13話 その芳香、劇薬につき――依存と狂気、あと監禁
その瞬間、世界からすべての音が消え去った。
私は冷たいフローリングに額を擦り付けたまま、自らの心臓が喉元までせり上がってくるような、不快で凄まじい拍動に身を焼かれていた。
視界の端で、さっきまで元気に跳ね回っていた猫のユキちゃんが、不思議そうにこちらを見つめている。
「……悠くん。私ね、本当は……あなたが思っているような、立派な人間じゃないの。仕事ができるとか、清廉潔白だとか、そんなの全部ただの仮面」
震える声が、静まり返ったリビングに虚しく響く。
私は、自分が犯してきた罪のすべてを、吐き出すように言葉にした。
「……今日、ユキちゃんの具合が悪いって呼んだのも、嘘なの。ユキちゃんは、元気なの。あなたを誘い出すための、口実だったの。……それに......」
私の口が思うように開かない。
「それに、何ですか?」
悠くんの声がこころなしか冷たい気がする。
「............私、あなたの……悠くんの脱ぎたての下着を、ずっと前から盗んでいたの。それを神棚に祀って、毎日、毎日……その匂いを嗅いで……。そうしないと、私、もう一歩も外を歩けない。中身が空っぽの、ただのバケモノなのよ……っ!」
告白。それは、私がこれまで必死に築き上げてきた「浅見凛」という完璧な偶像を、自らの手で粉々に砕く自虐的な行為だった。
軽蔑される。拒絶される。ゴミを見るような目で見られ、警察に突き出される。
床の冷たさが、自業自得の審判を待つ私の心臓を凍らせていく。
だが、返ってきたのは――沈黙だった。
数秒、あるいは数分に感じられた、死のような無音。
「……っ。……ごめんなさい。……。今日はもう、帰ります」
悠くんの声は、ひどく掠れていた。それは嫌悪からなのか、処理しきれない情報の濁流に飲み込まれた人間の反応なのかは私にはわからなかった。
顔を上げることができなかった。ただ、彼の足音が玄関へと向かい、重苦しい扉の閉まる音が、私の心臓を断ち切るように響いた。
一人、取り残された。
ふと見ると、私の胸ポケットには、彼がさっきまで履いていた、あの『ヌーヴォー(脱ぎたてのパンツ)』が残されている。
彼は混乱のあまり、それを回収することさえ忘れて去っていったのだ。
私はその場に崩れ落ち、獣のような慟哭を上げた。
◇
それからの三日間は、文字通りの地獄だった。
悠くんからの連絡はない。RINE(LINE)を送る勇気も、彼を追いかける資格も、今の私にはない。
完璧だったはずの私の日常が、音を立てて崩壊していく。
オフィスでは、誰もが私を心配そうに見ていた。
「浅見さん、マジで顔色が悪いっすよー! 昨日のプレゼン資料、数字が致命的にズレてましたしー!あっもしもし?ダーリン?今日レゼールで待ち合わせねっ!」
後輩のセリフが、今の私には鋭利な刃物のように突き刺さる。
(……数字がズレてる? あぁ、そう。だって、私の世界はもう、中心を失って歪んでいるの。計算なんて、できるわけがない……)
昼休み。私は逃げ込むようにドラッグストアへ向かった。
悠くんが愛用していた柔軟剤。彼が好んで飲んでいたコーヒーの豆。それらに似た香水や芳香剤を片っ端から買い込み、自宅で浴びるように振り撒いた。
「……違う。これじゃない。……こんなの、ただの化学薬品じゃない……っ!!」
床に投げ捨てられた瓶が砕け、人工的な香りが虚しく部屋を埋め尽くす。
クローゼットの奥に鎮座する『神棚』。そこに祀られた、盗んだ「ボクサーパンツ」。
それを鼻に押し当てようとしてやめる。そのやりとりを何度も繰り返す。
恐怖。
絶望。
悠くんに嫌われた。
悠くんに不気味だと思われた。
もう、二度とあの眩しい笑顔を見ることはできない。
明日、警察が来るのだろうか。それとも、このまま音信不通で、私は死ぬまでこの虚無の中で乾いていくのだろうか。
夜。真っ暗な部屋で、私は神棚に残された『ヌーヴォー』を手に取り、ベッドに横たわった。
(……これを吸えば。これを吸えば、また「浅見凛」になれる。枯れ果てたエネルギーをチャージして、明日も笑顔で戦える……)
喉が鳴る。本能が、その生命力の結晶を求めて激しく疼く。
だが、手を伸ばしかけて、私は吐き気とともにそれを突き放した。
(……だめ。これを吸ったら、私は本当に……、本当に終わりだわ。悠くんにすべてを話して、彼の心をあんなに傷つけておいて、まだ……まだ彼の欠片を掠め取って生き長らえようとするなんて……!)
もし、今これを吸ってしまったら。
私は悠くんに向けた自分の「誠実さ」さえも、ただの嗜癖の道具にしてしまう。
「……悠くん。……私、もうダメ。……いっそ、殺して……」
枯れ果てたはずの瞳から、また一滴、涙が溢れた。
彼に会えない。彼に触れられない。彼を、二度と「悠くん」と呼ぶことさえ許されないかもしれない。
その想像をするたびに、私の全身の細胞が、恐怖で叫び声を上げていた。
私のアイデンティティは、彼という太陽を反射することでしか輝けない月だったのだ。
太陽が消えた空の下で、私はただの、冷たくて暗い岩石に成り果てていた。
その時だった。
枕元で、スマホが短く、鋭く、『ピロリン』と鳴った。
飛びつくように画面を見る。心臓が爆発しそうなほど跳ね上がる。
『悠:この水曜日は時間ありますか?』
『悠:お話があります。』
視界が白く光った。
酸素が足りない。肺がうまく動かない。指先がガタガタと震えて、まともに文字が打てない。
『凛:わかった。水曜、待ってるね。』
すぐに返信を送り、私はスマホを胸に抱きしめた。
「お話」とは何だろう。正式な絶縁宣言だろうか。あるいは、軽蔑を込めた引導だろうか。
どんな結果であっても。たとえ今日が、私の人生の最後の日になるとしても。
せめて最後は、悠くんに見せられる最高の私でいたい。
水曜日までの数日間、私は狂ったように自分を磨き上げた。食事も喉を通らないまま、肌を整え、服を選び、彼に許しを乞うための清らかな部屋に作り直した。
クローゼットの神棚は、すべて片付けた。
ただ一つ。彼が忘れていった『ヌーヴォー』だけが、まるで最後の審判を待つ鍵のように、私の指先で熱を持っていた。
◇
水曜日の夕刻。
外は、あの日と同じような霧雨が、静かに都会の喧騒を消していた。
呼び鈴が鳴った瞬間、私の精神は張り詰めた弦のように、限界を超えて鳴動した。
「……あ、……ぁ」
ドアを開けると、そこには数日前と同じ、どこかお人好しで、真っ直ぐな瞳をした彼――結城 悠が立っていた。
私を「バケモノ」と呼び、軽蔑し、警察に突き出すはずの彼が。
「……凛さん。夜分にすみません」
「……いらっしゃい、悠くん。……入って」
その声を聞いただけで、喉の奥が熱く、視界が歪みそうになる。
リビングに座る彼。私は紅茶を淹れようとキッチンに向かったが、手が震えてティーカップの取っ手すら掴めない。
カチカチと磁器が鳴る音が、今の私の滑稽さを助長していた。
結局、私は何も持たず、彼と少し離れた場所に立ち尽くすことしかできなかった。
「……凛さん。あの、この数日間……正直に言って、……あんな話をされて、俺、……自分の手に負えることじゃないんじゃないかって、何度も思ったんです」
ドクン、と心臓が跳ね、そのまま凍りついた。
――あぁ、やっぱり。
「手に負えない」。それは、私という存在が、彼にとって理解の範疇を超えた、関わりたくもない「怪物」だという宣告。
(終わったわ。私の人生。終了。……ばいばい、私の恋。いいえ、私の人生そのもの。……拒絶。あぁ、当然よね。明日から抜け殻のまま一生を終えることになるのね……)
「……凛さんみたいな完璧な人が、まさか俺なんかのために、あんな……あんなことを。……何て言うか、俺の想像を絶するような……不気味なことだったから……。俺には、どう応えるのが正解か分からなくて」
(不気味……。……そうよね。あんな、下着を神棚に祀る女なんて、不気味に決まってるわ。……ごめんなさい、悠くん。私を、私を殺して……っ!)
視界が急速に色を失い、喉の奥がヒリヒリと焼ける。「不気味」「正解が分からない」
――それは、暗に「警察」や「精神科」へ委ねたいという拒絶の響き。
私は自らの命の火が消えるのを待つように、深く、深く目を閉じた。
「――でも、」
その接続詞が、静止した私の世界を、大きくに揺らした。
「嫌いになったり、軽蔑したりはしてません。……ただ、凛さんに、あんなふうに床に額を擦り付けさせてしまったことが、俺は……すごく悲しかったんです。あんなに素敵な凛さんが、俺に対して、そんなに自分を卑下しなきゃいけないなんて」
「……悠くん、……悠くん……っ」
名前を呼ぶだけで、止めていたはずの涙が溢れ出した。
あぁ、世界にたった一人。こんなケダモノを受け入れようとする人間が、目の前にいる。
「だから、凛さん。……元気だしてください。はやくいつもの凛さんにもどってください。」
悠くんは困ったように笑いながら、紙袋から一着の「ジャケット」を取り出した。
「代わりに、これ。……俺が昨日まで着ていたジャケットです。洗濯しないでそのまま持ってきたから……あ、不潔ですかね? でも、凛さんが必要としているのって、こういうことなのかなって。……これを貸します。……これで、我慢してください」
「……え、……これ、を……?」
「これなら、盗まなくても、俺が凛さんに『貸したもの』だから。……罪悪感なんて持たなくていいかなって思ったんです。……寂しくなったら、これで充電してください。……だから、もう泣かないで、凛さん」
悠くんが立ち上がり、ゆっくりと私の隣へ歩み寄った。
そして、その大きな手が、私の細い肩にそのジャケットを優しく掛けた。
――ッ!!
その瞬間。
生地に残った彼の強烈な体温と、あの「ヌーヴォー」よりもさらに濃密な、生命力に満ち溢れた香りが、私の全細胞を蹂躙した。
肺が、脳が、皮膚が、結城悠という劇薬によって強制的に上書きされていく。
「あ、……あぁっ、あぁぁぁ……っ!!」
視界が真っ白に弾けた。
枯れ果てていた精神に、致死量を超えるエネルギーが注ぎ込まれる。あまりの多幸感と、彼に「認められた」という倒錯した充足感。
「ひ、ぅ……、あ、……ぁ、……っ!!」
膝から力が抜け、私はそのまま彼の足元に崩れ落ちた。全身が激しく震え、脊髄を電流が走る。悠くんの目の前だというのに、彼の匂いに包まれた快楽を抑えることができない。
「凛さん!? 大丈夫ですか!?」
「あ、……あぁ……っ、……い、い……っ、いいの、……これ、すご……すごすぎ……っ、にゅっ、にゅぅぅ……っ!!」
ビクン、ビクン、と私の身体が痙攣するように跳ねる。
ジャケットに顔を押し当て、貪るように彼の香りを吸い込みながら、私は白目を剥き、よだれが垂れるのも厭わずに悶絶した。
安堵、歓喜、劣情。それらすべてが混ざり合い、私の理性を完膚なきまでに破壊する。
(あ……ぁ……っ、許された……っ。私は、公式に……彼のバケモノとして飼われることを……許可されたんだわ……っ!!)
「悠くん……、悠くん……っ! ありがとう……あぁ、本当に……っ、これからも、あなたに会えるのね……? 捨てられないで、済んだのね……っ!?」
私は彼の脛に頬を擦り付け、縋り付いた。
涙と汗でぐちゃぐちゃになりながら、彼を見上げる。その瞳には、彼を一生逃がさないという、底なしの暗い独占欲が宿っていた。
「捨てませんよ。……そんな、バケモノだなんて言わないでください。……凛さんは、凛さんです」
悠くんの手が、私の乱れた髪を、震える背中を優しくさする。
その感触が、さらに私の熱を煽る。
嫌われなかった。まだ、彼のそばにいてもいい。それどころか、彼は自分の意志で、自らの「私物」という鎖を私に与えてくれた。
あぁ、もう、私にはこの人しかいない。この優しすぎる太陽に、私の人生のすべてを捧げ、吸い尽くし、最後には二人で溶けてしまいたい。
「……悠くん。……私、絶対に……絶対に、返さないから。……あなたを、一生……っ。……悠くん。……私の、神様……っ」
私はジャケットの襟元を噛み締めるように抱きしめ、恍惚の絶頂の中で、再び激しく身体を震わせた。
「あっでもパンツは、返してくださいね。」
「....................(え?)」
「というか、流石にパンツを祀るのは……やめてくださいね。……俺、神様じゃないですから」
彼はその後、少しの雑談と子猫のユキちゃんとじゃれ合ったりで、すっかりパンツの回収を忘れて帰ってしまった。
胸ポケットに隠した、あの瑞々しい「脱ぎたて」の確かな重み。
(……ヌーヴォー(パンツ)を回収し忘れるなんて、悠くんも、本当に……罪作りな人)
私はジャケットを纏い、もはや自室の空気をすべて悠くんの匂いに変えてしまいたいという衝動に駆られている。
狂おしいほどの悦びに身を浸しながら。
◇
悠が去った後の静寂。
彼女は、彼から「公式に」授かったジャケットを深く羽織り、彼の匂いという名のエネルギーで急速チャージをしていた最中であった。
だが、その安らぎは、枕元で光るスマホの画面によって無惨に切り裂かれた。
画面に映し出されたのは、とあるストリーマーのライブ配信。
『――タイトルは、献身的な飼い犬を脱がしてみた……なんてね! ケヒャヒャ! 冗談だよ、悠。そんな可愛い顔で困るんじゃねぇよォ!』
彼女の瞳からハイライトが消えた。
画面越しに聞こえる、戸惑った悠の吐息。女の歪んだ、不潔な欲望。そして、それに群がる数多の視聴者たち。
「……あぁ、そう。そういうことなのね」
彼女は誰に言うでもなく呟く。
「……やっぱり、私が守らなきゃ。あんな汚い世界から、私が、彼を救い出してあげないと」
「深夜まで営業している大型ホームセンターってあったかな。防音パネル、遮光カーテン、それと南京錠と.........」
浅見凛の第二章。
それは、愛する人を「失う恐怖」から解き放つための、美しくも残酷な、完全監禁への序曲。
【※読者の皆さまへ、お願いです】
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