分」がフラッシュバックした。


 献身的で、お人好しで、自分の身を削ってでも誰かを救おうとする――あの、馬鹿みたいに無防備だった頃の私。

 

 最初は、演技やパフォーマンスだと思った。優しいフリをして、面倒な後始末を後々女に押し付けるためだと。


 けれど、土砂降りの雨の中に戻ってみれば、彼は再びそこにいた。


 彼は子猫が濡れないように手際よく傘を立て、自分が濡れるのも構わずに、フードを小皿に移していた。


(あ……。あぁ、だめだよ。そんなことしちゃ、だめだよ……)

 

 胸が締め付けられるような痛みが走る。

 彼の中に、かつての私と同じ「無償の奉仕」を見てしまったから。

 

 この世界で、その献身はつけこまれる要素でしかない。


 このままじゃ、彼は私と同じように、どこかの悪い女に利用され、吸い尽くされ、最後にはボロボロになって捨てられてしまう。

 

「これじゃ、ここに置いておくのは無理だよ……。私の家、すぐ近くだから。今日だけは、うちで引き取るよ!」

 

 叫んだ私に、彼は躊躇なく「僕が運びます」と言って、泥にまみれた段ボールを抱き上げた。

 

 この世界で、女に指一本動かさせない強さを持った男なんて、初めて見た。

 雨を切り裂いて走る彼の背中を見ながら私はそんなことを思っていた。


 この人は「善人」だ。そして同時に、この残酷な世界で最も「食い物にされやすい獲物」なんだと。

 

 マンションの玄関に辿り着いたとき、彼はびしょ濡れで震えていた。それなのに、彼は私に猫を渡すと、当然のように雨の中へ戻ろうとした。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! きみ、そんな状態で帰るつもりなの!?」


「え? でも、迷惑でしょうし……僕は歩いて帰れますから」

 

 フラッシュバックが止まらない。


 かつての私も、そうだった。相手に迷惑をかけないようにと自分を後回しにし、最後には居場所すら失った。

 

「バカ言わないでよ! シャワー浴びていって。服も貸してあげるから!」

 

 招き入れたリビングで、悠くんは申し訳なさそうに座っていた。


 予備のタオルを彼に手渡すと、彼は自分の顔を拭くよりも先に、躊躇なく子猫の元へ膝をついた。


「ごめんな、寒かったよな。もう大丈夫だぞ」


 驚いた。彼は自分の髪から滴る雫が床を汚していることにも気づかず、温かいタオルで丁寧に、慈しむように猫の泥を拭い始めたのだ。


 自分の冷え切った体温のことなんて、これっぽっちも考えていない。さらには猫を拭き終えると、お礼を言う前に、自分が汚してしまった玄関の床を、キッチンペーパーで丁寧に拭き取っていたのだ。

 

(なんで……? なんでそんなことするの?)

 

 元カレなら、当然のように「タオルでふいておけ」と言うはずだ。

 ひどければ「そんな汚い猫は早く捨ててこい」と命令したはずだ。

 その後は「はやく床の汚れを掃除しろ」と鼻で笑うところまでがワンセットだ。

 

 それなのに、彼は私の手を煩わせないように、必死に自分のできることを探して、それを果たそうとしている。


 その「与えすぎてしまう」危うい姿に、私の心臓は警鐘を鳴らし続けていた。

 

「あ、凛さん。シャワー上がりましたか。……水、飲みますか? これ、俺の飲みかけですけど……良かったら。あ、でも、よく考えたら家に水くらいありますよね。図々しいこと言ってすみませ……」


 悠くんはハッとしたように、差し出した手を引っ込めようとした。


 私が貸した部屋で、私が用意した服もシャワーも借りる。だから彼は、自分の方が「お返し」をしなければならないとでも思っているみたいに、必死に気を遣っている。


 男ならふんぞり返って「水持ってこい」って言えばいい世界なのに。この人は、自分の飲みかけを分けることすら「厚かましいこと」だと、申し訳なさそうに眉を下げている。


 その、あまりにも不器用で真っ直ぐな誠実さが、私の胸をズキズキと締め付ける。


「……ううん。ちょうど、喉かわいていたところなの。……いただくね」


 私は、冷蔵庫に詰め込まれたストックなんて存在しないかのように、彼のボトルを奪い取るように受け取った。


 悠くんが口をつけた、その場所。けれど、それを見つめた瞬間、言いようのない衝動が喉をせり上がってきた。


(だめ、今飲んだら……私、この人の前でどうなっちゃうかわからない……っ!)


 理性が警報を鳴らしていた。この「熱」を帯びたまま飲み干せば、何かが決壊してしまう。


「あ、でも……喉、そんなに渇いてなかったかも。これ、あとでゆっくりいただくね」


(ふぅ......なんとかごまかせた......よね?)


「……え? あ、はい。そうですか……?」


 悠くんが、少しだけ不思議そうな、違和感を覚えたような顔をした。


 さっき「喉がかわいていた」と言ったばかりの私が、受け取ったボトルを宝物のように抱えて動かないのだから、当然だ。


 営業職として致命的なまでの、支離滅裂な対応。でも、今の私にはそれが精一杯だった。

 

「じゃあ、ここに置いときますね」


 無造作に置かれたペットボトル。そのボトルの中に含まれた彼の唾液。彼の体温。

 

「じゃあ、次は俺がシャワーをいただきますね。あ、服はお借りしてしまってすみません。後で自分で洗いますから」

 

 ――自分で洗う。


 その言葉が、私の心臓を激しく撃ち抜いた。


 この人は、本気で私を「食い物」にしていない。この狂った世界でたった一人、自立した魂を持って、女に寄生せずに生きようとしている。

 

(こんな誠実な人、いつか誰かに搾取されちゃう……だめ。絶対に、だめ。こんな心が綺麗な人、このまま外に出しちゃいけない)

 

 悠くんが脱衣所へ入っていく。ザーザーというシャワーの音。


 ……今の彼は、丸裸だ。私の家で。私の石鹸を使い、私のシャワーを浴びている。

 

 その事実を噛み締めるほどに、私の中の「正義感」が、どす黒い「監禁欲」へと変質していくのがわかった。


 こんなに優しくて、こんなに無防備。


 もし彼が街に出れば、女たちはハイエナのように群がるだろう。


 彼の飲みかけを奪い合い、彼の優しさに付け込み、彼を自分たちの都合の良い「王子様」へと作り替え、飽きたら使い捨てる。

 

(そんなの、私が許さない。絶対に、許さない。……彼を守れるのは、同じ地獄を見てきた私だけだよ)

 

「……タオル、置いておくね」

 

 私は、自分への言い訳を用意して脱衣所のドアを開けた。瞬間、充満していた熱気と湿り気が、私の顔を丸ごと包み込む。


 嗅ぎ慣れた石鹸の香りと――それを暴力的な質量で上書きするような、濃厚で、生々しい『男の気配』。


 視界が白く霞む中、私の視線は一直線に『それ』を捉えた。


 床に置かれた洗濯カゴ。一番上に、投げ出された布切れ。


 先ほどまで、彼の最も秘められた、神聖にして不可侵な部分を直接包んでいた――脱ぎたてのボクサーパンツがあった。

 

「あ……, あぁ……っ……」

 

 喉の奥が引き攣る。


 それは、八割の女が一生を捧げても拝むことすら叶わないもの。





 ――その布地、まさに『致死に至る劇薬』に等しい。

 



 湯気の中に漂う、彼の強烈な体温の残り香。


 気づけば、私はその場に膝をついていた。


 震える指先が、その熱を帯びた布に触れる。しっとりと、彼の肌の湿度を吸った綿の感触。

 

 ――脳が、焼ける。

 

 私はその布を両手で掬い上げ、


そして――衝動のままに、顔を深く深く埋めた。

 




「っ……! あ……、すごっ……, はぁ……っ!!」





 

 鼻腔から、脳髄へと、ダイレクトに『結城悠』という存在が流れ込んでくる。


 今まで、搾取され続けて空っぽだった私のバッテリーが、彼の匂いという名のエネルギーで急速に満たされていく。

 

「……守ってあげる。悠くん。私が、私だけが、君を守ってあげるから……っ」

 

 肺いっぱいにアイツの匂いを吸い込むたびに、全身の細胞が歓喜の悲鳴を上げる。


 これは、変態行為じゃないから。これは「上書き保存」だから。

 彼が他の悪い女に触れられる前に、私の部屋の匂い、私の記憶、私の愛で、彼のすべてをコーティングして守らなきゃいけない。


 自分でも何を言っているのかよくわかっていない。

 

「トんじゃう……っ、こんなの……っ、全部、私だけのものにするんだから……っ!!」

 

 腰のあたりが不自然に熱くなり、膝がガクガクと震えて、立っていることすらできない。


 これが、本物の『男』。私が一生をかけて探し求めていた、搾取をしない、真実の愛。

 

 かつての私は、これを持っていて、そのせいで奪われた。


 だから、今度は私が「奪う側」になる。


 この人を世界から隔離し、私の管理下に置き、一歩も外に出さずに愛で尽くす。

 それが、君を、この汚い世界から救う唯一の方法なんだ。

 

 ……シャワーの蛇口が閉まる音が聞こえ、私は弾かれたように我に返った。


 慌ててパンツを戻し――いや、その匂いを少しでも失いたくなくて、大切に他の服の間に隠すようにして――代わりに元カレが残していった新品の下着のトランクスを出しておいた。


そうして私は脱衣所を飛び出した。


 

 

 リビングに戻ると、悠くんが、私が用意しておいたオーバーサイズのTシャツを着て現れた。濡れた髪を拭きながら、彼はどこまでも爽やかに笑う。

 

「凛さん、ありがとうございました。本当、助かりました。……借りた服、後で自分で洗濯して返しますね」

 

「……バカ。……いいってば。アタシが、全部やってあげるから」

 

 私は彼と、まともに目を合わせることができなかった。


 今の私の顔は、きっと見たこともないくらい熱く、瞳は「獲物」を定める営業のときのそれよりもずっと鋭く光っているはずだ。

 

 悠くんが去った後。玄関の鍵が閉まる音が、私にとっての「開始の合図」に聞こえた。

 

 私は再び脱衣所へ戻り、カゴの中の服の間に隠した『致死に至る布地』を抱き上げた。


「よかった。きちんとある。バレてなかった。」

 

 私はそのパンツを、自分の顔に、首筋に、そして心臓へと力強く押し当てた。

 

「全部、私がやってあげる。洗濯も、食事も、身の回りのことも。悠くんは、ただ私の部屋で、私の愛だけを食べて生きていればいいの」

 

 一対四の絶望的な世界。


 私は今、その地獄の底で、最高に美しくて、最高に甘美な「悠くん保護計画」を立てている。

 

 悠くん、君は自分がどれだけ危うい存在か分かってないんだね。


 あんな風に誰にでも優しくして……もし私以外の女が、今の君のパンツを見つけたらどうするつもり?

 

「……だから、私が君を『保護』してあげる。二度と、私みたいな悲しい思いをしないように……」

 

 浅見凛は、暗い部屋で一人、彼の残したボトルに唇を重ねた。


 それは、かつて奪われた「自分自身の誠実さ」を取り戻し、それを「独占」へと昇華させる儀式であった。

 

「……もうぜったいに、逃さないからね。悠くん」


 もう営業スマイルは必要ない。


 私には今、世界で一番守るべき相手ができたのだから。

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