18話 その女、理不尽につき――泥沼のプライドに至るまで
――如月 雫視点――
昨夜のインスタントコーヒーの味は、どういうわけか、いつもより悪くなかった。
六法全書をめくる指先が、ほんの少しだけ軽い。
悠くんが帰ったあとのパイプ椅子を眺めては、鼻の頭を真っ赤にして泣いていた彼の顔がフラッシュバックする。
(……反則でしょ、あんなの。ズルすぎるわよ)
《男女比一対四。この世界において、男性の本物の涙には一国の予算を動かすほどの価値がある。涙の大半は「計算」と「演技」で塗り固められた濁った代物だ。心からの優しさと誠実さが溢れ出した「本物の涙」など、ツチノコを探すほうがまだ簡単かもしれない》
そんな絶滅危惧種の少年に、あんな真っ直ぐな瞳で縋られたのだ。
六年間、石のように固めてきた私の理性だって、多少はひび割れるっていうものよ。
私は頭を振って、蕩けそうな脳を仕事モードに切り替えた。
やることは決まっている。悠くんを嵌めた『契約書』の法的効力を無効化するための外堀を埋めること。
(民法九十条、公序良俗違反。三億という過剰な賠償額と、一生の労働。これを『有効』だなんて言う裁判官がいたら、そいつの面を拝んでやりたいわ!)
私は受話器を取り、かつての修習時代の同期や、大手事務所の先輩たちに連絡を入れ始めた。
鳳を相手にする。そのためのバックアップは多いに越したことはない。
だが。
「……え、断るって、どういうこと?」
一人目の返答は、予想だにしない拒絶だった。
修習時代、最も正義感の強かったはずの友人は、電話越しに怯えたような声を漏らした。
「如月、悪いことは言わない。その件は捨てろ。……いや、その依頼人の名前すら忘れるんだ」
「ちょっと待ってよ。不当な契約書を破棄させるだけよ? 私たちが学んできた法は、こういう時のために――」
「法が通じるのは、鳳が法に触れない時だけだ。……鳳グループの監査法人がどこか知ってるか? 弁護士会の役員に誰の息がかかってるか知ってるのか?」
ツーツーと、無機質な音が響く。
二人目、三人目。
連絡を回すごとに、私の周囲から音が消えていく感覚。
「如月先生、悪いけど昨日の共同受任の話、白紙にしてくれ。うちの事務所、鳳の不動産部門の顧問をやってるんだ。触れただけでクビが飛ぶ」
「悪いな雫。お前とは縁を切りたくないが……悪い、本当に悪い」
私のスマホは、もはや「法律相談」ではなく「絶縁宣言」の通知で埋め尽くされていた。
昼過ぎからも異変は続く。
「……え? 受取拒否?」
郵便局からの通知を見て、私は耳を疑った。
鳳グループ本社へ送ったはずの通知書が、宛先不明でも受取拒否でもなく、『該当の部署は存在しません』という不可解な理由で返送されてきたのだ。
「そんなバカな。昨日まであったはずの窓口よ?」
焦りを感じた私は、直接交渉に持ち込もうと電話を手に取った。
だが、何度リダイヤルしても、受話器の向こうから聞こえるのは、無機質な呼び出し音だけ。
「……はは、なによこれ。漫画よりひどいじゃない」
《鳳という名の巨大な重力。それは一人の弁護士が積み上げてきた六年間の社会的信用を、ブラックホールのように一瞬で飲み込んでいく。彼女の手にあるバッジは、もはやただの金属の破片へと成り下がっていた》
◇
夕方。
事務所のインターホンが鳴った。
悠くんではない。もっと冷たく、整った、機械のようなリズム。
ドアが開くと同時に、事務所の焦げたコーヒーの匂いが、高級な香水の香りに塗り潰された。
「こんばんは、如月雫先生。……随分と、お疲れのご様子ですね」
そこに立っていたのは、一筋の乱れもない秘書服に身を包んだ女。眼鏡の奥に、感情を一切通さない藍色の瞳を宿した、鳳麗華の右腕。
九条 千尋。
「……鳳の隠密が、わざわざこんな吹き溜まりに何の用?」
私はデスクの下で、震える右手を反対の手で押さえつけた。
九条は優雅な足取りで、私のボロいデスクの前に立った。彼女が視線を落としたのは、私の顔ではなく、私の「指先」だった。
「おいたわしや。……ペンを握り込みすぎたせいで変形した指。誰にも認められず、それでも法という名の幻想に縋り付いてきた、孤独な六年間の結晶」
心臓が、凍りつく。
なぜ、彼女が私の過去を知っているのか。
「お嬢様は、あなたのその『無駄な努力』を高く評価しておられます」
九条は無造作に、一通の書類を差し出した。昨夜悠くんが見せた呪いの契約書とは違う。純白の、最高級の和紙で作られた提案書。
「結城悠との契約から手を引きなさい。……そうすれば、鳳はあなたを専属顧問として迎え入れます。地位、名声、そしてあなたが一生かかっても稼げないほどの報酬。……鳳だけは、あなたのその醜い指先が積み上げた価値を、正当に評価しましょう」
喉が、鳴った。
ずっと欲しかった。
(「女は愛嬌」だと笑った両親に。「若造」だと鼻で笑った法曹界の男たちに。私の努力を、実力を、証明したかった。そのチケットが、今、目の前にある……っ!)
「……断るなら?」
私の掠れた声に、九条は微笑んだ。慈悲深い聖母のような、あるいは冷酷な死神のような笑み。
「今月いっぱいで、この事務所の賃貸契約は解除されます。あなたの銀行口座は凍結され、弁護士会からは懲戒請求の準備が始まります。……あなたは二度と、法を語ることはできなくなる。この世界から、如月雫という存在そのものを、灰にして差し上げます」
《鳳の「粛清」。それは物理的な暴力ではなく、社会的な「存在の抹消」である。彼女たちの意向に背く者は、法廷に立つ権利すら奪われ、世界から最初からいなかったものとして処理されるのだ》
事務所の窓の外。日が落ち、街が鳳の資本による輝きを放ち始める。
「さあ、お選びなさい。……お嬢様の慈悲を受け入れ、光の当たる場所へ昇るのか。それとも、あのような『不良債権』一人のために、自ら泥沼に沈むのか」
頭が、割れるように痛い。
鳳の顧問になれば、悠くんへの圧力も緩和させられるかもしれない。……そんな甘い言い訳が脳裏をよぎる。
でも、それは「これまでの私」の死だ。
(昨日、悠くんが泣きながら見つめてくれた、私の指先。「かっこいい」と言ってくれた、彼の震える声。……もしここで鳳に屈すれば、私は、私を初めて肯定してくれたあの少年に、どんな顔をして会えばいいの?)
だが、九条の瞳は、私の逃げ場をすべて塞いでいた。
「……答えは、明日まで待ってあげるわ。いいわね? ただし、お嬢様はお急ぎです。明日の朝、結城 悠が別邸に出頭しなければ、あなたの『人生』を物理的に消去させていただきます」
九条が去ったあとの事務所には、ただ、静寂と焦げた匂いだけが残った。
私は一人、真っ暗な部屋で立ち尽くす。
キャリア、バッジ、社会的地位。私が私のすべてを賭けて守ろうとしている「正義」が、今、鳳という名の巨大な足に踏み潰されようとしている。
「悠、くん……」
(救われたと泣いて感謝をしてくれた彼。あの時、私は今まで努力してきて本当に良かったと思った。……あの温もりを、私は裏切れるの?)
デスクの上に置かれた六法全書が、今はただの、冷たくて重い紙の塊にしか見えなかった。
私は、鳳が差し出した『純白の提案書』を、震える指で握りしめた。
絶体絶命。
私は、彼の涙を裏切るのか。
それとも――。




