17話 その涙、猛毒につき。
――如月 雫視点――
私の指は、可愛くない。
節くれ立ち、ペンを握り込みすぎたせいで中指には醜いタコがある。
爪は常に短く切り揃えられ、華やかなネイルが彩る余地などどこにもない。
二十代の多くを、私はこのボロボロの指先とともに過ごしてきた。
六法全書という名の鈍器をめくり続け、インクの染みが消える暇もないほどに文字を書き殴った。
《男女比一対四。この極端に歪んだ社会において、男性は「希少価値」という名の神壇に奉られ、女性は選ばれるための「装飾」に心血を注ぐ。その中で如月雫が選んだ道は、装飾を捨て、法という名の牙を研ぐ孤独な戦いだった》
「雫、そんなに勉強してどうするんだ。女は愛嬌があればいい」
故郷の両親は、私の指を見て憐れむように笑った。
私が血を吐く思いで掴み取った弁護士バッジも、法廷で相対する人たちにとっては「若造の飾り」に過ぎなかった。
(視界に入るのは、自分を特権階級だと疑わない男たちの、退屈そうな欠伸ばかり。私の六年。磨り潰した指先。積み上げた判例。そのすべてが、この世界では「男の機嫌」ひとつに届かない無価値なゴミだった)
◇
「はぁ、今日もお金にならない仕事ばっかり」
古い雑居ビルの三階。
如月法律事務所の夜は、いつも重たい沈黙と、焦げ付いたインスタントコーヒーの匂いに満ちている。
デスクの隅で埃を被った六法全書は、私の人生そのものだ。
(……大きな仕事、こないかなぁ。今年、背伸びをして自分の事務所を立ち上げたけど、現実は甘くないわね)
法は正義を救わない。ただ、力のある者の都合で書き換えられるだけ……
そんな諦念が、安っぽいコーヒーと一緒に胃の奥へ溜まっていく。
――そんな時だった。
唐突に、立て付けの悪いドアが鳴った。
「……まだ、やってますか?」
入ってきたのは、真面目そうな雰囲気の青年だった。
身長は普通。顔は――まぁ、整ってる方かな。磨けば光りそうな、将来性に期待したくなる素材。
彼はボロボロの事務所を見渡し、不安げに口を開いた。
「じつは、相談したいことがあって……」
「はい、なんでしょうか?」
「最近、契約書にサインをしちゃいまして……。執事として、強制的に働かないといけないって」
「執事!?」
(……は? 漫画かよ! なにその設定!)
「一生、働かなきゃいけないって書いてあって……」
(だから、漫画かよ! どんな悪徳契約よ!)
「一生!? あんた、一体何をしたのよ」
「壺、割っちゃいました。三億の」
(やっぱり漫画じゃん! 某ホスト部かよ! 壺割って学園で働くやつじゃない!)
「相手は金髪のお嬢様で……」
(あぁ、そっち? 某金髪美少女とハイスペック執事の物語の方ね……)
「えっと、如月さん?」
「はぁ……悠くん...だっけ?」
馬鹿馬鹿しくて敬語も取れた。
こめかみの奥がズキズキする。
「ええと、結論から言うわね。100%騙されてる。以上」
「それが、鳳麗華っていう鳳グループの次期後継者のお嬢様で……」
「……は? 鳳!?」
話が変わってきたわね。
日本の経済を裏から牛耳るとまで言われる、あの鳳?
その名前を聞いた瞬間、私の背筋に嫌な汗が流れた。
法治国家であるはずのこの国で、鳳の意向は法律よりも重い。
けれど――。
「……もっと詳しい話を聞きましょうか。……あ、コーヒー淹れてるけど。あんたも飲む?」
◇
「(ズズッ……とコーヒーを啜りながら)ふむふむ。老婆を庇って、自爆、と」
「はい」
「一杯食わされたわね。おそらくその九条千尋って秘書と、老婆はグルよ」
「グル? でも、そんなことする理由なんて……」
「さあね。そもそも、そんな怪しい契約書にホイホイ署名するのが悪いのよ」
「軽く、パニックになってて……」
「まぁ、当事者なんてそんなものかもね」
(自分だけは大丈夫。そう思っている人間ほど、崖っぷちではコロッと転落する。……でも、このお人好しっぷりは、もはや希少種ね)
「……如月さん。これ、勝てるんでしょうか」
私は椅子に深く背を預け、力強く断言した。
「いい? 民法第九十条、公序良俗違反。さらに第九十六条の詐欺による取消しも狙えるわ。……安心しなさい」
「ほんとですか……! 良かった、本当に……っ!」
「ただし! 着手金と成功報酬はキッチリいただくわよ? 三億の借金をチャラにしようってんだからね」
結城悠と名乗る青年は、憑き物が落ちたような顔で深々と頭を下げた。
現金なものね。さっきまで死に損ないみたいな顔をしてたくせに、勝算があると言った途端にこれだ。
「いい? 相手がどれだけ巨大な資本を持っていようが、ここは日本。法治国家なの。公序良俗に反する奴隷契約なんて、私が紙屑に変えてあげるわ」
啖呵を切って、私はデスクに六法全書をドサリと置いた。
どう、頼もしいでしょ――なんて、少しだけカッコつけた自分がいたのは認める。
でも、彼の反応は、予想していた「ぱあっと顔を輝かせる」ようなものじゃなかった。
「……如月さん。……ほんとに……」
沈黙。
見れば、彼は俯いたまま、膝の上で拳をぎゅっと握りしめていた。
やがて、ポタポタとデスクの合皮に、丸い跡が広がっていく。
(なっ……!?)
不意打ちだった。
顔を覗き込むと、彼は鼻の頭を真っ赤にして、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「……ぁ、すみ、ません。……なんか、昨日から、ずっと生きた心地がしなくて……」
言葉がうまく繋がっていない。彼は袖で乱暴に顔を拭うけど、涙は次から次へと溢れてくる。
「……よかった。……ほんとに」
ありがとう、なんて言葉にすらなっていない。ただ、心の底から溢れ出した安堵。
《男女比一対四。男性が「選ぶ側」として君臨するこの社会において、男が女の前で涙を流すことは、自らの特権を放棄するに等しい恥辱とされていた。だが、悠の涙には、計算も虚飾もない、剥き出しの感謝だけが宿っていた》
ドクン。
心臓が、変な跳ね方をした。
(……この世界の男が、女に見せることなど万に一つもない、弱さと純粋さが混じり合った「涙」。……反則。こんなの、反則じゃない……っ!)
「……ば、バカ言わないで! 仕事なんだから当然よ。……ほら、今日はもう帰りなさい! 明日からさっそく準備に入るんだから!」
「はい! よろしくお願いします!」
彼はもう一度深く礼を言うと、夜の街へと消えていった。
静かになった事務所。
私は彼が座っていたパイプ椅子を見つめ、熱くなった頬を手の平で冷やした。
指先が、まだ少し震えている。
(……ちょっと、びっくりするじゃん。男の子の泣き顔なんて初めて見た。それも、あんなにピュア……)
この仕事をしていて、あんなに真っ直ぐにお礼を言われたことなんて、あったっけ?
私の「努力」が、誰かの涙を止めた。
その実感が、泥のように重かった私の背中を、ふわりと浮かび上がらせる。
(……男の子の泣き顔って、けっこう危険かも。……というか、放っておけないっていうか……っ)
私は頭を振って雑念を飛ばした。
「……さて。やるか」
私は埃を被った六法全書を、力強く引き寄せた。




