表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

行田2

行田は再び公園へ向かった。紅子へのプレゼントが入った紙袋を右手に提げていた。

「紅子ちゃん」

ベンチに座っている紅子を見つけて声を掛けたが、返事がない。一心不乱に何かの作業に熱中しているようだ。手元を見ていると、ルービックキューブをものすごい速さで回転させていた。よくよく観察していると、面の色を揃える筋もいいように見える。行田は隣に座った。

 彼女のそばに来ると、まるで「不思議の国のアリス」の世界に入ったようだ。まさしく彼女が不思議の国の住人で、その世界に吸い込まれた自分が「アリス」だろうか。ふと、ルービックキューブの全ての面の色が揃って、紅子が顔を上げた。隣にいる行田に気付くと、一瞬の間に唇を行田の唇に合わせて、離した。それから何事もなかったようにルービクキューブの立方体を手の中でもて遊び始めた。

 行田は心の水面に紋が幾つもでき、波立ったが、「不思議の国」の住人のすることだと思えば、動揺もさほどではなかった。

「はい。プレゼント」

小さな花柄が無数に入った袋から、同じような包装紙に包まれた、横三十センチ、縦二十センチほどの箱を取り出して、紅子の膝に乗せた。紅子は飴玉みたいな黒目をこっちに向けて「ありがとう」と言った。紅子は膝から箱を持ち上げて、くるくる回してから、

「開けていい?」

と聞いてきた。

「どうぞ。どうぞ。あなたの物です」

行田はおどけて答えた。

 紅子は箱の表面から包装紙の端を見つけて、そこから思い切りよくびりびりと破いていった。包装紙は破かれた三枚の紙に分かれたしまった。表面が少し泡立ったような白い箱が現れて、蓋を開けると、大き目のティッシュ箱くらいの大きさのテディベアがつぶらな黒目をつけられて、中に入っていた。

「かわいい」

紅子はテディベアを取り出して、それもくるくる回した。それから胸に優しく押し付けて、行田の髪を、頭を撫でるように、上から下へ撫でた。

 訳の分からない行動だった。しかし、行田は何故かこの訳の分からない彼女の行動で、パステルカラーのピンクの池に落とされるように恋に落ちた。

 ぽかぽかした陽気の日だった。空には雲ひとつなくて、澄んだ深い湖のような青く淡い色をしていた。肌に降り注ぐオレンジの日差しは、自分と紅子に触れた途端虹色に変わったような気がした。脳内ではそれはピンクがかった虹色に変換されていった。地面はブラウンシュガーで、噴水の水飛沫はいちごのキャンディーとケーキによくのっているアラザンの輝きだった。自分の隣でテディベアを抱きしめる少女は無垢で幼く、何か超越したどこまでいっても不条理で無秩序で、夢のようで……。

 六歳くらいの半袖半ズボンの三人の少年たちが向こうから走ってくるのが目に入った。やんちゃな走り方でやって来る。

「紅子ちゃん、それしまって。汚れるといけないから」

紅子は黙って、緩慢な動作でテディベアを再び箱に納めた。その時の紅子は妙ちくりんにしおらしく、ひなげしのような風情で、密度の濃い長い睫毛から水滴が落ちる心配をしてしまうほどしっとりとしていた。箱を支える重なった手の指から秘密の香りがした。少年たちがばたばたとベンチの前を過ぎていった。紅子は睫毛を下向きにし、それから上を向いて、唐突に

「映画に行こう」

と提案した。

 紅子は行田の手を取って、ベンチから立ち上がった。

 ワルツを踊るように紅子は行田の手を引いて、公園を出た。行田は手を引かれるまま、紅子の手の平のさらさらしたぬるい暖かさを実感しながら、紅子の歩調に合わせて、一歩後ろを、歩幅を狭くして歩いていた。Vの字を描く行田と紅子を繋ぐ日本の腕が、サーカスの綱渡りの綱のような命綱みたいに見えた。身体を隙間なくくるんで温めてくれるような春風が時折前から吹いてきて、紅子の綿毛のような黒髪を巻き上げ、スカートをひるがえした。鶯色のプリーツスカートは、それ自体が美しい女性のように振る舞っていた。

 石壁の塀が両側に続く道が切れると、紅子の左手に小丘が現れた。鬱蒼と青黒い葉をつけた樹木が、ぎゅうぎゅうに丘の表面に詰まって生い茂って、それらの暗い影が雑草の生えた地面を黒々とした濃い色に染めていたが、奥行きは見たところあまりなさそうで、頂上は陽の光が、尖った棘の円く生えた強い反射光を作っていた。裏手はおそらくコンクリートの土手か、誰かの無愛想な建造物か人家にでもなっているのだろう。反射光の背後にうっすらと水道管みたいな色のフェンスが見えた。

 紅子はその小丘に向き合って、じっと睨み、それから、丘に足を踏み入れて、上へと上り始めた。既に行田の手は離していたから、行田は慌てて後を追って、紅子を制止しようとした。

「紅子ちゃん。駄目だよ。ほら、映画の時間に遅れるんじゃない?」

紅子は振り向いて、行田を見下ろした。

「その時、やってる映画でいい」

紅子は自分の頭の上の枝を掴んだ。枝はすぐにぽきっと折れて、紅子はたたらを踏んだ。

「危ないよ。ほら、降りよう……」

紅子は、ずんずん上っていった。季節はずれにもいまだに木についている南天の実を見つけて、ぷちっと引きちぎり、わざわざ足元の地面に植えてやっていた。樹木の枝葉が、紅子の背中や頭を、黒インクを落とした透き通った水のような色をした涼し気で湿った影でくまなく覆っていた。紅子が足を踏み出そうとする一歩前を、たぬきの子供のような小さな生き物が素早く横切っていった。その生き物はこちらから少し離れたところで振り返り、紅子と目を合わせて見つめ合い、怒って襲って来るんじゃないかと心配する行田を尻目にして、ものの分かった、何やらわきまえたような様子で向こうに去っていった。紅子も何も言わず、また頂上に向かって元気よく歩き始めた。途中、木の根につかえて、紅子は転んでしまった。慌てて駆け寄り、服や袖口の泥を払ってやった。足場が悪くてしゃがめないので、膝や靴は泥を払ってやることができなかった。紅子が右手に提げている紙袋だけは一旦、取り上げて中に泥や小石が入っていないか確認して、外側の汚れをはたいて落とした。

「これ僕が持ってるね」

「うん」

紅子は少し疲れたように、下の道路へと急に降り始めた。行田は後ろから見守るようについていった。道路に辿り着くと、行田は紅子の膝をはらってやって、泥や砂を落とした。

「靴の中じゃりじゃりする」

紅子が俯いて言った。

「じゃあ、片方ずつ脱いで」

渡されたエナメルの靴を片方ずつひっくり返してぽんぽんと叩いて、中に入った砂や小石を落として、表面を、親指を使ってさっと拭いてから、また履かせた。

 駅前の映画館の自動ドアをくぐると、紅子は上映予定表も見ずに、カウンターに直行した。何も言わないで、握りしめるように取り出したラメがちらちらついた桜色の財布から、千円札一枚と百円玉八枚を一つ一つ律儀に確かめるように指でつまんで出して、係員の顔を見た。

「どの上映作品をご覧になるおつもりですか?」

係員は、助けを求めるように行田の顔を見た。

「すいません。すぐに見られるのはどれでしょう?」

「そうですねー」

係員は右斜め前の画面を操作しながら、今から近い時間に上映される作品を探した。

「『サイケな要塞』なら十分後に上映されますが」

それでいいか、と行田が紅子に聞こうとする前に、紅子が「はい」と返事したので、係員は、目線で行田に確認してから、仕方なく頷くのを認めて、チケットを印刷した。

 紅子は劇場内に入るとすぐスクリーン手前から奥へとのびる階段を楽し気に駆け上がっていった。一番後ろの列に到達したところで、追いついた行田に「どこに座るの?」と尋ねてきた。

「もう少し前ね……」

と行田は紅子の手を引いて、上った階段を少し戻って、チケットに書かれている席番号の場所へと紅子を導いていった。

 上映中、紅子は終始落ち着かなかった。過激なシーンが多い割には構成やストーリーが非常に堅苦しい戦争捕虜の物語だったので、退屈してしまったらしい。流血シーンや拷問シーンでは、紅子は目を伏せながら、殴打や血が噴く音にびくびくして、肩や背中を上下させたり、難しい長い説明のシーンでは、スマートフォンをいじくり始めて、あろうことかそのライトで周りをくるくる照らし始めて遊んだりしていて、行田はいちいちたしなめなくてはならなかった。ようやく映画館で携帯をいじってはいけないということが分かった紅子は

「ごめんなさい」

と気を落とした小鳥のような態度で謝った。

 行田は幸せを感じた。


 行田は、三十回目の十二時のプレゼントを膝の上で抱えて喫茶店「雪之丞」で紅子を待っていた。紅子によく似合いそうなオフホワイトの柔らかな糸でできたハットを買ってきた。ついでに、安価なノンホールピアスも同じ紙袋に入っている。片耳は銀の三日月、もう片方は動物の形をした可愛らしいものだった。身体の片方が感じている冷えは、外に面した横のガラスに映る翳った気候と雨のせいだ。背後に積み上げられた煉瓦の花壇に植わった、万年青みたいな観葉植物の水っぽい光の照り返しまでが、まるでこちらに冷気を与えているような気がする。そもそもこの店はいつも空調があまり良くない。 

かなり前から、二人は公園以外の場所でも待ち合わせるようになった。しかし、その頃から、紅子は時間に遅れるようになった。そうなると、行田は堪らない不安に襲われた。その不安とは、忘れられたのではないかと、つまり、約束ではなくて、行田そのものの存在を忘れたのではないかという不安に駆られた。五回目に会った時までは、紅子は約束の時間の五分前には公園のベンチに現れていた。行田は十二時きっかりに到着してやろうと考えて、いつも少し早めにきて、ベンチを見張りながら遠くの方に潜んでいたので、それが分かっていた。彼女がなかなか来ない時、携帯にかけてもいつも繋がらなかった。遅れてやってきた紅子に「どうしたの? 今日は遅かったね。十二時に会えなかったよ」

と伝えても、一向に要領を得る回答は得られなかった。

「うん。途中で犬を見たよ。今日は海の色だね」

などと言うので、どうしようもなかった。

 こちらは四六時中紅子の事ばかり考えているというのに。

 待たされて十二時を過ぎた瞬間から、紅子はああいう子だから、不注意で事故にでも遭ったのではないか、もしやもすると変な男にかどわかされたのではないか、さらに想像が行き過ぎると、あの子は自分の妄想の産物だったのではと心配が尽きなくなる。やっと現れると、行田は紅子を抱きしめて自分の中に閉じ込めて永遠に守ってやりたい気分だった。

 喫茶店で待ち続ける行田の耳にカランコロンという扉が開く時の、ベルの音が聞こえた。視線を素早く飛ばすように振り返ると、紅子が入ってきた。赤色の短いジャケットを羽織って、足首まであるひらひらしたロングスカートを身に着けている。ジャケットの中は、珍しくパリッとしたシャツで黒っぽい色なのも意外だったがフリルが付いている。ぼんやりした目で、やってきた店員をふわふわと見つめている。

「紅子ちゃん」

紅子は、行田を見つけて、相変わらずぼんやりとこちらに歩いてきた。行田は笑顔で駆け寄ってくるのを予想していた。自分は彼女の「愛する人」なのだから。紅子は、意外にもいつもと違って、行田の前に立って、ぺこりと深くお辞儀をした。そうしてから、行田の正面の席に座った。

「あーあ。十二時過ぎちゃったね。でも、これが僕らの十二時。はい、どうぞ」

行田は十二時の贈り物を手渡した。

 紅子は焦点の合っていないような目でそれを両手で受け取った。すると突然、デパートの紙袋に入った箱の上にぽたりぽたりと涙を落とし始めた。行田は仰天した。泣いている紅子なんて見たことがなかったからだ。彼女はいつも雲の上を渡っているように陽気で明るかった。そんな紅子しか考えられなかったからだ。

「お引っ越ししなきゃいけないの……」

「何だって? 引っ越し? でも、大学もあるだろう」

「ほんとは大学なんて行ってない。いつもお家にいる。お母さんもお父さんも怖くてすぐ怒るし、だから愛する人を見つけようって……」

「どこに引っ越すの?」

「カナダのトロントだって。お父さん、そこで仕事しなきゃいけないんだって。はけんだって。」

「君ぐらいの歳の子の父親が今更、転勤なんて……」

 遠慮なく泣きじゃくる紅子の涙が睫毛に膜を張って、瞳が翳ってくる。一瞬彼女をかどわかそうかと本気で思った。

「引っ越すの。これが最後のプレゼントなの。これが……」

しゃくりあげ始める彼女を目の前にして、行田は自分の身体の力が抜けていくのを感じて、抜けた分の力が涙になってあふれそうになるのを必死でこらえた。それからしばらく、二人は無言で座っていた。行田が「元気でね」と言おうとした時、紅子が

「行かなきゃ。お引っ越しの準備しなくちゃ」

と幼げに、儚げにゆらゆらと立ち上がって、荷物を左腕に抱えて、右手を差し出してきた。行田は紅子の手を握った。紅子は何故か、もう少しここにいて、と行田に言い置いて立ち去って行った。その真意は言わなかったが、行田は、自分が帰路についている間、自分の事を考えて、自分と繋がっていてほしいとか、紅子なりのロマンティックな情緒的な考えだろうかと想像して推測した。彼女が家に帰りつくまでは、彼女は自分たちを引き裂く家族の物ではないし、帰路においては彼女の思考も行田とまだ寄り添っているような感覚なのではないだろうか。

 行田は言われた通り、しばらくそこにいて、悲しみと孤独の感慨にふけった。それにしても寂しかった。指の間からこぼれきってしまった彼女との時間。惜しくて惜しくて、悔しかった。張り裂けそうという意味を初めて本当に知った。そして、そういった感情が欠くところなく、行田の心を満たしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ