行田1
行田は、昼間の公園に日光浴をしながら散歩に出ていた。春先の平日のこの時間にグレーのパーカーを羽織って、紺に白地のロゴの入ったトレーナー、デニムのジーンズパンツというラフな姿でひょうひょうと歩く二十代後半の男である自分は、フリーランスで仕事をするデキル男か、無職の男かどちらに見えるだろうといつも思う。おそらく前者も後者も両方正解だ。仕事の少ないフリーランスのライター兼パパラッチが、取りあえず当面の自分の立ち位置で仕事だ。舗道のカーブしたところで無糖でも微糖でもない缶コーヒーを買って、いつも座る水色のベンチに足を向けた。ベンチまであと五歩くらいの所で、おかしな人間が目に入った。ふんわり内向きにカールしたボブの髪がつやつや光る女がベンチの後ろの樹木が植わっている芝生に、両足をぺたんとつけて、しゃがみ込んでいる。パステルピンクのリップがつんと少し上を向いて、すねたような顔をして、チークもセーターも淡いピンク色だった。白い生地の手触りの滑らかそうなスカートを穿いている。年齢は、二十三か、それ以上に見える。女は、近づいてきた行田をじーっと見つめてきた。仕切り石の手前で足を止めて、少し離れたところから声を掛けた。
「あの、大丈夫ですか?」
女は目を大きく見開いて、それからぴょんっと飛び跳ねた。本当にウサギみたいに両足を折り曲げて飛び上がった。
「これあげる」
女は駆け寄って来て、いきなり琥珀色のベルトが付いた腕時計を、胸を張って、右手に持って突き出してきた。
「え? 何?」
行田は受け取って、時計をよく見た。文字盤も上品で、少々古めかしいが、ベルトも本革のようだ。
「ダメだよ。こんな高価なもの人にあげちゃ」
行田は返そうとした。
「ダメ!」
「いや、ダメじゃないから。ほら」
女は突っぱねてきた。
「あなたを愛したから」
「はい?」
いきなり「愛した」とはますますおかしな女だと、行田は思った。少しどっか弱いのだろう。
「わたし、あかこ」
「そう、あかこちゃんね」
「紅のあかよ」
「そう。誰か一緒じゃないの?」
「一人で来た」
行田は両方の拳を握って立っている紅子の右の手の指を開いて、腕時計を握らせようとした。しかし、紅子はまた指を内側に強く折り畳んで開こうとしなかった。
「あのねえ。ほんとに貰っちゃうよ。大体そんな場所に一人でしゃがんでいたら、変な人とか悪い人に怖いことされるよ」
「大丈夫」
「何で?」
「今日会った人に、腕時計をあげて、愛する人にしようって決めてきたから」
行田は、ややこしい子と関わってしまったと思った。
「そっか。じゃあ、お家まで送っていくから、道案内してくれる?」
「いや」
「うーん」
腕組みをして、もう、面倒くさいから貰ってしまおうかと思った。
「あなた毎日ここに来るの?」
紅子は行田に尋ねた。
「そうだな。最近は毎日だな」
うーん、と紅子は行田の真似をして腕を組んだ。
「十二時に長針と短針が一緒になるでしょ?」
「へ? うん」
「長針と短針が出会う十二時に毎日ここで会うの」
「何で?」
「そうだから」
行田は、はあ、そう、と頷いた。
「じゃあ、毎日十二時にここに来ないといけないの、俺?」
「うん」
「じゃあ、その前に家の電話番号教えてくれる?」
紅子の家族が彼女の居所が分からず心配しているかもしれないし、彼女がこれから毎日ここへ来るつもりなら教えておいた方が対処できるだろうと思い、電話番号を聞いた。
「うん」
紅子は素直によどみなく番号を述べた。
「ありがとう。じゃあ、明日」
行田は踵を返して、公園の出口へと行った。
スーパーで早めの夕食の買い物をして、アパートに帰った。自分の携帯電話を取り出して、さっき紅子から聞いた番号にかけようとした。ふと、紅子が言ったことを思い出した。
―十二時に長針と短針が一緒になるでしょ?
十二時じゃなくても長針と短針は重なる。計算では一日に二十二回重なるのだ。
ふふっと行田は笑った。
呼び出し音三回で電話が繋がった。
「もしもし」
「紅子だよ」
「ああ。家族の誰かに代わってくれるかな?」
「いないよ」
行田は心配になった。
「一人で暮らしているわけじゃないよね? 他の家族はみんな出掛けているの?」
あっけらかんとした陽気な声が受話部から響いた。
「今外にいる」
そうか、よく考えたら080から始まる十一桁の電話番号は携帯電話だ。
「うん。明日ちゃんと来てね。待ってるから」
行田はため息をついた。
「あのね」
紅子は続けて何か言おうとしたが、行田は遮った。
「紅子ちゃん。長針と短針は一日に何度も出会うんだよ。だから、毎日十二時に僕たちが会っても何の意味もないの。明日、時計を返すから、ちゃんと受け取って」
しかし、紅子は、行田が言うことを気にしなかった。
「あのね」
「何だい?」
「十二時になったら、紅子にプレゼントを頂戴」
「プレゼント?」
「プレゼントをくれたら、十二時がすぐ終わらないで、積み重なっていくから」
「ふーん」
何だかロマンチックだなと思った。
翌日、行田は公園へと歩いていった。ベンチに既に紅子が座っていた。行田は紅子がくれた腕時計を左手首に付けていた。紅子の姿を認めると、はっとして時計を見た。十二時四十五秒前。紅子の前に立った。
文字盤の十二に全ての針が触れて、紅子と行田は出会った。
紅子が行田を見上げて、声の塊を喉から出すように大きく口を開けて言った。
「プレゼントは?」
行田は雑貨屋で買った、ゴムに貝殻のビーズを通した安物のブレスレットをトレーナーの腹のポケットから出して、紅子にあげた。
紅子はそれを腕に嵌めたり、指に通して振り回したり、靴を脱いで足首に通したり、散々いじくってから、ビーズの数を数え始めた。
「一、二……」
行田は隣に座ってその様子を眺めていた。飼っているウサギにおもちゃを与えたような気がした。(うさぎなんて飼っていないが)
「十六ある」
行田は頷いた。
「うん」
「十二じゃない」
「うん。ごめんね」
紅子は手首にブレスレットを嵌めた。貝殻を模したビーズの中に混じって一つだけある線の入ったキャッツアイの青い珠が一瞬揺れた。ゴムの長さに少し余裕があるせいだ。
「でも、きれい。十二時が一個できた」
「うん。良かったね」
紅子は手首を上の方にあげて見せて左右にゆっくり振りながら言った。
「ありがとう」
それからずっと紅子は夢見るような目で斜め上を見上げるか、行田の視線をしっかり捕えて見つめるかしていた。紅子には周りというものがなく、夢想と自分の対象しか持たないようであった。
「お兄さん」
「十二時になるとね、空が海になるの」
「何で?」
「十二時は空が一番青いから、空の青から海の青になるの」
「スカイブルーからオーシャンブルーになるわけだ」
「知ってるよ。スカイは空で、オーシャンは海でしょ?」
「そうだよ。紅子ちゃんはここにいない時は何してるの?」
「大学行ってる」
行田は少し意外に思った。
「何大学?」
「聖アメリ大学。でも授業わかんない」
「何勉強してるの?」
「うーん、シェイクスピア」
「お、すごい。文学部?」
「医学部」
「何年生?」
「忘れた」
色々と信じ難いが、行田は構わなかった。
「大学行かないでいいの? 今日平日だよ」
「つまんないから、行くのやめた。それで愛する人を見つけて捕まえることにした」
「でも、行かないと卒業できないよ」
「たまに行ってる」
「今日は行ったの?」
行田は聞いた。
「行ってない。これから行く」
紅子は立ち上がった。それから行田を見ていた目で突然ぼんやり空を見上げた。
「昨日はわたしウサギとマシュマロになったの。ぴょんぴょん飛び跳ねて、それからマシュマロになってお兄さんに食べられたの。甘い甘い、って溶けながら、それからまたウサギになってぴょんぴょん家に帰ったの。お家に帰ると、わたしはまた人間に戻った。今は何だと思う?」
昨日はぴょんっと跳ねたからウサギなのだろうか? 連想ゲームなら貝のアクセサリを貰った今日なら海の魚か?
「魚かな」
「残念」
行田は笑いながら首を傾げた。
「正解は……」
「正解は?」
「イソギンチャクでした」
行田ははははと笑った。
「はは。成程。そう言えば今日は何となくゆらゆらしてるね」
「そうでしょ?」
紅子は行田の前にしゃがんで、はにかむように笑って行田を下から見上げた。紅子は甘ったるい感じの化粧をしているが、造作の整ったきれいな顔立ちをしていた。無邪気さの中にとろんとした目の表情があって、行田は少しどきりとした。
「さて、帰るかな。仕事しないと」
言い終わらないうちに、紅子はじゃあね、と駆け出していた。履いている赤いエナメルの靴が、青いブレスレットと呼応するようにきらっと一瞬目の前で光った。ブレスレットが海の吐息を吐き出したような声が聞こえた気がした。
帰り道で、行田は普段以上にふらりふらりとした足取りで、といっても酔っぱらいの千鳥足ではなく、靴の底が雲の上のような温かいふわふわした感覚で歩いていた。スーパーで総菜とマシュマロを買った。アパートに着くまでに時計の縁をつっと撫でるように触った。何度も何度も撫でた。家に着いても、ぼんやりしながらいつの間にか左手首の腕時計に右手の指が吸い寄せられてしまうので、落ち着かなくてすぐに時計を外して、机の引き出しにしまって気にしないように努めた。
パソコンを開いて芸能人に関するコラムを書き始めた。
―彼女の演技における無邪気さはどこかしらじらしい。しかし、人間は嘘が好きなもので、木絵美香の爆発的な人気はいつまでたっても爆風が収まらない。それは人間の……。
行田は突然気が付いたように立ち上がり、パーカーを羽織った。そして、車で市内のショッピングモールまで出かけた。
明日は何をプレゼントしよう?




