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売春婦

学校の授業を終えて、夜の十時。紅子は繁華街で立ったままネオンのアーチにもたれて両腕を組んでいた。腰を振るように身体を揺すりながら、左右から流れてアーチをくぐる人の群れから吟味するように目の前を凝視していた。と、紅子はもたれた身体を起こして、道の真ん中を通ろうとする男性の手を素早く掴んだ。

「今晩は」

平凡な、すっきりとしているが気弱そうな印象の白い顔をした優男は、はっとしたように背の低い紅子の方を見下ろして、驚いた顔をした。飲食店やアーチのネオンの光で、男の白い顔が様々な色に染まっていた。紅子の顔は黄金色に輝いていた。紅子は怒ったような、挑発的とも敵意がこもっているとも取れる笑い方で優男を見上げていた。

「何だい、君は」

「私と遊びに行かない?」

優男はまごついた困った顔を見せた。通りかかった汚物を連想させる臭そうな顔付きをしたスーツを着た別の男が、こちらを一瞥したのが分かった。その男は、顔をしかめた侮蔑のような表情を優男に一瞬向けると通り去っていった。優男は、ごまかしたいような恥ずかしい気持ちになった。自分の手をつかんだ少女に対して、非難めいた感情がもちあがった。

「こんな遅い時刻に、知らない男性と遊びに行くなんて駄目だよ」

「お腹が空いてるの。お兄さん、少しお金をくれたら私を自由にできるのよ。高くしないわ」

「駄目だよ、そんな事。援助交際じゃないか。帰りなさい」

優男は立ち去りかけた。逃げるように肩を強張らせて震わせていたが、しかし、少女が薄い布の鞘で覆った刃みたいな声音で発した言葉に、足を止めて振り向いた。

「いいわよ。他の相手を探せば済むことだから」

優男は、少女が突然ひどく心配になり、渋々と言った感じで、肩を落としながら、仁王立ちをしている少女の正面に近づいてきた。

「分かったよ。僕が君を買うよ」

「ありがとう」

少女は笑った。

 優男は、隣を歩き出したその少女を気にした。どちらかと言えば綺麗な顔をしていて、それで余計に危なっかしくて、傷ついた捨て猫のようで放っておけない感じがした。このまま警察に連れていこうと考えていた。優男は紅子の手首を取った。チェーンのカレー屋の前を通りがかった。通りは剣呑な光で溢れ、喧騒と排気ダストからの煙や汚れた空気で、落ち着かなく、人間のゴミ箱のようだった。

「お腹空いているの?」

「まあ」

紅子は進行方向を見遣ったまま答えた。

「家の人は食べさせてくれないの?」

「時々は」

「時々、食べさせてくれるの? くれないの?」

「時々は食べさせてくれる。いいじゃない、そんな事。お兄さんからお金を貰えたら、それで私は食事をするのだから。ついでに、鞄でも買おうかな」

優男は憤慨した。何て親だ。子供に、しかも女の子にこんなことをさせておくなんて。

「自分の足で生きられるのなら何だっていいわ」

紅子は顎を上げながら言い置いた。

 光の眩しい通りから一つ入ると、静かな暗い道になった。このラブホテルの立ち並ぶ通りを突き抜けると、交番に辿り着く。

「こっちに楽しいホテルがあるんだ」

優男は、紅子の手を引いた。

 少女は立ち止まった。

「警察に連れていくつもりでしょう?」

「いや……、いや」

優男はまごついた。

「嘘おっしゃい。他を当たるわ。さようなら」

「待って」

優男は立ち去りかけた少女を呼び止めた。少女は振り返った。

「ここに入らないのなら、私は今すぐに逃げるわ」

少女はすぐそばの寂れた、hotelと言う字のlだけが辛うじて灯っている看板が入り口扉の前に立たせてあるホテルを指差した。表面が煉瓦の体をした外壁には、崩れている部分もあって、下から見上げると、影に包まれてのっそりと雑でやや粗末な雰囲気をもって、ホテルはそびえたっていた。優男は情けない顔をして諦めて言った。

「分かったよ。入ろう。でも何もしないよ」

少女は吊り上がった目をした。

「お金はくれるの?」

優男はため息をついた。

「幾ら? ホテルに入らなくても、少しくらいならあげるよ」

「入らなきゃあなたに恩ができるじゃない。嫌よ、そんな風に甘えるの。たまにいるわよ、会話だけしてお金くれる人」

「ああ、そう。じゃあ、会話するよ」

紅子が先に立って、二人はホテルに入った。ホテルの敷地の茂みからヒキガエルの声が聞こえた。一目で娼婦と分かる露出の激しい短いフレアスカートと水色のキャミソールを着た女が男と狭いロビーにいた。女は気弱に優しそうに男の顔を見て笑っていた。女物のパンティの自販機が窓際に据え置かれていた。その手前に綿がはみ出してこそいないものの、擦り切れたカバーに覆われたソファがあり、その座面に疑似男性器の道具―大人の玩具と呼ばれるものが捨て置かれていた。ロビーの全ての光景はそらぞらしくも、しかし人間の欲望の小汚さの観点においてリアルで現実的なのだろうと優男と紅子は感じていた。

 紅子と優男は受付で鍵をもらって、エレベーターに乗った。少女が娼婦と男に気を遣って、「開」ボタンを押したまま、乗るかどうかと目で尋ねると、娼婦は両手の平を天井に向けて、上に向かって仰いで「どうぞ行ってくれ」と伝えてきた。

 優男はエレベーターが上へ昇り始めると、少女にぼそりと言った。

「君もああいう風になるよ」

「なっているわよ。とっくに」

優男は一旦少女から目を外した。

「まだ、なっていないと思うよ」

少女は一瞥してから押し黙って、その後ぽつと言った。

「人の良さそうな売春婦さんだったわね。軽蔑する? 彼女を」

「僕はしないけれど、痛々しいよね」

「私もそう思うわ。そうね。私はああはならないわよ。『人が良く』ないもの。彼女私より、大分太っていたし」

「いやぁ。太っている、いないは関係ないと思うけれど。いや、あるのかな」

優男が頭をかきながらそう言ったところで、エレベーターの扉が開いた。

 三階建てのビルの最上階だった。キーの札には303号室と記されている。優男が部屋の鍵を開けて、男は自分から中に入り、続けて少女が戸をくぐった。かび臭くて狭苦しい部屋だった。白い壁が過去にボヤでもあったのかと思うくらい薄汚れていた。優男はキーと小さな机の上に置いて、ベッドに腰掛けた。少女は床にぺたりと座った。

「椅子に座れば?」

「いいのよ。ここで」

少女は優男を見上げた。くるりとした瞳が光っていた。

「高校生?」

優男は少女に尋ねた。

「うん」

「こういうことは犯罪だって知っているよね?」

「知っているわよ。当り前じゃない」

優男は両手をシーツに押し付けて、身体を支えながら、のけぞって唸るような声を出した。

「うーん」

「食べていかなくちゃいけないもの。あなた、本当に何もしないの?」

「できないよ。そんなこと。君みたいな女の子の身体を傷つけることなんてしたくないよ」

「大袈裟だわ」

「大袈裟なもんか。君の身体は売り物じゃない。普通のアルバイトでも見つけなさい。賢そうだし、何だってできるはずだよ」

「できるわよ」

「それなら……」

「でも、しない」

優男は怪訝そうに少女の顔を覗き込んだ。

「どうして……? 何でわざわざ売春みたいなことをするの」

少女は優男を見据えた。

「私は押し込められたから。もといた場所に戻れないなら、枠の外に飛び出してしまった方がいいの」

「どういう意味……」

「受け入れてまともに応じるのが馬鹿馬鹿しいのよ。今の境遇が馬鹿馬鹿しすぎるもの。素直に謙虚になんてくそくらえだわ」

「そりゃ食事もさせてもらえない君の境遇には同情するけれど、だからってこんなことしていたらどんどん状況は悪くなるんじゃないの?」

少女は小馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らした。

「じゃあまともに働いて、どう状況が良くなりようがあるの?」

「ちゃんと働けば、こんなことしなくてもいいし、アルバイトから入っても正社員になれるかも知れないし」

少女は、まるで優男の顔を正面から叩くようなきっぱりした物言いで言った。

「こんなことするのは既に苦じゃないし、卒業して高校卒業資格を取ってから新卒として初めからどこかの正社員で働いてもいいわけだし」

少女は言い切ってから顔を背けて、そして遠い目をした。

「でも、でも……君は自分を消耗しているよ。自分を切り刻むようなこと、僕は君にしないでほしい」

優男は少女の手を取った。

「あなた、私の何のつもり? お客様でしょう。考えなくてもいいのよ、そんな事」

優男は首を横に振った。

「考えるよ。自分を貶めている人が僕は嫌いだ。嫌いだけれど、そうじゃなくなってほしい。僕の為じゃなくて、君のために」

少女は目を伏せて、長い睫毛を下にして影を落として、きまり悪そうにした。

「あなた、調子狂うわねえ」

はすっぱな声でそう言うと、優男の左頬の下あたりを片手で抱えて撫でながら、男の膝にちょんと乗っかった。

「何もしないの?」

少女は優男の右耳に囁いた。優男は少女の肩を押して自分の身体から剥がした。

「何もしないよ!」

優男は半ば叫ぶように言った。

「やめようよ。こんなことやめようよ」

「昨日の『サブウェイの情事』見た? あなた、好きなものは何なの? お話ししましょうよ」

「しないよ」

少女は困り果てた顔をわざとして見せた。

「ホテルに入ったのに、仕事させないつもり。お金は貰えるんでしょうね?」

「お金はあげない。その代わり、食事をして、それからコンビニでお菓子でもパンでもおにぎりでも冷凍食品でも何でも好きなものを買ってあげる」

「ありがとう―」

ホテルを出た。繁華街まで歩いて戻って、ファミレスで和風パスタやラーメンをそれぞれ食べて、それからコンビニに入った。食料品を買い込んでから、優男は、開いた自動ドアの前で立ち止まって、ぶきっちょそうに手帳を取り出し、何か書き付けた。

「何か、何か困ったこととかあったら電話して」

と、優男は別れ際に自分の携帯番号を書いたメモを紅子に渡した。

「もうこんなことしないで」

少女は笑った。

「今日はもう、いいわ。しない。」 

優男は首の後ろを搔きながら、頷いて、外に出て立ち去った。紅子もコンビニから外に出て、その姿が見えなくなるまでその場で佇んだまま見送った。

 紅子は、おもむろに、通りかかった知らない頭の禿げた中年男性の腕を乱暴に片手でつかんだ。

「私と遊ばない?」

男性は、紅子を頭の上から爪先まで、黒目を上下に流して、いやらしく眺め渡して品定めした。

「もう明け方だよ」

「今日は日曜日よ。今からだって」

「まあ、いいか」

男は紅子の肩を抱いて、吸い付くようにべたべたしたキスをした。

 

紅子はホテルの部屋でベッドの上で、禿げた男に胸を揉まれていた。

「さっきはつまらない男に声を掛けちゃったのよ」

「ほお。俺は面白いのか?」

男は紅子の両方の太腿を撫で回した。

「気持ちいいか?」

「そうね。面白いわね」

紅子は、作り物の喘ぎ声をひと際わざとらしく大きく上げた。

 事が済んだ。既に朝の六時を回っていた。

「幾らだ?」

「三万円」

「高いな。お前だって楽しんだ癖に」

「三万くれたら、携帯番号教えてあげる。いつでもコールガールみたいに呼び出されてあげるわよ。次はタダでいいから」

「ふうん」

男は細い目をさらに細めて線の様にして、何を想像したのかいやらしくニタニタと笑ってから、紅子に三万渡した。

「お前、名前は何て言うんだ?」

「山田花子」

「ふん。どうでもいい。携帯鳴らすぞ」

紅子の鞄から、着信音が鳴った。

「本物みたいだな。次俺が呼んだら、必ず来いよ。売春婦」

「はい、はい。あなたの売春婦でーす」

紅子のプリペイドの携帯は三日後に有効期限が切れた。

 紅子は、その足でホストクラブの玄関に向かって、丁度出てきたホストに馴染みのホストを呼ばせた。売春で稼いだ三万円に二万を足して五万円をホストに見せた。

「これで買えない? 楽しませてよ」

「おっ。売春の後の買春か。もっちろん。幾らでも買わせてやるさ」

紅子は、一旦店に戻り、帰り支度をして出てきたホストにかしずかれながら、赤黒い快感を満たして、削られた自分の何か―自我に付随する価値のようなもの―を補充していった。いわば、自尊心の回復を行った。二人はホストの行きつけのバーが閉店するところを無理やり開けさせて、酒を飲み、それからホテルへと入っていった。そこではホストは紅子を優しく丁重に扱った。紅子は、今日一番不気味な笑顔、自分の本来の心の芯と繋がっていながらも、うすら寒いようなそらぞらしい怖い感情とも繋がっている笑顔を天井に向けて仰向いていた。それは微笑みではなく、口の端から端までを横に広げた大きな笑い顔だった。


 紅子は、高校を卒業後、父の紹介で御茶ノ水にある印刷所で働いていた。事務と経理と来客・電話応対が主な仕事だった。紅子にとっては楽で淡白な仕事だった。給与は父の管理する紅子名義の口座に入り、給料日に父が幾らか引き出してきて、五万円ほどを紅子に小遣いとして渡していた。それなのに、月に五万円の小遣いでは考えられないようなハイブランドの服や鞄を、紅子はいつも身に着けていた。父親は、

「どこの馬の骨に貢がせているんだ」

と嫌味を言ったが、深く問い詰めはしなかった。それは父の意向には特に逆らっていなかったからだ。紅子は結婚詐欺や赤詐欺と呼ばれる身体と言葉を駆使して、相手の目の前にそれらを「にんじん」にしてぶら下げて操り、金品を巻き上げ、心を蹂躙するような行為を度々、複数の人間に行っていた。大抵彼らとの関係の最後は、「いい加減自分と結婚しろ」と彼らが詰め寄ってきて、紅子がすげなく断ってしまうことだった。それも紅子は、笑い飛ばすように「もう二度と会わない。あなたなんて私の財布にもならない」「あなたは本気にしていたの?」と馬鹿にして見下すように言うのだった。相手の中には「結婚詐欺で訴えてやる」と言い出す人間もいたが、紅子は訴えられて塀の中に入れられるのもそう怖いとは思っていなかったし、

「訴えたら、あなたとはそもそも売春と買春の関係だと言ってやる」

「『私の家が苦しいことを話したら、半ば強引に愛人関係を結ばされた』と言ってやるけれど、いいわね?」

などと、逆に脅せば、相手は憤懣やるかたない様子で鼻息荒くわめきたてるが、結局涼しい顔をしている紅子に逆らえないのが常だった。

「お前の服装のどこが『苦しい家』の女なんだ?」

と言ってくる人間も確かにいたが、

「全部あなたから貰ったものよ」

と紅子は言う。それに対して相手は、

「全部俺が買ってやったわけじゃない」

と返すが、

「そういうことになるのよ」

と紅子は相手の男を鼻であしらってしまうのだった。

時に、金品目的ではなく、二、三か月かけて相手からの信頼を得てから、裏切って、相手の心を深く傷つけ、苦しめ、惨めな境地に落とし込んだり、ほとんど自分の家に帰らず、相手の家に入り浸ったりした。そんな場合、紅子は相手の心の深い場所まで潜り込んで、最終的に根本を裏返すような裏切りをしてみせては、内心悦に入って、地に足の付いたしっかりとした満足感を得るのだった。それこそが紅子にとっての最上の快楽であった。そういう時にも、紅子は大体自分の住所は明かさず、名前としては本名を教えたが、無関係の人間や父の目に晒されるようなトラブルは決して起きないように、甚く注意し、脇の甘いことは絶対にしなかった。紅子は、目端が利き、注意深かった。


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