紅子
中学三年の紅子は、机に突っ伏して寝ていた。周りには誰もいない。何故か、紅子は自分自身の様子を俯瞰で見ている。外からは波の音が聞こえる。顔を上げて見ると、青い海が緩く優し気に学校の校舎に向かって打ち寄せてきている。校舎の外に生えていた樹木も中庭もない。校庭は消え去った。波頭が盛り上がると、紅子の胸も膨らむ。ふと自分がその波の上、ゴムボートに乗って流れ去っていくのが見えた。そこで教室にいる自分の気配は消えてしまい、紅子はゴムボートの上で仰向けになり、月の光が作る道に沿って、遠く遠くへ運ばれていき、永遠に背中に快いしとしとと感じる波を受けている……。
夢はそこで覚めて、教室には紅子一人だった。手にしていた文庫本(タイトルは「813」)を弄びながら机の横に掛かっている通学鞄のポケットに滑り込ませた。紅子は廊下に出て人気を確かめた。こちらに向かってくる足音がないかも耳を澄ませて確認した。誰もいないし、誰も来そうになかった。コの字型になった校舎のこの階の紅子がいる教室がある辺りには、文化部も委員会もない。各クラスの教室が並ぶばかりだ。しかも三年生は大体家に帰って受験勉強をしている。紅子は教室で一人、勉強したり、本を読んだりしていた。机には教科書と参考書が広げてあった。本を読んでいる時に、誰かが来る足音がしたら、すぐに勉強をする振りをするためである。かなりの確率で生徒たちは教室の机の中に教材を何冊か置いたまま帰っている。机の横のフックに、紙袋やポーチのように小さな鞄に筆記用具をしまって帰る者もいる。紅子は窓辺に行って、手すりに手を付いて、暗くなった外を眺めた。笑いながら夕闇を独り占めしていることを嬉しく思う。手を窓から出して見て、空気を掴むように上から宙を叩いて、小動物のように手を丸めた。意味のない行為をしながら紅子は、歳よりも幼い少女のようにあどけなく笑っていた。窓側から三番目の列、黒板から四つ目の席の横に掛かっているポーチからペンケースを出して、チャックを開けてその中からかわるがわる多様な色がペン先から出る虹色のゲルインクのペンを取り出した。それを持ったまま、紅子の隣の机から国語の教科書を出して広げる。紅子は他人の教科書をめくって、紙面にペンでめちゃくちゃに殴り書きした。ほとんど全てのページにそれをして、ラストのページに大きく「死んじゃえ」と書いておいた。そして教科書を中に戻して、ペンを紅子の隣の席の机に置いたままにしておいた。紅子は自分の唇をいじりながら、くすくす笑った。
―私がもっと堂々と人に害を為せるような恥知らずで独善的な人間なら、もっと堂々と人を傷つけて、人の邪魔をして、晴らしてみせるのに。私はまだまだいい子過ぎるわ。
クラスメイトの何人かのポーチや紙袋の中身を漁っていると、一人のポーチに財布が入っていた。中身にはお札だけで一万二千円入っていた。
―ラッキー
紅子は躊躇せず一万円抜き取って、自分の財布に入れた。
紅子は、ラッキー何て言葉を頭の中で編んでみたが、その実、「ラッキー」なんて感じていなかった。舞台のセリフのように、頭の中だけでラッキーと言ってみただけだ。帰り際、教卓から画びょうの箱を取ってきた。それを玄関で、今日の昼休み紅子に肩がぶつかって舌打してきた男子の上履きのつま先一杯に流し込んだ。紅子はそれらの事を歌うように、少し踊るように浮き立ちながら為した。画びょうの箱は窓際から三番目の列、黒板から四つ目の席の子の下駄箱に入れておいた。その子は下校の時一人きりだったと紅子は記憶している。つまり、潔白は証明しにくい。
次の日の朝、紅子が教室に入ると、隣の席の子が、自分の机の上にあったペンを落とし物として、教卓の上に置いていた。男子が痛え痛えと叫びながら足を引きずって教室に入ってきた。そして隣の席の子は国語の教科書を開いてみて、目を大きくしながら言葉を失っていた。ホームルームが始まり、先生が「このペンは誰のだ?」と皆に聞くと、窓際から三番目黒板から四番目の横井という苗字の子が「私のです」と、自分のペンケースの中身が一つなくなっているのを確かめてから名乗り出た。隣の席の子が
「私の教科書がそのペンで落書きされました」
と大きな声で訴えた。先生は事情を聞いて、窓際から三番目黒板から四番目の子に
「お前がやったのか?」
と尋ねた。
「やってません」
「じゃあ、何でお前のペンが秋田の机の上にあった?」
「分かりません」
男子が口を挟んだ。
「先生、画びょうの箱がそいつの下駄箱にあったってさっき裕也から聞いた」
「そんなこともしたのか?」
「してません」
「八幡」
「はい」
「昨日は、お前は教室に残っていたか?」
「はい」
「誰か見かけたか?」
「私が帰る時には、横井さんがまだ残っていましたけれど……」
「嘘!」
「横井」
先生が厳しい目をした。
「ホームルームが終わったら、先生と一緒に職員室に来なさい。八幡、昨日は何時ごろに帰った?」
「終礼が済んでから三十分ほどで帰りましたけれど」
「そうか。分かった。横井、馬鹿者が。人に迷惑をかけるな!内申書にきっちり書くからな」
「そんな……」
横井つね実は、ぜえぜえ言いながら泣き出した。彼女に対する他の生徒たちの視線が冷たく無関心なのを確認して、紅子はご満悦だった。
―受験の事で皆頭がいっぱいでしょうからね。
紅子は、七畳の自宅の室内で膝を抱えてまどろんでいた。初めは、自分の日常と何の縁もないお菓子の国か、空の上にいるような平和な甘い夢にたゆたっていたが、チャンネルを変えるように、そこに父親の顔と、紅子が夢に半分明け渡していた意識の残り半分で自分が実際にその場に座っていると自覚していた七畳の部屋が、夢の画面に写ってきた。夏の暑さが窓から入り込んで壁や床の匂いが立ち昇っている。この匂いは現実の「今」の部屋の匂いだろうか、それとも「夢の時間」だけのものだろうか? 現実が春だったか、秋だったか、それとも冬か夏だったか、まどろんでいる紅子にはわからない。意識は夢に取られていく。夢の中の六歳の紅子は、禿げた頭に点々と白髪が生えていて、鼻が高く大きく幅広く、顔の鼻以外の部分はのっぺりと平べったい大柄な中年の男に向かってしきりに訴えている。それは自分の父親だった。部屋の中は翳りかかった夏の午後の日差しだけで光を得ている。それでも日差しの照りが目に眩しくて、側頭部の後ろの方が熱い。父親の蠟のように白い血の気のない顔の色は紅子よりもより白々として、細い枝のような青白い血管が所々めぐるように浮き上がっていた。毛羽立った赤茶色い漆喰壁。てらりてらりと油っぽく光るフローリングに直に敷かれた、父が中古で買ってきたペルシャ風の大きな柄の、禿げてぺったるこい赤黒いべたべたした絨毯。簡素な台の上のTV。ボールやフライパンや玉杓子でひどく雑然としたアルミ製の棚が頭の上から引っ掛かった人気も火の気もない台所。
「約束があるの! 約束があるの!」
白いポロシャツを着て白いズボンを穿いた、全身白装束の父親はこちらを向いて玄関の前に座り込んでいる。玄関は幅狭く、父親があぐらをかいてそこに座ると、容易に通り抜けられない。長袖のよれたワイシャツを着て、いからせているとも落としているともつかない、形容の難しい気味の悪い感じを醸し出す父親の肩が腐り切った肉のように見えて、自分の抵抗が甲斐なしだということを紅子は分かり始めている。父親は口を開いて何事かを言っている。何を言っているのか聞こえない。確か「駄目だ。駄目だ」をしきりに繰り返していただけだ。その証拠に父親の口はオートメーションみたいに同じ形を何度もたどっている。それから父親の口から声が、音が漏れて聞こえた。
「お前はそればっかりか。お前は頭がおかしいぞ」
横幅も縦の長さも、特に横幅が大きい父親はおもむろに立ち上がり、委縮させるように紅子を睥睨し、両手をいきなり広げ、紅子を抱え上げた。紅子はすり抜けて玄関へ下りようとするが片手と片足を捕まれ、阻まれてできない。父親の肩越しに花一つ飾られているわけではない下駄箱が見えて、決して助けてくれるわけではない母親と重なって見えた。木板で作られた下駄箱は暖かそうに見えて、実際はいつも無関心だった。取り分け、紅子の意思や意志には。六歳の紅子と十五歳の紅子は嫌悪感を覚えた。父親は太っていたわけでも、異臭を放つわけでもないが、いつもこの男から妖怪のような腐肉を連想した。内弁慶で、自分が上から手を加えて支配できるもの―家族や娘、弱い人間や目下の人間―に対する執着を手掛かりに、精神を卑劣な方向に腐らせるに任せて成長させたような人間だ。この男は。この後は撮影用に裾の短いワンピースに無理やり着替えさせられたのを覚えている。父親は紅子のT―シャツを剝ぎ取って、腕をつかみ、足を上げさせ、デニムの短パンに指を引っ掛け無理に脱がせた。父が掴んだ足や手には、こもった嫌らしい熱さを感じる。紅子は、諦めながら自尊心の体裁の為だけに、加減しながらいやいやと抵抗する。しかし、紅子は泣きも笑いもせず、為す術もないが、自分が飼い慣らされていくのを分かりながら、恨みは募ってくのも感じていた。父親は無言でいるかと思えば、「はい、着替えて」と言いながら目上の者が面倒を見てやっているというような恩着せがましさとべたべたしたねちっこさを見せて、紅子を懐柔しようとする。その意図が紅子には分かるが、抵抗の仕様がないことも分かる。抵抗すれば、父親は「ダメだ。駄目だ。ちゃんと着替えなさい。ね、ちゃんと」と粘っこく言いながら、紅子の腕を摑んでT―シャツを無理やり頭から引き抜くに決まっているのだ。父親の目に子供と女は意思のある一個の存在として映らない。頭の上から声が聞こえた。紅子はいつの間にか、座卓にノートと教科書を広げて、カリカリと何か書き取っている。相変わらずここは翳りがかった夏の日が差している。夏の午後は暗い。
「ふん。インテリなんて偉そうで間抜けなものになるつもりか。生意気に」
座卓が蹴飛ばされた。
「おい!」
夢の中よりやや歳を取った父親が、紅子の顔を下から覗き込んでいた。父親の白目は黄ばみ、目尻や瞼は醜く垂れて、黒い瞳は淀んだ沼のような光の照り返し方をしている。頬は紅黒く膨らんでいて、父親の腐肉化は夢の中よりさらに進んでいる。本質的に他人に無関心な癖に、支配の対象としての関心だけは執拗に持ち続けている人間は妖怪化するらしい。だから、父親は他人にどう思われるかなんてどうでもいいらしいし、紅子の気持ちなんて斟酌したこともないだろう。ただ、自分の言う事は聞いていてもらえないと我慢がならないのだ。
「気持ちよさそうに寝てたな。肩痛いんだ。マッサージしてくれ」
「嫌だよ。気持ち悪い」
「気持ちよさそうだったじゃないか。いいからやれ」
父親は紅子の足の甲の上にどっかりと座った。窓の外からは何も聞こえず、正面のマンションの白いでこぼこしたコンクリートの壁が冬の空を反映して灰色を呈していた。風の音すら聞こえない。雪も降らない。ただ、寒いだけのこんな日に、紅子は足の甲の父親の尻が暖かく感じるのが気色悪いと思った。
高校生の紅子は、父に面と向かって反抗はできないが、かと言って倫理的なしがらみも持ち合わせていない「飼い慣らされた猫」のような性質を強めていった。他人に対しては全く真っ向から歯向かうことができなかった。従順にしていて、策を弄して卑怯な方法で相手を傷つけるのが、紅子の趣味のようなものだった。紅子の心の有り様の総てに納得がいく言い訳と結末を用意してやるために、そういうやり方での人との関わりを紅子はしなくてはいけなかった。例えば、紅子は自分が女性であることが嫌だった。大人しくいい子でいることを、誰もが紅子に要求してきた。真っ向からそれに対して「否」を主張しても「反抗的な女の子」にされるだけだと分かっていたので、女である自分が要求されるものの弊害を、周囲に当てつけて、女性の立場から男を翻弄して傷つけて、嫌味な結末を男性に見せつけてやったりしていた。紅子が、一番せいせいして気持ちがすくのは、他人に自分の裏切りを見せつけた時の、その相手の顔と反応をうかがう時だった。期待されると裏切りたくなる性が紅子にはあった。しかし、父を裏切ることは不可能だった。何故なら、父が紅子に掛けているのは「期待」ではなく「抑圧」だったから。力で制圧されると裏切ることも出来ない。紅子には、父の汚物のような穢らわしい力に対抗しようと思ったら、自分も汚物を顔に付けて汚い力を持たなければいけない気がした。それをしないのが紅子の意地だった。だから結局、自分は、自ら支配されることを選んでいるのだろうか? と考えないわけでもない。しかし、紅子は「きれいなままで居られない」自分の境遇、そうやって育まれてきた自分の性質に恨みを、憤りを抱いていた。しかし、それでもやはり、紅子は「飼い慣らされた猫」なのだ。紅子は自分で自分をそう呼ぶ。誰にも打ち明けはしない心の内だけで。紅子は県内一の進学校に一年前に入学した。紅子はそこで自ら孤独を深めていった。学校にも他の生徒にも関心が持てなかった。勉学への熱心さは中学生の頃より減っていた。猫の性、根性の悪い猫の性が紅子を急き立て、駆り立てるようになっていった。教室では、いつも窓の外の遠い遠いどこまでも広い空を眺めていた。それに、自分の家の経済状況では大学に上がることは不可能だと知っていた。それでも何かに引っ張られるように、時々は勉強した。勉強すれば何かきれいな場所へ行くこと、自分の頭に教養を理路整然としまい込んだ上等な人間になれることが出来る気が薄々とした。心の底の底の方がそれら相反する動きで千切れそうだった。大学に行くことが必須条件とも思わなかったので、進学させてもらえないことについては別段気にしなかった。周りの同級生より自分は気楽だと思ったくらいだ。ただ何か、氷のように硬い、そして内心から大きく乖離した薄い紅子の表情の下には、赤黒い葛藤が重々しくも激しく蠢いていて、紅子の苦しい力となっていた。それは時々吐き気のような快感になった。その快感ゆえに、紅子は自分を辛うじて認めて、自分の性を恨みながらも甘受していた。




