新田1
「みどり家政婦紹介所の八幡です」
マンションのオートロックのチャイムが鳴って、新田が対面キッチンから手を伸ばして通話ボタンを押すと、清廉として感じの良さそうなよく通る声がスピーカーから響いた。頭をすっきりと貫くような清々しい、それでいて柔らかく甘いイメージを新田の中に何度も咲かせた声だった。
「どうぞ」
画面に映る楚々とした表情の女をマンションの中に通した。まもなく、新田の玄関の呼び鈴の音が鳴った。扉を開けると、パリッとしたしみ一つない白シャツに膝丈の黒のタイトスカートを穿き、足元は地味な小豆色のフラットシューズで包んだ、ウェイブがかった黒髪と白いもち肌だけがセクシュアリティを感じさせる女性がそこにいた。
「よろしくお願いします。いつものようにお食事の用意からでよろしいでしょうか? リクエストがなかったので、ハッシュドビーフの材料を買ってきましたが?」
新田に、控えめに目を合わせながら右手に持ったエコバッグを顔の前に持ち上げた。
「ああ、それで構わない」
「失礼します」
女は玄関に入った。新田が扉を閉めると、女は小豆色の靴を足でなかば投げ上げるようにして、三和土に脱ぎ散らかした。そしてエコバッグを壁に向かって放りだし、ストッキングを脱いだ。白シャツも脱いだ。黒のタイトスカートも腰から引き下ろして蹴っ飛ばした。キャミソールもブラジャーもピンクのパンティーも脱ぎ捨てた。全部脱ぎ散らかして、紅子は裸で俺に飛びついて、首に腕を回して新田の右の首筋をがぶりと噛んだ。
「紅子ちゃん、来週の水曜日に七時からHSSチャンネル見てくれる?」
「あら、どうして?」
二十歳の女はくるりとベッドの上で身を転がして、仰向けになって白い胸を露わにした。
新田は、新田一斗というブレイク間近と業界内で噂される俳優だった。そして、紅子は、決して自分の存在が世間にばれることのないように上手く立ち振る舞うことができる賢い恋人だった。肩まで垂れるきれいに巻いた紅子の黒髪を梳かしながら新田は、余った方の手で乳房を包んだ。
「ドラマに出るんだ。父親役で」
「あら、お父さん、こんなことしちゃだめじゃないの。奥さんがいるでしょ?」
紅子は起き上がって蠱惑的に微笑んで新田の手を押し止めて、男をからかった。新田は紅子を再び押し倒した。
初めて紅子に出会った時、紅子はホテルのロビーで、一人掛けの黒いソファに身を埋めて、何やらきれいな刺繍のカバーをした本を読んでいた。新田は彼女に近づいた。
「申し訳ない。打ち合わせに二つ以上の椅子がついてあるテーブルが欲しいんだ。向こうの長椅子に行ってもらうことはできないだろうか?」
新田はその頃あらゆることに自信を失っていた。ワンセンテンスのセリフを言うだけの仕事が一週間に一度回ってくる程度にしか俳優としては働いていなかった。怪しげなバーでにわかバーテンダーのようなアルバイトをして生計を立てているが、先日客に不味い酒しか作れない奴だと言われ、隣でそれを聞いていた店長に試しに一杯作ってくれと言われ、ブルーハワイを作って飲んでもらうと「確かに不味いな。才能ないな」と言われた。一週間前には、彼女に「就職して私と結婚して」と迫られた。丁重に断ってなだめたが、「保険の男がいるからそっちを選ぶ」ともう用はないと言わんばかりに部屋から追い出された。今は、バーの上の階の部屋に置いてもらっている。おかげで、仕事がない時はいつでも雑用に使われる。しかし、格安で部屋を提供してもらっている上に、バーテンダーの仕事も能力が足りていないのにさせてもらっているから文句を言うことはできない。
「そこの喫茶店にでもいけばいいじゃない?」
「混んでいて順番待ちなんだ。部屋も取れない」
「取れるわよ。ゴールデンウィークじゃあるまいし」
新田は情けない顔をして言った。
「金がないんだ……」
「まあ、俳優さんって売れるまでが大変なのね」
「え?」
紅子は真っ赤な口の端をにいっと上げて笑った。
「ドラマで見たことあるわよ。早く売れないとじじいになっちゃうわよ」
そう言って、手帳を取り出して、何やら番号を書きつけた。
「席譲ってあげる。そのかわり、あなたが芸能界でブレイクしたら必ず電話してね。ブレイクしてなくてもいいわ。私、才能のある男が好みなの」
白いジャケットを、袖を通さずに肩に引っ掛けて、肩甲骨の辺りまであるゆるく巻いた髪を背中にはねさせながら、紅子は颯爽とホテルから出ていった。背が低くてほっそりしているが、姿勢のいい堂々とした背中が回転扉の向こうに消えていった。切り取られた手帳の紙には番号と「紅子」という名前が書かれてあった。
新田は既に四〇歳だ。若い女に上から物を言われて、少しも気を悪くしなかったわけではないが、手の上で転がされることに対する妙なマゾヒスティックな快感がこの時小さな種で植え付けられた。何よりも女のはっきりした態度がセクシーで魅力的で、顔立ちもきれいで凛々しかった。何というか、赤ん坊を模した人形に、大人に見えるように化粧を施したような、アンバランスだが可愛らしいくっきりした顔だった。新田はその時の打ち合わせでマネージャーから提示された映画に出演したおかげで、少しは顔と名前が世間に知られるようになった。そしてその出会いから約三か月度、新田は紅子に連絡を取った。
新田と紅子は青山の美術館に来ていた。紅子はわざと幼い格好をして新田のことを「おじさん」と呼んでいた。新田も一応紅子に言われた通り、あごひげを付けて、山高帽を被った。眼鏡をかけて鏡を見ると、山荘の管理人のようだった。「おじさん、チケット持った?」と紅子に言われて、自分でも面白おかしくなって「持ったよ」と答えた。コの字型に伸びた第二展示室で、紅子は、新田が見ているウィンドウの向かいのすみれ色の壁にかかった絵を見ていた。紅子は、「こっち来て」と新田に、薄暗い展示室の影がかかった目で合図を送ってきた。新田はこの眼差しの合図が好きだった。これに得意になっていた。紅子の目はいつも黒々と潤っていて、特にこの合図の時は泣いていないのに、涙の膜を瞳の中にらんらんと湛えていて、自分を必死になって呼びつけているようだった。それは強烈な魔法のような求心力であった。紅子が見ているのは東郷青児の「塔と女」という作品だった。グレーのグラデーションの中に、下を向いた女が憂える眼差しで浮かび上がっている。背景に古くさいおとぎ話みたいな塔が、女を引き立てるようにぼんやり佇んでいる。
「私、この絵が好き」
新田と紅子はその絵をじっと見た。
「おじさん、この絵に共感しない?」
「君は共感するの?」
「おじさんはこの絵のような仕事をするべきよ。この絵のような人になるべきだわ」
「この絵に描かれているのは女性だよ。紅子ちゃん」
いつも人を食ったような態度の紅子だが、時々妙な真面目くさった純情ぶりを、この子は発揮する。新田がそう言うと、紅子は成熟した女性のたしなめの目を一瞬向けた。そして、再び真っ直ぐで可憐な少女になって
「あなたの才能を愛しているから」
そう言った。
新田は洋服のように大人の分別を外側に身に着けながら、紅子にぞっこんだった。
激しくむつみあった後、紅子は派手で高価なワンピースや、シルクのカットソー、センスのいい花柄の短いフレアスカートなどに着替える。それらの中には新田が買い与えた物もあった。もっとも、一緒に店に買いにいったり、一人で女性の洋品店に入ったりしたわけではない。何かのゴシップのネタにされるかも知れないし、そうなると色々と探られることになるから、金を紅子に渡しただけだった。「当然よ」という態度と「感謝してる。嬉しいわ」という態度の中間を取ったような物言いで「ありがと」とさりげなく紅子は万札を受け取る。それが、すごく感謝しているのに素っ気なさを装っているように見えて、新田から見てすごく可愛らしかった。だから、何度も万札を渡した。新田の部屋には、紅子が何度も訪れて置いていった、美しい洋服が沢山、タンスやクローゼットの中にしまわれている。もし、どこかの記者が家の中を家探ししたら、最早紅子との関係を言い逃れできないだろう。
紅子は料理が上手かった。落ちてくる長い前髪を、人差し指と中指ですくいとって耳にかけながら、エシャロットを刻んで、新田がよく分からない香辛料の入った、良い香りのする鍋をかき混ぜて、サラダの水気を切った。
「お坊ちゃま。出来ましたよ」
紅子は、自分で持ち込んだ、上から見ると菱形になっている洒落た白い器にハッシュドビーフを注いで、ダイニングテーブルに出した。オーブントースターが甲高い音を立てて、もう一品出来上がりましたよ、と告げた。
「グラタン出してきて」
「俺坊ちゃまだもん」
スプーンで顎を下から叩かれた。かつんと音が鳴ったような気がして、骨が少し痛かった。
「はいはい」
新田は大人の貫禄を見せるような鷹揚とした調子で対面キッチンを回り込み、ダイニングボードの真ん中の段に置いてあるオーブントースターとテーブルを二往復して二皿のグラタンを取り出した。こんがりしたチーズの匂いが鼻から入って新田の食欲をかき立てた。サラダも紅子が冷蔵庫から出してきた。紅子の作るサラダは、いつも、何でも、そこらのレストランより別格にうまい。今日は、ほうれん草と玉ねぎとトマトと新田がよく分からない野菜と、焼いてほぐしたサンマのサラダだった。紅子は、よく食べる。何というか、もの凄い勢いでエネルギーを使って、再び満たすために何としても食べねばならないという感じで食べ物にありつくのだ。余すところなく味わいながらも次々と一口一口をスプーンやフォークで運んで、凄まじい速さと勢いで吸い込むように口に入れていく。それでも食べ方はきれいだから、構わなかったが、新田は、初めは、怖いような感心するような思いでそんな紅子を見つめていた。
「美味しい? 不味い何て言ったら二度と作ってやらないけれど」
「美味しいよ」
新田は慌てて答えた。紅子に食事を作ってほしい。これからもずっと。新田は紅子が作ったものなら、苦手な食材でも食べた。実際紅子の調理の勘が良いせいか、新田の嫌いな食べ物の苦みや酸味などがまろやかになっていたり、他の食材や調味料との調和で旨いと感じられるものになっていたりするので、そんなに無理なく口に運べるのだった。
広さも十分ある3LDKのそこそこ高価な賃貸マンションのダイニングに座って、恋人が材料費と手間に糸目をつけないで作った食事を取るのは実に贅沢で満ち足りたことに思えた。清潔でセンスのいいこざっぱりした部屋と美味しい料理。一年前の自分に見せたら、指を咥えて、早くそこまでたどり着きたいと渇望するだろう。俳優として充実してきたことが確かに一番大切で、望んでいたことだが、こういう贅沢に満たされたい、心身の欲求を満たしたいというのも、確実に切実な思いなのだ。苦労はやはり、いや絶対実らせたい。それは人の性だろう?
都会の夜景を視覚で手に入れられるベランダのカーテンを開けられないのが、少し残念だが。紅子とビル群の足元の銀河はさぞ似合っているだろうに。
「何でトースターのものは、いつも、俺がテーブルに持ってくる担当なの」
「熱いから」
事もなげに言われた。
新田は、育った家庭環境のせいで、食事の時音楽をかけて、テレビを消す習慣だったが、紅子が来てからは、モノクロの幾何学模様の絨毯の向こうに据えられたテレビを点けて、画面を眺めながら食事を取るようになった。紅子は言う。
「だってテレビを見ている方が、話題ができるからコミュニケーションも取れるし、おんなじ音楽を繰り返し聞くより、情報も得られるじゃない」
「情報って言ったって、お前は、ニュースじゃなくて、バラエティか教養番組じゃないか」
「そうよ。頭が空っぽになる馬鹿な番組と、また別の意味で思考を奪われるような芸術的できれいな教養番組が好きなの」
紅子はテレビチャンネルを替えた。鮮やかすぎる、目に痛いような強い光を発する4Kテレビの画面にサグラダファミリアが映って、アントニオ・ガウディの肖像画が映った。
「ガウディはミサに向かう道中で路面電車に轢かれて亡くなりました。負傷した際、身なりから富裕層と判断されずに……」
「間抜けだな」
そう言った新田に対して、紅子は「あら、面白い人じゃない」。
「死んだら元も子もないだろう」
「ご馳走さま」
紅子は、食器をテーブルに置いたまま、椅子から絨毯に座って足を組んだ。スカートから優雅な足の線を絶妙に見せつける。紅子はテレビのチャンネルを替えた。新田も食事を終えて紅子に寄り添うように隣に座る。紅子は部屋の照明をリモコンで少し落とした。薄明るい中にテレビの光と音声が漏れてくる。リモコンを取った時に少し上げた腰を、新田からほんの少し離れた位置に落とす。検閲者が後ろで見張っている映画館のような緊張が部屋に流れた。テレビの中で、俳優がビールバーのシックな扉の前で女優と言葉を交わす。そして俳優は女優に背中を向けて去っていこうとする。女優が裾を摑んで振り向かせ、両手で俳優の頬を包んで顔を近づけた――。その瞬間に、新田は、紅子に、素早く顔を右手で挟むようにされて無理矢理振り向かせられ、唇を重ねられた。右手はすぐに顔からほどかれ、紅子の両腕が首に回され、紅子は甘えるようにしなだれかかってきた。ようやく唇が離されると、紅子は新田の首筋をやんわりと噛んだ。
「やめろよ」
「跡が付いたら困るものね。そんなへましないけれど」
「そんな意味じゃないって」
「知ってる」
紅子は艶やかに微笑んで、そっと新田を絨毯に押し倒した。
「明日は何の仕事?」
「映画の脇役」
「主役をしたいの?」
「年も年だし、それは難しいな」
「頑張って」
ちゅっと音を立てて、軽いキスをして紅子は立ち上がった。そしてそのまま後片付けをして「明日は来られないから」と言い残して、家政婦の服を着て、帰っていった。新田は余韻が残る室内に浸されて、シャワーも浴びずにぼんやりして、下着だけ着替えてからベッドに入った。自分は上等な人間で、紅子も、それなりに悪くない仕事も得られる特別な存在であると信じた。




