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アップルパイと人間観察 P.M.


「いただきますっ」



 そう言って手を合わせた春咲れんげは子どものように目を輝かせている。緩んだ口元からは抑えきれない歓喜が伝わってきて『いただきます』の『ます』は微かに裏返っていた。

 そんな彼女の様子に、村上秋穂むらかみあきほは笑みを浮かべながら紅茶入りのマグカップを二つテーブルに置いた。不思議だなとも思う。お邪魔します、と村上家にあがって『大したものじゃないんですが』と手土産を差し出す先ほどまでの姿はひどく大人びていたというのに。今はというとマグカップを引き寄せ、立ち昇る湯気に顔を近づけて好奇心のままに紅茶の香りを嗅いでいる。小動物みたいでかわいい。

 

「わあ、アールグレイ?」

「そう、お母さんが張り切っちゃって」

 

 お互い一時期はイギリスに住んでいたということもあり、そんな会話が自然と生まれた。あの国にいれば多少なりとも紅茶には詳しくなる。外から来た者ならば特に。

 れんげちゃんと出会ったのは小学生のとき。イギリスの日本人学校。あの赤レンガの校舎で同じクラスにいたというだけの幸運だった。秋穂の方がすぐに引っ越してしまったから、実をいうとそこでの交流は一年にも満たない。それなのに大学生になった今もこうやって縁が続いてるのは、なんというか感慨深かった。


「嬉しいなあ、ありがとう。ハルカさんもお元気そうで良かった」


 嬉しいなあ、と言う間に紅茶に向けて伏せられていた春咲れんげのその目は「ありがとう」を言う直前にすうっと見開かれ、バッチリとこちらを捉える。秋穂は、こういう細かな動作から垣間見えるこの子の芯のようなものが好きだ。

 つくづく底が知れない。


 そもそも小学生時代の友達の母親、とかいう数回しか会ったことのない人の名前を覚えているのだって恐ろしい。

 れんげちゃんは小学校の頃から大人を「〇〇ちゃん・くんのお母さん」ではなく、個として扱う子だった。『お母様のお名前をお伺いしてもよろしいですか?』なんて小学五年生が一丁前に尋ねるのだから最初はみんなビックリする。こんな大人びた子がいるのかと。だからというか何と言うか。親世代からの人気は高かったし「春咲さん家のれんげちゃん」は一目置かれていたように思う。


「あき姉の家はやっぱりお洒落だねえ」

「そうかなあ、ただ物が多いだけだよ」

「確かに雑多だけど、それが煩くないし。ごちゃごちゃしてないのが凄いんだよ」


 秋穂のことを「あき姉」と呼ぶのは小学生時代の友達だけだ。呼び名ってすごい。その音を聞いただけで、自分の感覚や性格が自然とあの頃に戻っていく気がする。

 水曜日の午後三時。ど真ん中もど真ん中。あたたかい日差しが差し込むリビングと、濃茶の木材家具を基調とした村上家の重厚感。小学校の音楽室に居るみたいな気分だ。時の流れがどこかゆっくりとしている。


「これ、本当にありがとう」

「ううん、実は半分自慢したかったんだよね」


 れんげちゃんが手土産に持ってきてくれたのはアップルパイだった。家の近くにあるお気に入りのパン屋さんのものだという。タルト生地に乗ったケーキみたいなやつじゃなくて、齧って食べるような四角いアップルパイ。


「家の近くにあるお気に入りのパン屋さん、ってその概念自体が好きすぎるな」

「私の食に対する執着を舐めちゃあいけないよ」

「れんげちゃんは本当に変わらないね」


 私はもうだいぶ変わってしまったのに、という言葉は口に出さないでおいた。









 話しながらもお互いに目の前のアップルパイに手を伸ばす。楽園の禁断の果実って、あれはそういえばリンゴだったっけ。

 手に取ったアップルパイはずっしりと重たく分厚くて、存在感があった。茶色く色づいたパイ生地表面の薄皮が触った端からほろほろと落ちていくのが紙越しでも分かる。分かったから、崩れないうちにと口を開けて噛みついた。


「あ、おいしい」


 なるほど、れんげちゃんが大騒ぎするのも分かる。美味しい。これすっごく美味しい。好きな味だ。秋穂は思わず口元を手で押さえた。今私が食べてるのって、アップルパイだよね。


「んん!うっほくほいひいへしょう?」


 そんな私の様子を見てれんげちゃんは嬉しそうに何か言ったけれど、口いっぱいに頬張っているせいで何がなんだか。左手で口元を押さえ、目を細めてもぐもぐと頬張っている姿は本当に子どもみたい。上機嫌も上機嫌、幸せの絶頂にいるんだろうなって一目見ればわかる。

 そんなことを考えながら私がアップルパイに齧りついていると、れんげちゃんは欲張りな一口をようやく味わって呑み込んだようだった。

 

「そう!すっごく美味しいでしょう?」


 ああ、なんだそう言いたかったのか。ナイスリプレイ。私はうんうんと激しく頷いた。美味しい。すっごく美味しい。



「普通のアップルパイにはカスタードが入っているんだけど、これにはそれがないの。林檎も細かくしたものじゃなくて半分丸ごと入ってる。超贅沢」


 出た。春咲れんげの好き語りだ。秋穂は−−−−


「シロップが染み込んだ分厚い林檎をガブリと歯で分断。溢れた果汁がサクサクのパイと混ざって口のなかに染みていくのがもう最高で・・・!林檎のシャリッとした食感をそのまま味わえるから大好きなんだ。もちろん外側のシロップで柔らかくなった部分も好き。薄皮のあんぱんみたいなことをアップルパイでやっちゃう、っていうね。これが250円。私のなかでのアップルパイの限界価値だよ」




−−−−雪崩れ込んできたその熱量を処理するため、思考の一切を止めた。









「初めて食べた時にすっごく感動してさ。あき姉にも食べて欲しかったんだよね」


 にはにはと笑いながら最後にそう添えて、れんげちゃんはやっと沈黙した。いや、正確にはもう一口とアップルパイにむしゃぶりついたんだけど。


「はあああ、すごいねホント。れんげちゃんの言語化能力って」


 私が『美味しい』としか表現できなかったものをあそこまで。秋穂は興奮のせいか自然と笑顔になっていた。れんげちゃんは私のその反応を見て、楽しそうに上半身を小さく左右に揺らす。止まらない、止まれない。感じたことを表現せずにはいられない。その感情が爆発したときの春咲れんげはなんて生き生きとしているんだろう。この子からはとんでもなく「人生!」って響きを感じる。

 シャク、と噛み締めたアップルパイは先ほどよりも不思議と美味しく感じた。こういうのは最初のひと口目が一番なのに。『シロップが染み込んだ分厚い林檎をガブリと歯で分断。溢れた果汁がサクサクのパイと混ざって口のなかに染みていくのがもう最高で・・・!』だなんて、秋穂のなかの感想が全部それになってしまった。






 その一口を味わった私はアールグレイの入ったマグカップを口に運び、少し落ち着きを取り戻す。やっぱりアップルパイには紅茶だ。そして、話を切り替えるように思ったことをそのまま口に出した。


「それにしても、れんげちゃんって本当に美味しそうに食べるよね。こっちまで引っ張られちゃう」


 ごくり、と彼女の喉が動くのが見えた。吊り上がっていた頬肉がすうっと下がり、大きくなったその白目のなかにクッキリと黒目の輪郭が浮かびあがる。三白眼というらしいそれは春咲れんげの愛すべき特徴のひとつだった。美味しいものは呑み込んでも、言葉は呑み込まない。そんな子だと分かっているので、何か言いたいんだろうなと秋穂はすぐに察する。






 間。






「私さ、小学校の時に突然アメリカの現地校にぶち込まれたんだよね」

「うん」


 いきなり話が展開されるのは春咲れんげ名物だ。秋穂は彼女と仲良くなってから一ヶ月で慣れた。とりあえず聞く。れんげちゃんの側にいる人は大体それができる。大丈夫。だって・・・


「当時の私は英語が本当にできなくて。いくら小三レベルとはいえ、ほとんどなあんにも分からなかったんだよね」


 頷く。


「そんな私を現地校の先生も生徒たちも気にしてくれててさ。私も私で必死に伝えようとしたし、周りの会話をしっかり聞いて英語を吸収して。あの頃は全力だったよ」


 頷く。


「そしてね。必死に伝えようとすると、言葉だけじゃなくて身体もついてくるものなんだよ」


 うん?


「例えば、相手の話が分かったら頷く・相槌を打つ。分からなかったら困ったように眉を顰める。嬉しかったら笑う。そういうことね」


 あぁ。


「私が“delicious”って単語を知らなくったって、顔を綻ばせて食べていれば『ああこの子は美味しく食べてるんだな』って周りの人には分かるでしょう?」


 うわ、そういうこと。


「要は伝わればいいんだから。もちろん、英語の語彙力も会話力も身につけていったけどね」


 私は黙り込む。そして思う。

 ほら、やっぱり大丈夫だった。だって、


「だから私が美味しそうに食べるのは、その時の私の・・・言わば処世術がそのまま癖になって、今も残ってるんだと思う」



 だって、脈絡は後から繋がる。






「見知らぬ言語の場所に放り込まれたとき、本当に上達したのは非言語的コミュニケーションの方だった、ってわけ」


 そんな皮肉を飛ばして話を締めくくり、れんげちゃんはマグカップを手に取った。彼女の手には小さくなったアップルパイが残っている。話すのに夢中になっていたせいだ。秋穂は彼女の話を聞きながら食べていたから、すっかり綺麗に完食してしまった。本当に美味しかった。れんげちゃんが食べ終わるのを待っている間、手持ち無沙汰を誤魔化すように紅茶を味わう。


 春咲れんげの冷静な自己分析と、話の構成力の高さ。『美味しそうに食べるね』と言われて、その説明を『小学校の時にいきなりアメリカの現地校にぶち込まれたんだよね』から始めてしまうセンス。瞬発力。底知れない、って言葉は本当に正しいなって思う。




「ごちそうさまでした!」


 

 

 あっと言う間、ぺろりとアップルパイを完食しやれんげちゃんはそう言って手を合わせた。私は彼女に改めて感謝を伝える。


「れんげちゃん、本当にありがとうね。めちゃくちゃ美味しかった!」


 そして私もごちそうさま、と秋穂は心の中で付け足した。アップルパイだけじゃなくて、れんげちゃんのことも。

 言いようのない多幸感に包まれながら秋穂は思う。春咲れんげと次に会うのはいつになるかな、と。私たちは確かに仲が良いけれど、何しろれんげちゃんは高カロリーだから。そう頻繁に会うことはない。でもそれでいい。こんなに楽しいことに簡単に慣れてしまってはいけないと秋穂は思っている。

 ただ、れんげちゃんのことが大好きというのも本当だ。だから秋穂は真っ直ぐに前に向き直り、手を合わせて言う。また会おうねと思いながら。

 その言葉を丁寧に発音してみる。







「ごちそうさまでした」






 噛みついたリンゴの食感を、身体がまだ覚えている。




 パン屋さんに入ると、食欲の暴走なのかワクワクとした高揚感の現れなのかは分かりませんが、カチカチとトングを鳴らしたくはなりませんか。私はいつもそうやってパンを威嚇しながら巡回してます。優柔不断だから毎回悩むけど、結局必ず1コは塩パン。

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