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京太1

ぴゅうぴゅうと音を立てて吹く冷たい北風に逆らって、足で押すようにしてペダルを必死にこいだ。そのせいで今の季節に反して、身体や顔が内側から熱くなって、手の甲もうっすら桃色に染まってきた。

三軒坂という名の付いた、右手も左手も住宅ばかりが並んでいる勾配の急な坂道の途中で、現代風の造りで屋根が平たい人家とぼろアパートの間に挟まれている寧田(やすだ)神社の前で自転車を留めた。京太は鳥居の手前の三段だけの階段を足取り軽く踏み上がった。

「今日もお腹空かしているかな。空かしているな、きっと」

昼食用に貰ったお金で余分に買ったあんぱんを鞄に入れて、冷気にさらされてさらに発色のよくなった鮮やかな橙色に塗られた鳥居をくぐった。大木に挟まれた境内へ向かうと、社殿の床下の前に女の子が一人しゃがんで、その中の暗がりを覗き込んでいるのが見えた。昨日は雨が降っていた。襞の入ったスカートが湿った地面の泥すれすれになっていた。

 京太も少し離れた場所にしゃがんで床下を覗き込んだ。

「おい、捨て犬。飯あるからこっちこい」

小さな柴犬は京太の方を見たが、既に貰ったらしい何かの食べ物を暗がりで頭を下げて嬉しそうに食べていた。

「『捨て犬』なんて呼び方しちゃだめです」

 女の子が京太の方に首を向けて、健気で生真面目な顔をして咎めてきた。控えめながらもはっきりした表情にどきりとした。

「ああ、ごめんごめん。君が、えさ遣ったの?」

「うん。あなたも高校生ですか?」

「うん。君は寺丘高校の制服だね。いつも、こいつにえさ遣りに来ているの?」

「ううん。今日が初めて。昨日、ここの神社の裏の階段を下って、坂下に行こうと思ったら、雨の音に混じってクンクン鳴く声が聞こえてきたんです。社殿の下を覗き込んだら子犬がいて、そばにぼろぼろのダンボール箱があって。寒そうにしていたから、せめてご飯だけでも毎日届けてあげようと思って来ることにしたんです」

「そっか。僕もえさ遣りに来たんだよ。明日から交代でえさあげることにする? まあ、僕はこいつの顔見るだけにでも毎日来るけれど」

「私も毎日来ます。ご飯を持ってくるのだけ交代制にしませんか?」

「ああ。そうしよう」

「あの……、この子、お宅で飼ってあげることは出来ませんよね?」

「出来たら、とっくにしているよ。母さんが犬嫌いなんだ」

「うちは、マンション住まいなんで……」

 少女は悲しそうに俯いた。下を向いた睫毛が作った影の中で、黒目がうるんで揺れた。京太はどぎまぎした。

「名前、何て言うの?」

「え?」

「いや、これから毎日顔合わせるかも知れないし……」

 京太は言い訳した。

八幡紅(あか)子です」

「あ……、僕は羽山京太。よろしく」

 京太は右手を差し出した。今度は紅子の方がどぎまぎしたような

顔をして躊躇したが、おずおずと右手を差し出した。

「よろしくお願いします」

紅子は右手を握ったまま、恥ずかしそうに、几帳面に頭を下げた。

下げた頭の先から斜めに線を引っ張った辺りにある二本の足首が白くて細かった。頭を上げるとふくらはぎが瓜の果肉みたいな色をしていて、冬の大気を吸い込んで発散しているみたいに見えた。それが京太に弱弱しい可憐な印象を残していった。

京太は紅子をまるで子犬のように感じた。沢山の人間が異性や同性と出会う、同世代の顔を突き付け合うためにわざわざ意図的に仕組まれたような感がある学校のような場所での出会いとは違って、彼女との出会いは自分だけのために用意された特別な運命のようなものに思えた。こんな偶然の出来事は、誰にでも用意されたものではない特別なものだろう。偶然でも運命でも完璧に僕のためだけの出来事だ。そう思った。

次の日、同じ時間に京太は、台所で炊飯器のジャーからこっそり失敬したご飯で作った、サランラップに包んだ丸いボールのようなおにぎりを持ってやって来た。

「あ、羽山さん、こんにちは」

 紅子は社殿の縁に座って、赤いセーターに白い膝丈のスカートをはいていた。京太を見ると、縁からさっと下りて、姿勢よく立った。スカートのしっとりと、どことなく白いおしとやかな花の花弁を思わせる柔らかそうな生地を京太は何となく触ってみたくなった。そのかわり、京太は紅子を褒めてみた。

「こんにちは。いい娘だね。ちゃんと来てくれるなんて」

「当り前じゃないですか。あの、明日はどんなえさが適当ですかね?今日は何をあげるんですか?」

「おにぎりだけど」

「じゃあ、明日はスーパーで果物買ってきますね」

「そんなの、台所に余ってるものとか、昼食の残りとかでいいよ」

「え? そんなものですか」

「そうだよ。そんなに小遣い貰ってるの?」

「月に五千円ほどですけれど」

「それじゃあ、二日にいっぺんも犬のえさをわざわざ買っていたら、もたなくなるでしょ。俺と共同で大袋のドッグフード買うっていう手もあるけれど、そんなの俺の家には置く場所ないし、母さんにばれたら絶対、余計なことするなって怒られるし、外に置いておくわけにもいかないし」

「私の部屋に隠しておきましょうか?」

「隠すっていうことは、君の家もこういうことをしているのがばれたら、あまりよろしくないのじゃないの?」

「はい、あまり、私に自発的なことは、うちの親はしてほしくないようで」

「ふうん。箱入りお嬢様だ。兎に角、お金使わないで、家にあるお菓子ちょっと失敬してくるとか、弁当の残り食わすとかで十分だよ」

「はい、分かりました」

紅子は素直に頷いた。成長した男が女に求めるのは、自分が幼い頃かつて持っていた無邪気さを表していることらしい。なるほど、紅子はそれを有り余るくらいに見せていて、そして自分はその様子に何か満たされるような気分を感じている。

紅子に意図的なものは一切感じられなく、京太はそんな紅子の心からの純朴さを手に取ったように思い、だからこそますます好感をもった。

紅子はてらいのない綺麗な造作の整った顔をしていた。背丈は150あるかないかくらいで、真っ直ぐで礼儀正しい印象の澄んだ黒い目をしていた。髪型はボブのショートカットで、前髪は真っ直ぐ一直線に眉毛の位置で刈られていた。身長は低いが、姿勢が良いので大人しそうだが堂々として見えた。

京太はおにぎりを見せて、子犬を床下から誘い出した。

「ほら、おいで」

京太は子犬を胸に抱きかかえて、さっきまで紅子が座っていた社殿の縁に腰かけて、犬を膝に乗せた。紅子も隣に腰かけた。

 京太の犬を撫でる手のすぐそばに社殿の端をつかむ紅子の手があった。その肩の横をかすめてくすんだナギの葉がはらはらと重力にもてあそばれるようにして彼女の手のすぐ横、彼女の腕と腰の間に落ちてきた。

 膝の上で、子犬はぼろぼろご飯粒をこぼしながらおにぎりを貪っていた。京太は紅子を横目で盗み見るようにしながら言った。

「えーっと。『捨て犬』って呼んじゃだめなんだっけ?」

「あ、はい、すいません」

紅子は恐縮するように肩を縮めて顔を伏せるようにした。睫毛が下を向いた時の、陰がかった頼りない儚げな表情が可愛かった。京太はその様子を見てくすりと笑った。

「謝んなくていいでしょ。じゃあ、名前決めてやらなくちゃね」

「あ、はい。そうですね」

「『そうですね』じゃなくて、どんな名前がいいか教えてよ」

紅子はまた恐縮して、さらには委縮してきた。

「ごめん。ごめん。そんな顔しないで。名前君が決めてほしいんだ」

「でも、私が決めていいですかね……?」

「何でだめなの?」

京太はいよいよ紅子を愛おしく思い始めた。

「だって……、羽山さんが決めた方がいいのでは?」

「何で?」

「だって、私が判断してよいのやら……」

「いいよ。僕が許可する」

紅子は少し晴れたような顔をした。

「はい。はい……、じゃあ、どうしようかな……」

紅子はセーターの袖口を口に当てて、黒目を上の方に遣りながら考え込み、ヒロシ、タケシ、ケンジ……などとぶつぶつ言い始めた。

「オスカル、アンドレ……、あ、フェルゼン。フェルゼンというのはどうでしょう?」

京太は紅子のネーミングセンスの突拍子のなさに少々呆れたような顔をした。

「それは……変だろう。どっから出てきたの?」

「あ、あの、マンガの『ベルサイユのばら』から……」

「ああ……」

京太は冷めたような目をして、紅子は思いついた名前を否定されてがっかりした。

「じゃあ、キョウスケは?」

紅子は再び案を出した。

「んー。僕の名前からもじったの?」

「はい」

「じゃあ、いいよ。それで。じゃあ、俺とこの『キョウスケ』は、兄弟だな。な、紅子ちゃん。俺のことも京太って呼んでいいよ」

 京太の巧みなようなあざといような誘導に、紅子は、

「はい。京太さん」

と明るく返事した。

 京太は紅子を自宅まで送り届けてから、自転車に乗って自分の家に帰った。


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