京太2
「ただいま」
玄関の戸を閉めると、母がコーヒーメーカーで珈琲を沸かしているのが、開けっ放しのリビングの扉から漏れてくる微かな湯気の湿気と珈琲の匂いでわかった。靴を脱いでいると、母がソファから立ち上がってコーヒーメーカーの前に来て、京太から見えるリビングの扉の枠内に入った。京太は足音を抑えながらさっさと二階に上がってしまおうとしたが、手早くカップに珈琲を注いだ母につかまった。
「お帰り。どこへ行っていたの京太?」
「図書館だよ」
「お母さんもさっき図書館に行ってきたわよ。あんた見なかったけれど。先に家に帰ったのが母さんだから、母さんより先に図書館を出ているわけがないわよね。毎日、毎日、塾のない日も真っ直ぐ家に帰ってこないから、あんたの言う通り、いつも図書館に行っているのかと思っていたのに。確かめたら騙されてた。ああ。こんな話しているのも無駄だわ。余計な事はしないで勉強しに部屋に入りなさい。食事ができたら呼ぶから。九時を過ぎたと思ったらお風呂に入って」
京太はうんざりした。くそばばあ。無駄な事はするな、意味のないことはするな、認められている行動以外は取るなって? 人生なんてそもそも全部無駄じゃないか。お前自分で言っているだろう?「掃除して、洗濯して、大抵の人たちがそうゆうことばっかりしていると思ったらおかしいわね」って。おかしいのは母さん、あんただけだよ。
部屋の机の前に座った。五分後くらいに母さんがドアを細く開けて覗きに来るだろう。横の壁際のベッドに放られたままのマンガ本に手を伸ばしてうっかり寝そべって読み耽ってはいけない。ノートの上に開いた参考書をおいて、シャープペンを握って、視線をノートに落とした。視線は落ちているが、意識は参考書を判読せず、シャーペンは何一つの文字も書き取らない。
セーターを着た清楚なボブヘアの女の子の、下手くそな絵を描いてみた。描いた女の子はえらく滑稽な表情―かろうじて人だとわかる顔―になっていた。その絵だけでは誰なのか分からないだろう。ただ描いた本人の京太にとっては、その絵は紅子を認識する記号程度の役割は果たしていた。「はい。京太さん」を反芻する。はぁと切ない溜め息をついた。セーターを黒のシャーペンで塗りつぶす。マンガ用のトーンのかわりに、それで赤を表現したつもり。スカートにひだを入れる。紅子のスカートのように柔らかい質感で描けない。もともと絵を描くのは得意ではないのだ。
紅子はマンション住まいだと言っていたが、彼女の家はマンションというより、アパートだった。それも結構小汚い木造二階建ての手すりの錆びた古いアパート。こんなところに住んでいるのか。可哀そうだなと思ったら、ますます紅子への優越感と愛しさが増してきた。あれをマンションと思っているのか。親にそう教えられたのかな。可哀そうな紅子。騙されやすい紅子。可愛い紅子。
カチャと部屋の扉が開く音がした。中途半端に軽く浅く頬杖をついてぼんやりしていた京太は、すかさずノートの女の子の絵を描いたページから次のページを開き、参考書へ視線を遣り、考え込んでいるような難しい顔をして、勉強している雰囲気を背後へと発散した。母親は京太の横まできて、ふんふんと頷いていた。京太は今気付いたという素振りで母の方を向いた。
「あれ。何しに来たの、母さん。邪魔しないでよ。無駄に注意を散漫にさせないでよ」
「あらそう。ごめんね。ちゃんと勉強しているかチェックしにきたのよ」
母親は納得した顔で部屋を出ていった。
さあ、これで二十分は安全だ。
京太は二十分間思う存分紅子のことを考え、彼女の性格、考え方、清潔さをすっかり分かっていると思って、それらの法則にのっとりながら彼女がしゃべりそうなこと、やりそうな挙動、仕草を思い浮かべて、彼女を脳内で好きなだけこねくり回した。
脳内の紅子はこう言った。
「京太さん、数学教えてくれてありがとうございます。おすすめしてくれた参考書もすごく良かったです。あとそれに、京太さんが好きだって言っていた推理小説も面白くって感動しちゃいました。私も何かプラスになること教えてあげられれば嬉しいんですけれど、何もなくって……ごめんなさい」
俺はこう返す。
「そんなこといいよ。それより明日、ゲーセン行かない? 対戦相手が欲しいんだけれど」
「いえ、私はそういうところ馴染みがなくって。対戦相手には力不足だと思います」
「じゃあ、君何が好きなの? 映画館は? 見たい映画ある?」
「それなら好きです」
紅子はパッと明るい顔を上げる。
「何が見たいの?」
紅子は片手を握ってふわっと胸にかざして困ったような申し訳ないような顔をして、眉尻を下げて少し情けない曖昧な淑女らしい笑い方をする。
「京太さんは何が見たいですか?」
そこで京太は妄想を止めた。きっかり二十分たった。京太は頭の中の己の妄想を名残惜しく眺めて、紅子の姿を徐々にフェードアウトさせながら、参考書の内容へと脳細胞の注意を向け始めた。
紅子は教室の隣の席に座る化粧が濃くて茶髪で素行の派手な女子と自分の机の境目に自分の現代国語の教科書を広げて、教科書を忘れてきたその子に見せてやっていた。紅子の方から見せてあげようかと申し出たのだ。その女子は仏頂面で「いいの?」と聞いてきたので紅子は「どうぞ」と応じた。
教壇の上の化学教師は黒板の端から端までをわずかな足音もなく移動する名人だ。歩き方のせいか、履いている靴のせいか、故意にそうしているのか、自然とそうなるのかよく分からない。かえってチョークで黒板に書く音が目立って、生徒には耳障りからくる不愉快さが増していたりする。
授業が終わると、隣の女子がこちらを向いて「ありがとう」の声をかける間もなく紅子は立ち上がってトイレに行った。紅子は、授業中は尿意と退屈を我慢するために、気付かれないくらい非常に小さく穏やかな貧乏ゆすりとも足踏みとも取れる動作をしていた。
個室から出ると、先ほど教科書を見せてやった子と仲の良い不良が待ち伏せしていた。彼女はいつもその子以外とはほとんど口を利かない。乱暴そうな尖った暗さを漂わせる世間にも教師にも反抗的な彼女は、無視して立ち去ろうとする紅子の腕をひっつかんだ。紅子がその子の顔を見上げると、彼女は必死に紅子を威圧しようと睨みつけてきたが、実際は意志の薄弱そうな目の色にしか見えなかった。
「何でしょう?」
「あんたさっき何してたの? 私のゆうちゃんに」
「ゆうちゃん?」
「早手さんだよ」
凄むように言ってきたが、その様がかえって阿呆みたいだと思った。鼻を鳴らすのをこらえて、紅子はきょとんとした顔をした。
「何媚売ってんのよ。私をクラスでハブにしたいの⁉ 嫌いなのよあんた。いい娘ぶって、一体何考えているの⁉」
「教科書を忘れてきたらしいので、見せてあげたのですけれど」
頭の悪い不良め、という内心を丸くした黒目の中に隠す紅子の素っ気ない様子に、その同級生の女子は地団太踏んだ。乾いたトイレの床ががさがさ鳴った。そして鼻息も荒く、手の平を振り上げて、紅子の頬に振り下ろそうとしたが、動作が緩慢で臆病だったので、紅子はあっさりと左手の甲で受け止めた。女子はますます腹の中が煮えくり返ったように、目を吊り上げたが、これ以上突っかかる為の上手い状況の展開の仕方が分からなかったらしく、
「バカ女!」
と叫んでトイレから出ていった。紅子は、臭い場所で難癖つけられると倍になって気分が悪くなる、人を馬鹿にして、と思いつつ洗面台の鏡を見て前髪を整えた。
教室に戻って席に着いた。休み時間はもう五分ほど残っている。ある種の孤立した満足感を得られない、あまり甲斐のない、情報を得るためなど目的があるわけでもないただの雑談に大した興味を持たない紅子は、多少なりとも親しくしている友人たちが集まっているところに加わりにいこうとはせず(試しにわざわざ会話をしに集団に加わりにいったこともあったが、授業開始のチャイムが鳴ったころには妙に気持ちが空白になって落ち着かない気分になったことがある)、文庫本を開いて姿勢を正して読み始めた。しかし、一ページ読んだあたりで、クラスメートの薫子が紅子の机に両手をついて体重をかけながら話しかけてきた。
「何読んでいるの?」
「これ」
紅子はタイトルが書かれている一ページ目を開いて見せた。
「エドガー・アラン・ポーって誰?」
「作家さん」
作者について「誰」と無邪気に聞いてきた薫子は、世の中に何の疑問も持ったこともないような、すこぶる素直でひねったところが何もない少女である。競争心や反抗心もまるでなく、素行が良くて成績が悪い。紅子は彼女に妙に好かれているらしく、懐かれてしまっている。
以前に瀕死のミツバチが体育館の外側通路につながる入り口でもがいているのを見て、紅子が、
「いっそ死なせてあげた方が苦しまないかもね」
と言うと、
「お前は病気の人間に死なせてあげた方がいいというのか?」
とメジャーな宗教のマイナーな宗派のシスターのような聖人顔で言ったことがある娘でもある。
正直なところ、治る見込みも、再び非常な苦痛が取り除かれて日々の生活や愉しみに戻る見込みもない病人なら人間でも殺してやった方が親切というものだと思う。むしろその方が「思いやり」だろう。
紅子は彼女のことを嫌いではないが、多少うっとうしいとも思う。親の言うことや教師の言うことをそのまま丸飲みにしてきたような「物事に対する批判的な見方」(これは倫理の教科書からの引用だ)が丸っきし欠けた平和すぎる考え方をもって、時々紅子の言うこと(論理的で少しうがった、いくらか冷めたような発言)などを思考が欠如した紋切り型で批判してくるのが苛立たしかった。そもそも深く物を考えたこともないし、聞き分けが良すぎて、怒り、悔しさ、負けん気もないから、考えるためのエネルギーも内部に溜まらないように見える。事実、彼女は自分の内部に力がなくて疲れやすいからか、音楽の授業中に倒れたことがある。
「へえー」
紅子は本に目を戻した。そのため薫子がちょっと居心地悪そうにしているのが目の上端に映った。
「お昼ごはん一緒に食べようね」
薫子はそう言うと、紅子が目を上げて、「うん。わかった」と微笑みながら二回頷くのを見て、去っていった。
チャイムが鳴った。




