京太3
京太は自分の席から立ち上がった。その途端に、いつもやぶ睨みのような目つきをしている、太ったにきび面の男子がぶつかってきた。
「気を付けろよ」
京太は同じクラスで学年一番の文科系おたくの翔平に相談を持ち掛けに、大股で彼の座っている席まで歩いていった。
「今公開中の映画なら、どれが一番センスのいい作品だと思う?」
翔平は、眼鏡の奥で女のような猫目のきれいな瞳を、開いた分厚い本の文章の行を追って世話しなく動かしていた。見るからに文科系のふわっとした薄い筋肉の上を白い肌が覆っているのが、いい加減にだらりと着た、よれたシャツから覗く胸から首にかけて見えてしまっている。また顔の皮膚の感じは、精神的に締まっているが肉体的にひ弱さを表しているように見て取れる。特にしゃれてもおらず、むしろだらしないのだが、彼は一部の女子から人気があると京太は聞いていた。肌が不気味なくらいきれいなことに、いつも感心とも呆れともつかぬ感想を抱いてしまう。
「センスって?」
翔平は、京太が良くそんなでかくて分厚い物をわざわざ持ってくるなと思うような図書館のバーコードがついた古い本から目を離さずに、ポッキーを口に咥えてポリポリ食べながら、質問を質問で返した。
「いや、だから……趣味がいいってことだよ」
ポッキーをカリッと齧って翔平は
「女だな」
と京太の顔を小馬鹿にするように見つめた。京太は動じなかった。
「そうだよ。っていうか何だよ、その本。人が物を尋ねている時は閉じろよ」
京太は本を翔太から取り上げて、窓から入る光に照らして、翔平の読んでいる本をクラスの皆への晒し者にしながら、自分もタイトルを見た。そして開いてあったページにスピンを挟んでから閉じた。本の表紙には「悪徳の栄え」という明朝体の文字と、曖昧なぼやぼやした水彩画が描かれていて、その文字と絵の、心に対して容易に定着させるのが難しいような、しかし官能を誘う感じが質問の答えをさっさと教えてもらえない焦れったさをさらに余計にかき乱して、強くさせた。翔平は「返せよ。幾つかおすすめの映画を紹介してやるから」と言って、手を伸ばして、京太からそれを取り返した。
「お前の趣味じゃなくて、『いい趣味』を教えろよ。普通の客観的な感覚から見て」
翔平は再び本を開いて目を落としながら答えた。
「今、公開中の映画なら『パーフェクトアンサー』が、一般受けが一番良さそうだ。しかし、女子高生に限って言えば『スキの法則』が好まれるだろうが、男からこの手の映画に誘うといささか引かれるかも知れない。メジャーでありきたりなものではない通な映画を選びたいなら『サム・ダイアリー』だろう。物哀しさもあるが平和で暖かな内容だ。趣味のよさを見せつけるには丁度いいと思うが?」
京太は素早く「サム・ダイアリー」をスマートフォンで検索して、どういう映画か確認した。
「……それか、映画ではないが、今なら文化ホールにシェイクスピアの『リア王』の舞台が来ている。まだ誰もが知る芸能人じゃないが人気上昇中の俺イチオシの役者が何人か出ていて、鑑賞券も手頃な……」
「いや、『サム・ダイアリー』で十分だ。ありがとう」
話を断って、京太は後ろ向きに座っていた翔平の机の前に位置する他の男子生徒の座席から自分の席へ戻って、「サム・ダイアリー」に関してゆっくりと調べた。
帰り道、京太は翔平と連れ立って、図書館へと向かった。
「なあ、相手の女の子はどういう子なんだ?」
「可愛くていい娘だよ」
「『可愛くていい娘』なんて幅の広い表現じゃ全くわからん」
「そうだな……」
京太は紅子を表現するのに適した言葉を思案した。
「すごく純粋なんだ。いつも自分の意見を通すことに躊躇があって、時々おずおすと話したりするけれど、凛としていて、心が優しいんだ」
「彼女と何回会った?」
「まだ、二回だ」
翔太はしかめ面にも見える、疑問を感じた時の表情をした。
「同じ学校の子じゃないのか?」
「いや」
「合コンでもしたか?」
「いや。違う」
「お前、ナンパしたのか?」
「そうでもない。神社で会って自然に会話ができたんだ」
「ふうん」
ぺらぺらと読めるはずのない速度で書棚の単行本をめくりながら、翔太は感じていることを頭の中で言葉に変換していった。
「その娘はずいぶんお前に心を開いているんだな」
「ああ、そうだな。誰にでも素直なんだろう」
「誰にでも素直な人間より、誰にでも『素直に見える態度を取る人間』の方が、はるかに考えやすいが。二回会うだけで、そこまではっきりした素敵な印象を抱かせるなんて、随分すばらしいことだな」
京太は翔平の言うことに自然で当然な反感を抱いた。
「お前、邪推のし過ぎだぞ。会ったこともないくせに、根拠もなくひねくれたことを俺に教えてくれなくていいぞ」
「そうだな」
翔平はぶっきらぼうに言った。
「その女の子、名前は?」
「紅子だよ」
「もう、下の名前で呼んでいるのか?」
「俺からだよ。図々しく下の名前で呼び始めたのは。学校じゃないからな。どんな呼び方しても他の人間に冷やかされない」
「そりゃそうだ」
紅子は突然下の名前で呼ばれても嫌な顔はしなかった。紅子ならそんな呼び方をしても否定的な態度を取られないと思ったから、そんな呼び方が出来たのだ。彼女の心の奥に不満や怒りや屈辱は、眠っていないと思う。
課題として出された任意の本の紹介文を書くために借りた海外古典の文庫を携えて、京太は図書館を翔平より先に出た。寧田神社に行くには横断歩道を渡って、そこからそのまま目の前に続いている坂道をのぼればいい。
坂道を途中までのぼって、横手の鳥居をくぐった。
思った通り紅子はまだ神社にいた。
「こんにちは」
紅子はびくっと肩を一瞬だけ上げてから、こちらを向いた。
「びっくりした。こんにちは。餌は、もうあげましたよ」
京太は床下を覗き込んで、すぐに立ち上がった。しゃがんでいる紅子は京太を見上げる形になった。
「明日空いてるかな?」
「私ですか?」
「うん。どうかな?」
「はい、土曜日ですし、予定はありませんけれど」
「映画見に行かない? 『サム・ダイアリー』っていう映画なんだけれど、ジョー・ウィリアムスが主演しているやつで、落ち着いた感じの映画。もちろん、君が他に見たいものがあるっていうなら他の作品でもいいよ」
紅子は、口を小さく開けるようにして少しだけ歯を見せて微笑んだ。
「いえ、私もそれ見たい。ただ、お小遣いもらえるの明後日で、今は手元にあるお金が少ないから、来週にしません?」
「じゃあ、明後日じゃダメかな?」
「ごめんなさい。明後日は、母と祖母のお見舞いに行く予定が入っていて」
「じゃあ、俺出すよ」
恩着せがましさとさっぱりした調子のバランスを取った言い方で、実はそういう言い方を心掛けながら、京太は提案した。紅子は、京太の予想通り遠慮してきた。
「そんな。悪いからいいです。来週なら絶対行けますから」
京太はしゃがんで紅子を目線を合わせた。
「おごらせて。男だから」
紅子の頬が薄紅に染まったように見えた。その様が本当に女の子らしくて可愛かった。
翌日、京太は10時に起床すると、白いTシャツに黒のジャケットを羽織り、一万三千円で買ったジーンズのポケットに財布を突っ込み、朝食を食べて家を出た。食べている時に母親が、京太がよそ行きの格好をしているのに気付いてきた。
「あんた、どこに何しに行くのよ?」
「友達と映画だよ」
母親は見下げるような顔をした。
「昨今の高校生は贅沢で結構ね。素敵な格好して」
「じゃあ、何のために小遣いを寄越しているんだよ」
「参考書買うために決まっているでしょ。本とか、意味のあることに使うためにあげているのに。決まった小遣いを渡す方が、責任感が身について子供のためになるってテレビで言っていたから、小遣い制にしたのにね。携帯料金も小遣いから引いてやりたい。まあ、パソコン買ったのは良かったわよ。使い慣れたら就職にも役立ちそうだし。しかし、馬鹿馬鹿しいわあ、こんなふうに遊び回るためにお金を使われて」
母は大袈裟に天井を仰いだ。
待ち合わせ時間の10分前に駅前シネマの前に着くと、紅子は既にそこにいた。シネマの自動ドア前のくすんだ焦げ茶の煉瓦色のタイルの玄関で、かかとでトン、トンと足踏みをしながら、待ち焦がれるとまではいかないが、待ち遠しいような素振りで待っていた。
「お早う。はやいね」
「さっき着いたばかりですよ。楽しみですし。映画なんて久しぶりです。半年くらいDVDも借りていなくて、『金曜ロードショー』とかの地上波で入る映画しか見ていなかったから」
「何で?」
「うーん、お金もったいなくて。文房具とか問題集とか買ったら、お小遣いなくなっちゃうから。だから私、キョウスケの餌買うために、問題集も参考書も我慢して、消しゴムとかぎりぎりまで使わなくちゃって思ってた」
「健気だね」
「そうですか?」
京太の顔を見つめる紅子の目は黒目が大きかった。
「敬語、使わなくていいよ」
「そう?」
紅子は、案外順応が早かった。そして、今気付いたような顔をして
「そういえば、敬語と普通の言葉、混ぜちゃってた」
と言って、笑った。
紅子は、白のダウンの下にピンクのモヘアのセーターを着ていた。Vネックのセーターで、襟の上方に細くてとがった可憐な鎖骨が覗いていた。膝丈よりほんの少しだけ長い、空のように青いデニム地の擦り切れたスカートと、子供っぽい白のタイツを履いていた。足元はベージュの安っぽい無地のスリッポンで、幾分幼くも見える服装だった。
自動ドアを通って、古くさくて深い、毛足の長い深紅のカーペットの敷かれた館内のロビーに二人で並んで入った。上映まで時間があったので、少し売店を冷やかした。申し訳程度に設置された小さな売店だった。二、三ある棚やかごに細々とした品物や、パンフレットなどが置いてあって、京太は何か紅子に買ってあげたくも思い、ルーニーテューンズがデザインされたノートを手に取った紅子を目ざとく見つけたのだが、チケットを買った後の財布の残金を確認して、断念した。
シアター内にそろそろ入ろうと思い、紅子に声をかけようとした時、売店の棚から持ち上がり、そしてそのまま太腿の横にだらりと下ろされた紅子の白くて子供のように小さな手にどきりとした。手をつなぎたいと、その手を握りたいと思ったが、出会ってまだ三、四回目くらいで、そんな行為に出るのは、いくら紅子の気持ちが優しいと言っても、彼女の貞操が許さないかも知れない。彼女が顔で笑って心で憎悪と憤怒を抱く般若のようになるとは、考えにくいが。しかし、万一、彼女の生理的な嫌悪感を呼び覚ますことになったら、何だか自分にとっても痛々しい。
「紅子、中に入ろう。そろそろ」
こちらを振り向いた。
「うん」
何だか、そのノート買ってあげられなくてごめんな、という気持ちで緩く、甘く胸が締め付けられた。
シアターから館の廊下に出て、紅子がのびをした。
「楽しかったぁ」
京太は退屈からの眠気が少し残っていた。
「お腹空いたし、帰りましょう。キョウスケのところ寄っていかない?」
「ああ。いいよ。何も食べ物を持ってないから、先にコンビニ寄らして」
「うん。わかった」
外に出ると、気温は低いが、快晴で、空気が冴え冴えとして気持ち良かった。二軒の商店の前を過ぎたところにあるコンビニに冬の時季の木立の淡い影がかかっていた。キョウスケの栄養状態が少し気になったので、ウサギの食事みたいなサラダパックを買った。
「炭水化物ばかりじゃ良くないものね。京太さん、キョウスケに気を遣ってあげていて優しい」
紅子は京太の手元を覗き込んで、ひたむきな表情で京太を見上げて感心したように言った。
京太は口をとがらせて、照れた気持ちを隠すように、顔をやや背けた。
神社に行くと、キョウスケが社殿の縁側に飛び上がろうと、何度も跳ね上がって苦戦していた。ずるっと縁に引っ掛けた前足が落ちた。キョウスケのところに紅子は小走りで向かった。
「キョウスケ」
キョウスケは紅子の脚に飛びついてきた。喜んではしゃぐキョウスケの首を、紅子は両手で撫でてやった。
「よしよし。お腹空いた?」
キョウスケはくんくん鳴いた。
「懐いてるな」
京太はサラダの蓋を外して、キョウスケの前に置いてやった。キョウスケは尻尾を振りながらサラダを食べ始めた。キョウスケの尻尾がしゃがんでいる紅子の手に触れて、紅子が指ですーっと柔らかに撫でると、また紅子の指から逃れて、そしてまた紅子の手を尻尾で叩くということをキョウスケは繰り返していた。
「動物って無邪気だよね。無防備で。箱に入れて神社の床下に捨てるなんて、身勝手過ぎる。それとも、もともと野良犬で、誰かが寝床として箱を提供したとか? でもそれも考えにくいよね。動物は、人間よりも権利が少ない分、大切にしてあげなくちゃいけないのに」
「そうだな」
「私はキョウスケに親切だって言えるかな?」
「言えるんじゃない」
「うーん。里親でも探してあげた方がいいかな? でも、キョウスケに会えなくなるのもかなり寂しいな。私、友達あまりいないし……」
睫毛を震わせながら、紅子がまばたきした。
「私、勝手だよね」
京太は紅子の顎に手を添えて、思わず彼女の赤い唇に自分の唇を重ねた。京太はすぐに顔を離して、謝った。
「ごめん」
京太は紅子から顔を背けて、立ち上がった。
「京太さん」
「ごめん」
京太は後ろを向いたままもう一度謝った。いたたまれない気持ちで心の動揺が抑えられなかった。狼狽する自分の顔を見られたくはなかった。
「京太さん」
紅子の声が後ろから耳朶に響いた。
「もう一回ちゃんとして」
京太は幾分驚いて、振り向いて、紅子を見た。真っ直ぐで柔らかい、ひたむきな紅子の表情にとらえられた。京太は地面に片膝をついて、もう一度、ゆっくりと紅子の顎に手を添えて、キスをした。
次の日、京太が日曜日の午前中に神社に来ると、縁側の前にしゃがむ紅子の背中が見えた。
「いつもありがとう。キョウスケ元気?」
京太がそう声をかけたが、紅子は返事をしなかった。
「紅子?」
紅子の肩に手を置くと、紅子は右手で振り払って、侮蔑したような目でこちらを見遣った。
「馬鹿じゃない?」
「え?」
そして
「この犬、死ぬわよ」
冷たい細い目で京太の目を射抜いた。京太は戸惑いと驚きを隠せなかった。紅子の顔はまるで以前と造作が変わったように見えた。嘲るように細く吊り上がった目。片一方の端をもう一方より吊り上げて笑う意地の悪そうな笑い。歯の色まで前より黄色くなったように見えた。ほの紅かった頬は、心持ち紫がかって内側からの凶悪な色合いをたたえているようだった。突然の変化に、何が起こったのかわからず、もしかすると紅子は頭がおかしくなったのかと思った。
「紅子、お前どうしたの? 具合でも悪くなったのか?」
京太はショックで目を白黒させながら言った。「下の名前で呼ばないでくれる? ほんの何日かしか会ってないのに。ずうずうしい」曇り一つない空からは強く日光が降り注いで、紅子は寒さをはねつけるように立ち上がって、幾分胸を反らすようにした。
「あんたって、さあ……」
一呼吸置いて樹の下の陰の中に入った。
「気持ち悪いよね」
京太はぽかんと口を開けて紅子を見つめた。
「出会って、ほんの何日かでキス? 馬鹿じゃないの? 図々しいのにも程があるわよ。私が何でもハイハイ言う事聞いていたのが、本心からの態度だと思った? あんたがどれだけ底の浅い人間が試して遊んでいたのよ。あんたが思うような従順な女なんてこの世にいないわよ。都合の良いように解釈していたんでしょ。どうせ。映画に誘ったら喜ぶと思った? まあ、おごりだったし悪くないわよ。でも、あんたが私の受けを狙って作為的に、ああいう『趣味の良い』? 『ちょっと玄人受けの』映画選んだのは、すぐにわかったわよ。見え透いてんのよ。大体映画の間あんた寝てたじゃない。ああ、この馬鹿犬は本当に死ぬからね」
紅子はキョウスケの方に顎をしゃくった。
「今日一日ここにいて、この小汚い雄犬見てればわかるわよ。あら、もう苦しそうにしてる」
紅子は犬の鼻を靴の爪先でつついた。
「あんたみたいのが恋人を作るなんて無理よ。そんな迷惑な女性像を信じているような輩。一生ママに甘えていれば、あんたには十分すぎるくらいだわ」
キョウスケが嘔吐し出した。
「キョウスケ!」
京太はキョウスケの前に屈んだ。京太は紅子とキョウスケを何度も交互に見た。
「間抜け」
紅子は冷たく言い放った。
「殺虫剤入りのドーナツ、むしゃむしゃ食べたのよ。これで軒下の惨めな生活から解放されるでしょう」
そう言って、紅子はしゃがんで京太の顔を覗き込んだ。京太は紅子の冷酷な光を灯した目を見つめた。
「ねえ」
「私って『いい娘』でしょう?」
紅子は、けらけら笑いながらその場を去った。京太はほとんど何も言い返すことも出来なかった。ひたすら呆気に取られて、心の一部をねじり切られて取られたみたいに、馬鹿みたいに口をあんぐりと開けていた。口から心がぼろぼろこぼれていきそうだ。キョウスケは次第に京太の手に熱ではなく、冷たさを伝え出した。冷たい皮膚の感触に気付いて、やっと我を取り戻した。
「キョウスケ……。キョウスケ……」
悲しみが心の中で凝縮して、やっと表に現れたみたいに、密度の濃い涙を、京太は一筋流した。いっそわんわん泣きたい気もしたが、家の外にいるからと言う理由からではなく、悲しみが深すぎて、突き刺さった痛みがなかなか外へと現れることができずに、ただ一筋分の涙しか出せなかった。深く大きな、心を裂かれたような傷跡は確実に京太の胸の中に残って、脳を侵食し京太の思考にも食い込み、激しく蝕んだ。
少女は少年が神社に毎日来ることを初めから知っていた。
京太は家に帰った。絶望で、前後不覚になりそうだった。
いや、もうそうなっていたようなものだった。京太はキョウスケをそのままにしてきて、その後そいつをどうやって供養してやるかなんてことも考えたりしないで、ふらふらと機械的に、確実に自分の居場所がいくらかは保証されている、そこにいることを許されている、多少の居心地と安心感が得られるはずの自分の家へ帰った。本能が巣を求めていた。そのつもりだった。
母さんが、いや、くそばばあがパーマをかけ過ぎたぼさぼさ頭を首の上にのっけたまま玄関にのしのしとゴリラみたいな足取りでやってきた。もともと細いメダカみたいな目をさらに細めて、非難と軽蔑を込めてニスで光った上り框から、靴を履いたまま突っ立っている俺を見下してきた。
「何していたの? どこにいたの? 何よその顔は。死んだ魚みたいな目になっているわよ。どれだけ私に無駄な懸念をさせたり、無駄な小言を言わせるの?」
「無駄なら言わなきゃいいじゃん……」
俺の声は、すねるような涙声になってしまった。自分の声を聞いてますます惨めになった。
「あんたも一回死んだらいいかもね。色んなことのありがたみがわかるように。甘やかしてしまう母さんも情けないわ」
「死ねって……」
俺は、ばばあが聞き取れないほどの小さな声で思わず呟いた。
「えっ? 何?」
この女はいら立つような態度さえ見せ始めた。
「死ねって何だよ!」
俺は大きな声で張り裂けるように怒鳴り散らした。高校球児だった親父の、埃一つかぶっていない過去の栄光という名の遺物であるトロフィーを靴箱の上からおもむろに手に取った。母さんは後ずさりして、怯えながら俺から少しずつ離れていこうとした。しかし、恐怖で身がすくんで足がうまく動かないらしい。俺は靴のまま家の中に上がった。そして大股で歩いて、凍り付く母さんの前に立ちはだかるようにした。そして腕を振り上げて、トロフィーを母さんの頭部に斜め右上から勢いよく振り下ろした。赤いものが点々と廊下の床に飛び散った。わずかな血液が薄く広がった点は、透けて床の模様が見えていた。その淡い色に俺は何かを思い出した。衝動に染まった脳内で必死に、その何かを俺は手繰り寄せようとした。何かとても自分にとって大事なことで、すごく引っ掛かりを覚える気がする。俺は、その場でそれが何かを思い出すことが出来た。紅子の頬の色だった。俺はかっと頭にさらなる血液が昇って、ばばあの腰を蹴り飛ばした。ばばあは、階段にぶつかってわずかに跳ね返ってきた。再び今度は蹴り上げようとしたが、やめて、倒れた母さんを廊下に置き去りにして、自分の部屋へと階段を上がっていった。トロフィーは一階に置いてきた。詳しくは気を失った母さんの横にどんと落としていった。
せいせいしたが、心が空っぽになって、しかも空になったところに何も入れられなかった。勉強もできないし、マンガすら頭に入ってこない。後悔はなかったが、動揺はあるらしい。本来柔らかいゼリーみたいな弾みの良い心だったはずなのに、それが、出入り口がどこにもない空洞のハート形のプラスチックになってしまったみたいに思えた。何も入ってこないし、何もなかった。
夕方、父さんがゴルフから帰ってくるまで、母さんはそのままだった。父さんは、玄関前に血を出して倒れている母さんを見て、まず強盗を疑ったらしい。自家用車で近所の総合病院まで母さんを運んで帰ってきた後、俺の部屋に来て「何かあったのか? 何も気付かなかったのか?」と尋ねてきた。俺は、どうでもよくなって、自分が母さんの発言に腹を立ててトロフィーで殴ったと言った。父さんは「トロフィーは殴るためにあるんじゃない」と怒鳴って、それきりその日は口を利かなかった。そして次の日の、母さんが不在で、朝食の用意もろくにない朝、降りてきた俺の顔を見ると、「菓子パンでも食べろ。昨日は風呂に入ったのか」と聞いてきて、後は当たり障りのない、付かず離れずの態度を取り続けた。今もそうだ。母さんは、命に別状はなかった。奇跡的なくらいに軽い脳震盪で、一週間も経ずに退院した。京太に対して怯えるようになるわけでも、忌み嫌うようになるわけでもなく、相変わらず「無駄なことをするな」と言い続けている。彼女に学習や反省という機能は、少なくとも俺の問題に関する限りないらしい。結果を考えずに、その場その場に、毎回変わりのない感情をぶつけて、そうして出てきた現実に文句を言って、同じことを繰り返して人生を消化していく。特に他人の問題になると、その傾向は強い。他人に押し付けたい気持ちは激しく強いが、他人のことだから、考える労はとらない。家に帰ってきた母親を見て初めてそのことがはっきりわかった。母さんは退院したばかりの時は、さすがに憤慨したような様子を見せた。京太は母さんが退院してくるまで、少しは罪悪感や謝罪の気持ちを持ったが、何故か帰ってきた母さんの顔を見ると、それらはすぐさま苛立ちに取って代わった。母さんは面と向かって俺を非難はせず、自分の憤懣が自然に消えていき、いつもの同じ小言を言うためのエネルギーが自分の内に自然に溜まっていくのを待つように、機嫌の悪い顔が少しずつ緩くなっていった。仮に顔つき合わせて叱られても、相手がこの女、この母さんじゃ、また腹が立って殴ってやりたくなるだけだろう。京太たちは人と向き合う資格を失った下衆な家族らしい。しかし、紅子に言われたことを素直に認めるほど、京太は現実的でも大人でもない。だから、この家族としばらくはくすぶり続けるだろう。空虚な反発心―そう、京太は自分で思った。




