新田2
紅子はしょっちゅう時間に遅れてきた。一時に家に来ると言ったのに、一時間以上遅れて二時半になることなんてざらにあった。新田は律儀で自尊心の強い性格だったので、約束を守られないと、ひどく憤りを感じた。相手が紅子だと、頭が割れるように苦しかった。その日、紅子は涼しい顔をしてリビングに家政婦の格好で入ってきた。華やかな洋服に着替え始めた紅子を、新田は暗い顔で見守った。
「どうして一時間も遅れるんだ?」
新田は、ダイニングテーブルの横に棒のように突っ立って、こぶしを握り、憤慨の感情が内に籠ったような怖い声音で紅子を責めた。曇りのないシーリングライトが、絨毯の上に立つ紅子を恬淡と上から照らしていた。素足が絨毯に埋まって、少し隠れていた。さらさらとしたクリーム色のカーテンが紅子の背景になって、薄型テレビがシャープに切り込んでいた。その視界に映る優雅な趣に新田は気が狂いそうになるような気がした。
紅子はつまらなそうに新田を見た。
「けちな男。他の男友達と遊んでくる」
紅子は鞄を中指に引っ掛けるように持ち上げて、蝶のようにスカートをひらひらはためかせて廊下の方に行こうとした。新田は肺や心臓の動きが過剰になったとはっきり感じるほど動揺した。
「待ってくれ」
新田は紅子の腕を掴んで、びくびくしながら必死の思いで紅子の顔を仰ぎ見た。
「あら、家政婦の姿で表に出てくれないと困る?」
紅子は小馬鹿にするように、冷たく顎を上げて伏せた目で、新田を見下ろして、平気な表情で新田の目を見つめ返した。
「いや、そうじゃなくて、待ってくれ。行かないでくれ。そうだ、ケータリングを頼もう。高級なやつ。それから二人でDVDを見よう。帰りにまた洋服代をあげる。指輪やアクセサリーや宝石も買っていい。だから……」
「ふん」
紅子は鼻で笑った。
「みっともない男。あんたなんて一生二流の役者よ。大根役者。一生どこにもいけないで、地べたに這いつくばっているだけよ」
新田はそれを聞いた途端、思わずカッと頭に血が上って顔が熱くなり、一瞬前後の見境をなくした。新田は、紅子を平手で力強く張り飛ばした。紅子は赤くなった頬を押さえたが、動揺した風もなく、平坦な口調でこう述べた。
「もうさよならね」
紅子はそのまますたすたと出ていった。新田は玄関の方に向かって跪いて、泣きながら待ってくれ待ってくれとうめいたが、それ以上紅子に触れる勇気がなかった。
新田はその日の夜眠れなかった。
もう二度と会えなかったらどうしよう。彼女がいないとこの世はまるで砂漠だ。そうだ、彼女はオアシスだったんだ。今更気付いても遅い。どうして手を挙げたんだ。どうして……。またきっと会ってくれる。きっと。その根拠は? さよならね、と言われた。もうさよねらね、だ。もう今後一切って意味だ。どうしよう。ああ……。俺は馬鹿だ……。
一睡もせず、憔悴し切った顔で翌朝、映画の撮影の現場に向かった。撮影中は、条件反射で背筋を伸ばし、しっかりとセリフを発声し、表情も明るくしたが、休憩中は心身のダメージを隠せなかった。
「お疲れですね」
主役を演じている玉田宗一に心配された。さぞ、死にかかったような顔をしているのだろうな、と気に掛けてくれる玉田の表情の深刻さから思った。新田より若いが、礼儀正しい親切な青年だった。
「コーヒー飲みます?」
「はい……。いえ、自分で持ってくるので」
玉田のすぐ隣に、簡素な長テーブルの上でタオルやダウンジャケットを扱っていた新米のADがいた。
「私が持ってきますよ」
と、撮影所の反対側の仕切りの奥に飛んで行って、オーガニックです、元気出ますよと、紙カップに入った熱いコーヒーを差し出してくれた。部屋を模した撮影セットの中から叫び声が聞こえた。
「はーい、玉田さん、入って下さーい」
ライトがきつく白々とした光を放射する撮影セットの中に玉田は入っていって、新田はその様子をぼんやりと見つめていた。
深夜、仕事が終わってテレビ局を出ると、通りのタクシーのランプと向かいのコンビニの白い明かりが、薄っすらと瞳の奥から湧いてきた涙の水ににじんでぼんやりと広がって見えた。タクシーの後部シートに納まるとそのまま手の甲で口を押えてむせびなきながら帰った。降車して歩いていくと、マンションのエントランス前の玄関の中に、白シャツに黒のタイトスカートの女がいた。新田はまだ涙を拭っていた。家政婦姿の紅子は、
「お片付けに来たの。あなたの涙も瞳の奥にしまってちょうだい」
力が抜けた新田の手から鞄を取って、勝手にキーケースを取り出した。
「マンションの鍵は……どれかしら?」
新田は鍵の束から一本を指差した。
「ほら、しっかりしなさい」
新田は水気を瞳の奥に吸い込むように、涙を止めた。
紅子が操作盤にキーを差し込もうとすると、もっさりしたきのこのような髪型の中年の女性が、犬の散歩をしに自動ドアから出てきた。
「こんばんは」
紅子は頭を下げて挨拶した。
「夜遅くにお散歩ですか?」
「ええ、失礼ですが、このマンションな方でしたっけ?」
「いえ、家政婦の者です。新田様が、お加減がよろしくないとお電話で伺ったので、身の回りのお世話をしに参りました」
よく澄んだ柔らかい声で紅子は話す。
「ご苦労様です」
女性は出ていった。
新田と紅子はマンションのエントランスの中に足を入れた。新田は何も考えずに部屋へ向かった。紅子はよく心得た家政婦らしく、慎ましくきれいに歩いた。エレベーターで新田の部屋がある階に昇る間、顔も合わせず口も利かなかった。紅子が階数のボタンを押した。新田は、紅子が指に触れたボタンの冷たい感触を自分の身体に感じたような気がした。扉を閉めた途端、新田は自分の部屋の玄関で靴のまま泣き崩れて扉に身体の横をもたれかからせた。
「うっ、うっ、うっ、紅子ぉぉ」
新田はドアポストにこめかみをつけながら嗚咽した。紅子は聖女のように新田の首を抱きしめ、前髪を指で梳くようにかき上げてやり、新田がわざと生やした不精髭を親指で丁寧に撫でた。
「お馬鹿さん」
新田は紅子の胸に顔を埋めた。紅子は、まるで新田の母親のように、新田の耳にかかった髪を指であやすようにして、もて遊んでいた。
ベッドの上で新田と紅子は戯れていた。新田は紅子の全身にくまなくキスをして、そうされながら紅子はくすくす笑っていた。
「くすぐったいの?」
「いえ、そうじゃないわ」
紅子のくすくす笑いは続いた。女性器をいじっていても、喘ぎ声も溜息も漏らさず、ひたすらくすくす笑い続けていた。
「何がおかしいんだい?」
「さあ、何かしらね」
紅子は新田の左の乳首を強くつねった。うっと新田は小さく呻いて、紅子の横にうつ伏せになった。
「君、最近絶頂に達さないね」
上半身を起こした紅子に横目の上目遣いで、少し恨めしそうな様子で新田は言った。紅子の腰は細くて、月形にカットした高級な甘いメロンのようだった。新田はその腰に腕を回してきつく抱きしめた。
「美味しい?」
まるで心の内を見透かしたような紅子が冷めた口調で聞いてきた。
「果物みたいだ。みずみずしくて弾けてて、まるで禁断の果実だ」
「結局その程度なのね」
新田は顔を上げた。
「そんな卑下することはない。君らしくないよ。僕が言ったのは最高の賛辞だ」
紅子は片膝を立てて見下すように新田を見た。
「そんな意味じゃないわよ。グズ」
新田は嫌われたのだろうかという恐怖と不安と、さよならと言っても戻って来てくれた時の甘い心地よさを想像した。かといって、期待した顔をするのもおかしいので、不安と怪訝と形ばかりの小さな腹立ちの表情を顔に見せた。
紅子は新田の顎を指で持ち上げてキスをした。濃厚な、相手の身体の芯を壊してしまいそうな痛いキスだった。
「その程度の感受性しかないなんて残念ねって意味よ」
「ああ、そうか……。本でも読むようにするよ」
「そろそろあなたの賞味期限も切れているんじゃない?」
え、と新田は問い返した。
「才能なんてないのよ。あなたに。私の見込み違い。がっかりだわ。最近私が絶頂できないのは、あなたがつまらないからよ。呆れるほど、学ばない男だし。ベッドの上でも大根役者じゃ、何にもなれないわよ、あなたなんか」
俺は憤るよりも、ショックを受けて分かりやすくへこんだ。唖然とした顔で口を阿呆みたいに開けて、身体を引き離して、足をベッドの横に下ろすと、ペニスがベッドからはみ出て垂れ下がった。
「夜の才能がない男に芸術的な才能はないわ。今度こそお別れ」
そう言いながら、紅子はピンクのセーターにベージュのパンツをはいて、高価な深紅のコートを羽織った。
待ってくれの言葉も出なかった。新田は逆らう資格がある気がしなかった。どうしてだろう? 紅子は俺の恋人なのに。引き止める権利があるはずなのに。ペニスをぶら下げて肩を落としていた。ただ。紅子は、黒いスーツケースに、このマンションの部屋にある衣類や自分に買ってもらった様々な宝飾品、洋服、スカート、ブラウスなどを詰めていった。
最後に紅子は新田の顔も真っ直ぐは見ずに、横目でちらっと振り向いた。
「さようなら」
紅子は二度と新田のもとを訪れなかった。




