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正一1

彼女が仕事から僕の家に帰ったら、僕たちの本当の一日が始まる。切り妻造りの日本家屋は、数年前に、室内を和洋折衷なスタイルにして、モダンで暮らしやすいようにリフォームしてあった。正一が常に磨かせている擦りガラスにサッシを十字に取り付けてある、家に入るための引き戸を、正一は玄関に下りてから左に引いて、がらがらと彼女のために音を立てて開けた。

「紅子。お帰り。さあ、部屋に入るんだ。君は僕の囚人だろう?」

「もちろんよ。ご主人様。私はペットよ。奴隷よ。従順な生徒よ」

 一軒屋の借家に一人で暮らす真田正一は、紺のパンプスを脱いだ紅子を玄関のすぐ手前の部屋に押し込んだ。

「昨日の幕末のところから復習していたまえ」

そう言って、真田は部屋の鍵をかけて、自分は家の中心にある居間で彼女が帰ってくる前から読んでいた週刊誌の続きのページをめくった。しばらくしてから、思い出したように真田は、

「トイレは?」

と呼び掛けた。

「ごめんなさい。漏れそうなの」

「早く言いなさい」

真田は扉を開けてやった。紅子は、扉の前で足踏みしていて、戸が開くと一目散にトイレへ駆け出していった。

「やれやれ」

真田は溜息をついた。

「まともな女になるには程遠いな」

紅子に聞こえるようにそう呟くと、トイレから「ごめんなさい」という声が聞こえてきた。トイレのドアの前の廊下の壁に背中を預けて紅子を待った。正一にはこの自分の気配が、威圧感が伝わっているような気がする。その根拠は、自分の紅子に対する、普段からのしつけと支配だ。すぐにトイレから彼女が出てきた。

「手を洗って」

「はい」

洗面所に行くために正一に背を向けた紅子の尻を下から撫で上げたくなったが、堪えた。今は快楽の時間じゃない。

「どこまで進んだ?」

「えーと、五稜郭の戦いまで」

「遅い」

紅子は俯いた。

「君は恵まれているんだ。こうやって男性からマンツーマンで一人前になるための訓練を受けさせてもらえているのだからな。それとも、何か不満が?」

「ないわ」

「部屋に閉じ込められることはどう思っている?」

「私……」

紅子は俯いたり、正一の目を見たりを繰り返した。

「あなたに閉じ込められるのが何故か好きなの」

正一はうんうん頷いた。

「そうだろう。そうだろう。女とはそうしたものだ」

正一は熱弁を振るい始めた。

「女性とはな……」

「男性や周囲の人間が気分良くいられるように振る舞い、教育されるべきものだ。その知識や能力は飾りだ。さり気なく披露して、可愛がられるための価値を身に着けなければいけない。最高のアクセサリーで、最高の玩具、最高のペットであること、それこそが女の名誉で、女の最高の形だ。馬鹿やブスは相手にしている男まで馬鹿に見られてみっともないから駄目だ。かしずくのが女の仕事だ。女の生きる意味はそういったことに全て集約されている。何度も教えているからもう知っているよな?」

「はい。先生」

くすりと上目遣いの紅子が笑った。正一は紅子の頭を撫でた。

それから一時間、紅子を部屋に閉じ込めてから、正一は戸を開けて部屋に顔を出した。

「テストの時間だ」

紅子は、ドアから見て正面に取り付けられた艶々した油っぽい黒い面格子のはまった窓の右に備えられている、正一が学生の頃に使っていた勉強机で暗記の為に何か書き取っていたが、筆を止めて振り返ってこちらを見た。

「昨日までの所でしょ?」

「復習する時間はたっぷりあげただろう?」

「大丈夫よ。私は優秀な生徒でしょう?」

「もちろんだ」

テストの結果はほぼ満点だった。和室の文机で採点をしている間、そこから見渡せる居間の掃き出し窓の側で紅子にはダイエットと魅力的な腹筋作りの為に、ランニングマシンでニ十分間走らせてから、器具を使って腹筋をさせておいた。

「良く出来ました」

正一は紅子を呼びつけて、正座をさせて、紅子の顔の前でテスト用紙をひらひらとはためかせてみせた。正一は高校で日本史を教えていて、歴史は教養として適したテーマであり、その実用性のなさもかえっていいと感じて、紅子に教え込んでいる。紅子はわざとらしく足を崩して倒れ込んだ。

 正一は、疲れてうつ伏せに倒れている紅子の尻を叩いた。

「勝手に姿勢を崩すんじゃない。良く出来ましたって言っているだろ?」

紅子は「ワン」と返事をした。

「またふざけて。食事と気持ちいいこととどっちがいい?」

正一は紅子の尻を股の際まで撫で回しながらそう言った。

「お腹空いた……」

「だろうな。夕食を作ってあるから食べよう。今日は中華だ。うまいぞ」

「パスタが食べたかった」

顔をあげて紅子がふくれっ面をした。

「よしよし。また今度な。今日は焼きそばで我慢しなさい」

紅子が正一の首に手を回して、そこからだらりとぶら下がって床に足を伸ばした。

「ねぇ。明日はデパートに連れていって欲しいな」

「おやおや。だらしないなぁ。何か欲しいのか」

「フェラガモのパンプスで素敵なのを見つけたの」

「ふうん。どうしようかなぁ」

紅子は突然正座して、三つ指を付いて可愛らしく頭を垂れた。

「お願い」

ふんっと、正一は鼻を鳴らした。

「いいとも。今月はこれで何も買ってあげないからな。ブランドを欲しがるのは悪いことじゃない。何せお前自身が俺のブランド品を目指して勉強しているのだからな」

「はーい」

紅子はにっこり笑った。

 正一は自我の乏しいような紅子の態度を見て、良く思った。女は自分で物を考えない方がいい。正一の自我と教育の器になってくれていればそれが一番いい。それが一番可愛い。頭の良い女がだめとは言わないが、主張のある女は頂けない。要するに女は周囲から望まれるものだけを望まれるままのように身につけるだけがいい。

「あと、安いやつでいいから指輪が欲しいな」

「安物を身に着けるくらいなら、指輪なんてしない方がいい」

「だって……」

「さあ、飯にしよう」

正一は立ち上がった。

「ね。お願いよ。前に買ってもらったのは少しすすけてきちゃって。指輪してないと、誰かが私に言い寄ってきちゃうかもよ」

「仕様のないことを言うな!」

正一は怒鳴った。

「あ……、そうでした。ごめんなさい。我儘でした」

紅子は俯いた。正一は、これは面白く紅子を弄べる機会だと分かったので、こう言った。

「あ、あー。まあ、そう言わなくていい。どうだ、食事の後に将棋を指さないか。お前が買ったら指輪を買ってやろう」

「本当に? でも、私が勝てるはずは絶対ないのだけれど……」

「大丈夫だ。絶対負けてやるから」

「ありがとう!」

紅子は正一の首っ玉に抱き付いた。暗くなったので居間のカーテンを引いてから、紅子に手伝わせて食卓を仕上げた。箸を付けるのは当然正一が先である。将棋の後、正一は紅子の一挙手一投足にこじつけて、やっぱり買ってやるのをやめようか、いやどうしようか、やはり買ってやりたいがお前のその出来の悪さと態度じゃちょっとなあ、などと言って、紅子を悶絶させて楽しんだ。それから毎朝紅子にメイクさせているベッドの上で紅子を思い通りにした。ベッドの上でも床の上でも、紅子は、おおかた正一の教育した通り、正一の予想の範囲内で動いて、反応した。朝になって目覚めると、正一の好物のワカメの酢の物や秋刀魚の焼き魚、味噌汁などが、正一が着替え終える丁度の頃合いに食卓に用意してあり、紅子は御飯をよそうために炊飯器の横に控えていた。エプロンをしていたが、その下はホットパンツと薄いキャミソールで、とても冬の朝に適した服装は思えない。これも正一の好みに合わせたものだ。

「少し太ったか?」

正一の言葉に、え、嘘、とショックを受けて、太腿の肉をつまむ。

「ご飯抜きにする」

「朝飯は食え。ランチを抜け。ランチを」

「はい」

紅子は、既に正一がついている食卓に座って、手を合わせてから箸を取った。

「きれいに食べろよ」

 正一は平凡な家庭で育った。少なくとも平凡な家庭だったと正一は思っている。父は一部上場企業のサラリーマンで、母親はたまに実家の喫茶店を手伝いに行く、基本的には専業主婦のような女だった。正一には三歳年下の妹がいた。大人しそうな綺麗な顔をした娘で、今は子供の頃よりもさらに無邪気で従順な性質になり、教員の主婦をやっている。母親も父親も妹を猫っ可愛がりして育てた。しかしその分だけ妹への束縛と干渉はきつくて細かく、紐でぐるぐる巻きに縛られるように、妹は思考の根本から窮屈に狭い範囲に押し込められて、何も好きにさせてはもらえなかった。正一は身動きが取れず言いなりになる妹を見つめて育ち、自分も娘を持ったらこのように扱って、ペットのように可愛がって自分の愉しみにすればいいと思った。真に欲しいものは、自分から要求するものは何も与えられず、要らない物ばかり押し付けられて、次第に要らない物を自分の欲するものということにしていった妹の感情の逃げ先は、読書と自分の内部の一部に隠した世界を構築していくことだった。妹は時々、ものの分かったような、それでいてうがった、独自的なものの見方や哲学的な考えを正一に打ち明けていた。しかし、母と父は妹の内部に自分のあずかり知らぬ、自分の関与していない部分があることを鋭く察して、お前は頑固だ、考え方が狭量だと、盛んに妹の人格を破壊しにかかった。妹はそのため、次第に自分の心を、自分以外の外のものに預ける癖が付いていったように見えた。よくよく考えれば狭量なのは両親の方だし、それに察しがつかないほど愚かな妹でもないのだが、何が正しいのかなんて問題ではなく、どの考え方のどういう方向に働く力が押し切る強さをもつのかという問題であった。何が正しいのかじゃない、何が強力だったのかだ。いや、何事もそうだろう。正しく筋の通った真理がいつでも用いられる世の中ならば、問題なんて何も起こりはしない。賢く聡い少女だった妹は、次第に愚鈍になり、間抜けになり、取り柄はそつがないのに愛らしく見えるということだけが残った。妹は母が考えるように考え、父が考えるように行動した。読む本の趣向は母と同じになり、芯の通った完璧主義だったのに父のいい加減さと浅薄さを取り入れ始めた。自分を打ち砕かれた妹は自分自身の意志で何もできない存在にまで追い込まれて、その妹を可愛く思った男たちが何人か、彼女を再び育てて愉しんだ。妹が連れてきた男たちと妹の様子から、正一にはそのように見えた。

 正一はその様子を見てきて、成程と思った。女とはこういう存在なのだと。どこまでも男や親の愛玩物として存在を規定されているものなのだと。

 妹には娘がいる。どのように育てているのだろう。その娘もまた娘を持つのだろうか?

 その日、紅子は七時を過ぎても正一の家に帰ってこなかった。残業でもしているのだろうと、ビールを飲みながらつまらないニュース番組を見て九時までテレビの前で待ち続けた。しかし、紅子は、いつまで待ってもなかなか帰ってこなかった。窓の外は暗くなってきた。気温も下がってきて、落ち着かなくなり、今までこんなことは一度もなかったはずだが、と多少心配になり紅子の携帯にかけたが繋がらない。夜中の十二時を過ぎてやっと繋がった。

「おい。紅子。残業か?」

正一がそう尋ねると、紅子は

「いいえ。自分の家でくつろいでいるわ」

とあっけらかんとして答えた。

正一は怒った。

「ふざけるな! 主人に心配させるものじゃない。何様のつもりだ? 勉強は一日さぼると、脳が怠けた性質を覚えるんだ。そんなことも知らなかったか? 俺のしつけが甘かったようだな。明日は日曜日だから今すぐ俺の家に来い! 鍛え直してやる」

「行かないわ。寒いし」

正一は携帯の送話口を殴ったら相手に届かないかと一瞬考えた。

「何故だ? 何考えてる⁉ 終電にはぎりぎり間に合うだろう?」

「あなたの家で一晩過ごしたくないの」

「我儘もいい加減にしろ。さあ、今すぐ来なさい」

「嫌よ」

二人は電話で口論となった。しまいに紅子はこう言った。

「あなたのところへなんて二度と行かない」

そう言い残して電話を切った。正一は気が違ったみたいに何度も何度も掛け直した。部屋の蛍光灯に反射するスマホの黒光りにいらいらして、汗で画面が濡れた。何度も何度も紅子に切られたが、正一は、紅子が着信拒否の設定にする暇もないように掛け続けた。そして十五回目の電話でやっと再び繋がった。

「紅子……頼む。明日でもいいから家に来てくれ」

「そうねえ」

いつもの紅子の無邪気な声が聞こえて正一は安堵した。

「イブ・サンローランの十五万のワンピース買ってくれたら、明日お家に行ってあげる」

「お前、それが言いたかったのか?」

「さあ。どうかな」

「分かった。買ってやる」

「『買わせていただきます』って言ってよ」

「お前……、もういいだろう。ちゃんと買ってやるんだから。変なプライドを持ち出すんじゃない」

「はーい。じゃあ、明日の十時にデパートの正面の出入り口で待ってるから。じゃあね」

電話は切られてしまった。正一は、不安と安堵が正一の心の内部を削って空虚な空間にしたような、そんな座りの悪い心地のまま一人でベッドに入って目を閉じた。一人で暗い空を落ちて行く、寂しげな色のない夢を見た。どこまで落ちても地面に突き当たらないので、早く底を見たいと願うと土に覆われた地面が眼前に現れぐんぐんと近づき始めて、今度は激突の痛みを思って恐怖したが、衝突した瞬間に目が覚めた。目が覚めると息苦しくて、自分の周りだけ酸素が薄くなったような気がした。自分を落ち着かせながらゆっくり息をしてから支度を始めた。窓の外は太陽の橙色に染まってうららかなのに、部屋の中が冷たいブルーに沈んだように見えて、寂しくて、早く紅子の顔を見なければと感じた。

 バスに揺られながらつり革につかまって、デパートへ向かった。バスの窓から、紅子がそわそわした様子でデパートの出入り口のガラス扉の前に立っているのが見えた。落ち着かなさそうにショーウィンドーの前をうろうろして、ガラスの方を向いたり、バスが走る車道に目を向けたり庇の下に入ったりしていた。自分のことを待って、待ち焦がれているのだと分かった。煉瓦のタイルを張ったデパートの壁を背にして、正一がねだられる度に買ってやったブランド品を身に付けて、さり気なくコートのポケットに片手を入れている紅子の姿は、水彩画か雑誌の広告写真のようだった。紅子というこの女の素材を手放すのは、やはり惜しい。何とか離れていくのを食い止められて良かった。等間隔に並ぶ街路樹の一つが、正一の目に映る景色の中にはらはらと扇形で黄金色をした葉をひらめかせて散らした。降車した正一が入り口扉まで歩いて近づくと、正一をみとめた紅子が小走りで駆け寄ってきた。

「全く。我儘娘が」

ごめんなさいと舌を出す紅子の頭を撫でた。紅子は上目遣いで媚びるように正一を見た。天気が良くて、冴え冴えとした冷たい空気を貫いてくる陽の光に気分を明るくさせられた。煉瓦壁は光に洗われているように気持ち良かった。

「二度こんな駆け引きをやり出そうとするんじゃないぞ」

「だって……」

背後では自動車が小気味よく何台も通り過ぎてゆく。街の匂いは都会の匂いだ。雑然さの中にも確認できる秩序だった支配。紅子は伏し目がちに申し訳なさそうだった。よく通った細い鼻筋が美しく見えた。

「困らせてみたかったの」

「困らせてどうする? 迷惑だ」

紅子は正一の腕に子犬のようにしがみついた。

「私はあなたのこと大好きで、調教されるのも気持ちいいけれど、あなたは私といて楽しいのかなって」

「それで、何で高い洋服を買わせることになるんだ。意味が分からない」

「私があなたの心にちゃんと食い込んでいるか確かめたかったの。でももうしない。あなたが私のことを思ってくれているって分かったから。でも、ワンピースはやっぱり欲しいなあ」

紅子が、厚手のT―シャツを着た正一の胸に人差し指を半ばおずおずと這わせた。

正一はため息をつきながら大人ぶって格好つけて見せた。

「今回だけだからな」

おでこを小突かれた紅子の瞳は純に澄んで、無邪気さといたいけさに濡れていた。


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