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その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果  作者: ヤッくん


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14話 その負債、致死量につき――仕組まれた悲劇の舞台

カフェ『レゼール』の空気は、一夜にして一変していた。


先日の深夜に及ぶ模様替え。研修生の麗華さんの熱烈な――というより、逆らうことを許さない圧倒的な圧力による――提案により、店内は「鳳グループの美学を凝縮した、至高のコンセプト・ラウンジ」へと変貌を遂げていた。

 

「……すごいな、これ。本当にバイト先のカフェか?」

 

店の中央に設えられた特設展示スペースを仰ぎ見て、俺は思わず乾いた笑いを漏らした。


磨き抜かれた大理石の台座。その上に鎮座しているのは、素人目に見ても「一生触れてはいけないもの」だと直感させる、深みのある青磁の壺だった。

 

「結城くん、腰を抜かさないでくれよ。本社から直送された鳳家秘蔵の至宝だそうだ。時価……三億円は下らないらしい」

 

店長が震える声で補足する。その横には、鳳グループ広報を名乗る一人の女性が、精密機械のような佇まいで立っていた。

 

「鳳グループ会長付秘書、九条くじょう 千尋ちひろです。本日は、我があるじ……鳳 麗華様の命により、展示品の譲渡と査察に参りました」


銀縁のフレーム越しに覗くのは、すべてを見透かすような、深い藍色の瞳。耳元で切り揃えられた漆黒のボブカットは、一筋の乱れもなく彼女の白い肌を縁取っている。


身体のラインを拾い上げるタイトな秘書服の上からでも、その身のこなしには武人のような無駄のない「つよさ」が宿っていた。


九条と名乗った女性は、眼鏡の奥から俺を一瞥した。その視線は、一介のアルバイトに向けるにはあまりにも重い。

 

「……結城 悠様ですね。噂通りのお人好しそうな、……いえ、誠実そうな顔立ちで。せいぜい、この鳳の『誇り』を傷つけないよう、精進なさることです」

 

一切の感情を排した敬語で告げると、彼女は音もなく店内の隅へと移動した。

 

「……なんか、怖い人だよね。ね、麗華さん」

 

近くでメニューを整理していた麗華さんに声をかけた。彼女は黒いウィッグと眼鏡で変装しているが、その背筋はいつになくピンと伸びている。

 

「当然ですわ。九条さんは厳しいですが、それだけ鳳のブランドを愛しているからですわ。……それより悠様、あちらにお客様が見えましたわよ。早くご案内しなさいな」

 

麗華さんは、なぜか俺を「悠様」と呼びながら、わざとらしく俺を追い立てた。

ふと、頭にある疑問が浮かぶ。

 

「そういえば、さっき九条さんが言ってた『鳳 麗華』って……麗華さんと同じ名前?」

 

その瞬間、麗華さんの肩がビクッと跳ねた。一瞬の沈黙の後、彼女は眼鏡を押し上げ、頬を赤く染めて瞳を輝かせた。

 

「ええ、そうですわ! 鳳 麗華様は、わたくしにとって唯一無二の憧れですの! あまりの尊さに、わたくし、戸籍上の名前もあの方と同じ『麗華』に改めてしまいましたの!」

 

「……え、あ、そうなんだ。すごい熱意じゃん……」

 

若干引きつつも、納得した。推しに魂を売った一人なのだろう。

 

「でも、本物の鳳麗華お嬢様って、九条さんを見る限り相当怖そうだけど。同じ名前だとプレッシャーじゃない?」

 

「(ピキッ)……こ、怖くなんてございませんわ! あの方は規律を愛する、誰よりも純粋な方ですのよ! 悠様、不敬な発言は慎みなさいなっ!」


「でもさ、三億の壺をカフェに置くなんて、そのお嬢様も相当『性格がねじ曲がった金持ち』だよねぇ。きっと、人の不幸をワインの肴にするような、冷酷な魔女みたいな人なんじゃない」


「(ピキッ……ピキキッ!)……ね、ねじ曲がっ……!? 魔女……っ!? おだまりなさいなっ! あの方は……麗華様は、ただ少し、自分の信念に忠実なだけですわ! あれは冷酷ではなく、至高の『慈愛』なんですのよっ!!」


「……でもなにか意図があると思うんだよね。……教育、みたいな」


「教、教育ですって……?」


「うん。鳳グループの次期後継者なんだから、考えなしで行動する人じゃないと思うんだ。案外、この壺を置いたのは、俺たち従業員が『本物の美』に触れることで感性を磨けるように……っていう、麗華様なりの配慮かも」


麗華さんの動きが、ピタリと止まる。


「な、なるほどですわねっ! 続けてくださいっ!」


「俺たちの成長を信じて期待してくれている、すごく心の高潔な人ってことだよ。そう思ったら、少し背筋が伸びる気がするね」


怒りで逆立っていたはずの彼女の空気が、霧が晴れるように霧散した。代わりに、真っ白な頬が夕陽を浴びた林檎のようにじわりと朱に染まっていく。


「麗華さん? どうしたの、顔が真っ赤だよ?」


「な、なんでもありませんわっ! ……ふ、ふん、ようやく麗華様の高潔な志に気づきましたのね! 当然ですわ、あの方は……あの方は、世界で一番、あなたのことを……(か細い声)っ、いえ、なんでもありませんわぁぁぁ!」


麗華さんは、爆発しそうな照れを誤魔化すように、壊れたおもちゃのような動きで猛烈に掃除を始めた。


少し離れた場所でその様子を眺めていた九条が、静かに眼鏡を押し上げた。


(……おいたわしや、麗華様。少し褒められただけであんなに茹で上がって。怒ったり、照れたり、本当にお忙しいお方)


主の背中を見つめる九条の瞳に、慈しむような光が宿る。


(……でも、あんなに楽しそうな麗華様を見るのは、いつ以来かしら。少しだけ、羨ましいですね)


無自覚に毒を吐いた後に特大の「飴」を投げ込む俺と、それに全力で一喜一憂する主の姿に、九条は内心で穏やかなため息を吐いていた。


そんな時、一人の老婆が、おぼつかない足取りで入店してきた。

 

 

――悲劇は、あまりにも唐突に、そして美しく演出された。

 

老婆は展示スペースの周りをフラフラと歩いていた。そして、台座の角に杖を引っ掛け、派手にバランスを崩した。

 

「あ、あら、おっとっと……っ!」

 

老婆の体が、展示されている青磁の壺へと倒れ込む。

その瞬間、店内の時間は止まった。

 

「危ないっ!!」


俺は持っていたトレーを放り出し、床を蹴った。老婆を突き飛ばせば怪我をさせてしまう。かといって、あんな高い壺が老婆の下敷きになったら……。

 

瞬時に、老婆の体と台座の間に自分の体を割り込ませた。老婆を腕の中で抱きしめ、代わりに背中を展示台へと強く打ちつける。

 

ガシャァァァァン!!!

 

鈍い衝撃と共に、背後で何かが砕け散る音が響いた。床一面に散らばった青磁の破片。時価三億円の壺が、俺の背中に押し潰される形で粉々に砕け散っていた。

 

「あ……あぁ……。ワ、ワタシのせいで……こんな高いものを……っ」

 

老婆がその場で泣き崩れる。俺は背中の激痛を堪えながら、老婆の肩を優しく叩いた。

 

「大丈夫ですよ、おばあさん。怪我はないですか? ……よかった。これ、俺が不注意でぶつかっちゃっただけですから。心配しないでください。俺が、全部割ったんです。だから、おばあさんは何も悪くないですよ」

 

老婆を安心させるように、俺は精一杯の笑顔を作った。

その光景を見ていた麗華さんの表情が、形容しがたい歪みを見せた気がした。

 

「……素晴らしい自己犠牲です」

 

低い、氷のような声が響いた。

いつの間にか隣に立っていたのは、九条千尋だった。彼女は残骸を無機質な瞳で見つめ、それから冷酷な手つきで、一通の書類を取り出した。

 

「結城 悠様。あなたが老婆を庇い、自らの過失としてこれを破壊したことは、私の目ではっきりと確認いたしました。……店長、この壺の価値をもう一度」

 

「三、三億円だ……! 鳳家が千年も守り抜いた、至宝なんだぞ……っ!」

「三億……」


「さん、おく……?」


思考が真っ白に染まった。 三億。その数字の重みが、心臓を握りつぶしそうなほどの圧迫感となって襲いかかる。


バイトの時給がいくらだ? 一体、何万時間働けばその領域にたどり着ける?


冷たい汗が背中を伝い、膝がガクガクと震えだすのを止められなかった。

 

そこに、麗華さんが慌てて駆け寄ってきた。

 

「まぁ! なんて可哀想な……! 九条さん、何か『別の形』での返済方法はございませんの?」

 

「……そうですね。鳳 麗華様は、『誠意』を重んじるお方です。……結城様。もし、あなたのこれからの『一生』を鳳家に捧げるというのなら、この支払いを……猶予して差し上げてもよろしいかと」

 

「……俺の一生を……?」


突きつけられたのは、金銭での返済か、あるいは人間としての自由を売り渡すかという、究極の選択。


チラリと、隣で震えている老婆を見た。


もしここで俺が「老婆が杖を引っ掛けたせいだ」と証言すれば、俺の人生は助かるかもしれない。だが、このおばあさんの人生は、その瞬間に終わる。


(…………それは......できるわけない)


喉の奥がカラカラに乾く。

震える右手を、もう片方の手で必死に押さえつけながら、俺は九条を見据えた。


「……分かり、ました。……この人を助けると決めたのは、俺自身です。その結果を……….. 受け入れ......ます。」


背負わなければ、誰かが死ぬ。 それなら――泥を被るしかない。


「この体で返せるというのなら……受け入れ...ます。……いや、返させてください」


地獄への片道切符にサインをするような感覚。 震える指先でペンを握り、契約書に自分の名前を刻み込んだ。



――その瞬間。


安堵したのか、それとも恐怖で見間違えたのか。

俺の視界の端で、麗華さんの眼鏡の奥が、夕陽を反射してギラリと光った気がした。


今まで見たこともない、ひどく熱っぽい視線。

絶望に震える俺を、じっと見つめるその瞳に、俺は一瞬だけ説明のつかない寒気を覚えた。


……けれど、すぐに彼女はいつもの困り顔に戻り、俺の肩にそっと手を置く。


「……大丈夫ですわ、悠様。わたくしも、精一杯……精一杯、あなたのことを『お世話』させていただきますから」


その言葉の響きが、なぜかやけに明るく聞こえたのは、俺の気のせいだろう。

重い契約を交わしたはずなのに、彼女の指先から伝わってくる熱は、驚くほど高かった。


それに気づく余裕もないまま、俺は差し出された地獄への契約書を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。


窓から差し込む夕陽が、俺の絶望と、何かが決定的に狂い出したこの部屋を、鮮やかに照らし出していた。

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