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医者一家に嫁ぐはずだった私、仕事で人生立て直します

作者: hamham

 日曜日の朝、私はまだ「朝倉家」に嫁いだわけではないのに、“朝倉の嫁になる者”として扱われる日々に、どこか息苦しさを感じている。


「……はぁ……」


いつものようにみなとの家――いわゆる「朝倉家」の玄関前に立ち、私は深呼吸をする。結婚が決まってからというもの、週に数度ならまだしも、最近は毎日この豪奢な門をくぐるのが日課となっていた。高い塀に囲まれた広大な敷地、その先にそびえる瀟洒な洋館。初めて来たときは、その大きさに目を見張ったものだけれど、今では慣れのほうが勝っている。ただし、気の重さという意味でだ。


「灯さん、いらっしゃい。お待ちしておりましたわ」


玄関ホールに入ると、ぴんと背筋を伸ばした陽子ようこさん――湊の母が私を出迎える。陽子さんは常に隙のない装いで、私などとは比べものにならないほど品格が漂っている。青みがかった黒髪をきちんとまとめていて、その鋭い視線は人を圧倒する迫力を持っていた。


「おはようございます、本日もよろしくお願いいたします」


私は姿勢を正し、深く頭を下げる。仕事場に行くのとはまるで違う神経の使い方だ。でも、気を抜けば細かい所作を注意されることはわかりきっている。


「ええ、今日は洋食のテーブルマナーを再確認してもらいましょうか。今週末にはお得意さまとの夕食会もあるし、その練習も兼ねてね」


「はい……」


日常生活からすると若干オーバースペックとも思える“マナー修行”も、朝倉家に嫁ぐには当然だと陽子さんは言う。私は金融系OLとして働いているが、これほどまでに正統派の礼儀作法を叩き込まれた経験はない。ましてやこの家は医師一家として代々続く名家。いわゆる「ハイスペック一家」に加わるには、それなりの覚悟が必要らしい。


「湊は病院のほうに出勤しているわ。夕方には戻るから、手筈通りに進めてちょうだい」


「承知しました」


顔に出さないよう注意しながら、私は陽子さんに従う。この門をくぐるたび、私の自由意志は少しずつ削られていくような気がしていた。いや、最初は「湊のためならば」と思って始めたことなのだ。でも、どこかで胸がざわざわしている。


――私、こんな形で結婚準備を進めたかったんだっけ……?


だが、その疑問の答えはまだ見つからないまま、私はとにかくマナー講師の先生が待つダイニングへと足を運ぶ。しんと張り詰めた空気の中、日曜日の朝から始まるレッスンが、もはや当たり前の光景となっていた。


 夕方、湊が病院から帰宅し、軽い夕食を済ませてから、私たちは応接間で休んでいた。湊は医師として現場で働きつつ、将来的には父・慎一郎しんいちろうの跡を継いで病院の理事長になると言われている。まだ若いのに責任感が強く、それでいて人当たりも良い。世間的にも“スーパーエリート”の典型のようだ。


「灯、お疲れさん。母さんのレッスン、きつくなかったか?」


湊はソファに腰かける私の隣にやってきて、申し訳なさそうに声をかける。なんだかんだ言って、湊自身は私を気遣ってくれているのは感じる。でも、それ以上に家族や病院への責任感が強いのだろう。


「うん……ちょっと疲れた。でも大丈夫。湊こそ、病院どう? 急患とか来たんじゃないの?」


「まあ、いつも通りだけど。外来はそこそこ忙しかったし、研修医の指導もあるし。でも、病院の仕事は嫌いじゃないからな。むしろ充実してるよ」


彼は笑みを見せる。そんな湊を見ていると、私も安心するような、でも少しだけ疎外感を感じるような、不思議な気持ちになる。私だって好きな仕事を続けているけど、ここまで使命感に燃えることはできていない。


と、そこへ陽子さんがやってきた。晩酌代わりに白ワインを手にしている。


「湊、灯さん。あなたたちもこれから朝倉家の未来を共に背負っていくのですから、しっかり自覚を持ちなさいね。特に灯さん、あなたは“朝倉家の嫁”になるんだから、ちゃんと理事長夫人としての責任を果たしてもらわないと」


いきなり厳かな口調で言われて、私は息を飲む。まだ結婚前だというのに、この家庭に入ること自体が当たり前のように語られる。湊の母親としては当然なのかもしれないけれど、正直言って「個人として認められている実感」は希薄だった。


「はい、わかりました……。でも私は、私と湊の人生として、この先も二人で協力していきたいと思っています」


つい遠慮がちに口を挟むと、陽子さんは少し目を細めて頷く。


「もちろん、あなたと湊のことは尊重しているわ。ただ、いずれ湊は病院全体をまとめる立場になるのよ。あなたも一緒に背負う覚悟はできているでしょうね?」


圧が強い。ひしひしと伝わる「あなたは家のために動くのが当然」という無言の前提。その隣で、湊が小さく肩をすくめる。


「母さん、あんまりプレッシャーかけないでくれよ。俺は灯と一緒に、自分たちの未来をちゃんと築いていきたいんだ。家のことも大事だけど、まずは俺と灯の気持ちが大切だろ?」


湊はさらりとそう言ったが、果たしてそれが陽子さんに伝わったのかどうか。陽子さんは軽く眉をひそめて、「家を継ぐのは愛だけでやっていけるものじゃないわ」とだけ返して去って行った。


私は、湊の言葉を聞いてほんの少しだけ救われた。でも、その気持ちはなぜか長続きしない。

(湊はそう言ってくれるけど……結局、朝倉家や病院のことが最優先になってしまうんじゃないかな?)

そんな不安を抱えたまま、私は大きく息を吐く。自分の未来を、自分で選べるのだろうか――そんな問いが、胸の奥に静かに芽生え始めていた。


 私自身、決して裕福な家庭の出身ではない。両親は地方で小さな工場を営んでいて、私は奨学金を使って大学に進学した。金融機関に就職したのも、「手に職」というよりは「安定」が理由だった。そんな私が大学のサークルで湊と知り合ったのは、ありきたりな偶然だったと思う。私は文科系、彼は医学部。キャンパスこそ違ったが、あるボランティア活動で顔を合わせ、打ち上げの席で話すうち意気投合したのだ。


湊はもちろん家柄も良く、性格も温和。それなのに気さくで、私のように普通の実家出身の女にも分け隔てなく接してくれるところが魅力的だった。お付き合いを始めてからは、私の庶民的な感覚に興味を持ってくれたし、私も彼の富裕層特有の価値観に最初は面食らいながらも「貴族みたいでカッコイイ!」と憧れてもいた。


しかしいざ婚約が決まり、「朝倉家」での振る舞いを実際に体験してみると、その“差”に目眩がするほど圧倒された。家の広さ、会食のレベル、出入りする業者やスタッフの数、日常的に交わされる会話のスケール。何もかも私には非日常。とはいえ、私も最初は「頑張って学んでいくぞ」と意気込んでいた。湊と一緒に生きていくためならば、多少のことは耐えられると思っていたのだ。


ところが、次第に気づき始める。

(これ、私、頑張るだけで解決する問題かな……?)

というのも、彼らが私に要求するのはマナーだけではない。“朝倉家の嫁として”の自覚、誇り、病院経営への理解、医師一家としての社会的ステータス……あまりにも責任が重いのだ。そんな中で、私は徐々に自分を見失いそうになっていた。


それはある平日の夜。湊家でのディナーに招かれた私は、いつものように陽子さんや湊の父・慎一郎とテーブルを囲んでいた。

豪華なフレンチのコースが運ばれ、ワインで乾杯。私にはやや背伸びした空間だが、そつなく乗り切るのも慣れてきてしまった。この日も会話の中心は病院関係の話題。慎一郎さんが担当しているVIP患者の話や、医療機器の最新動向など、私には理解が追いつかないジャンルが飛び交う。


「灯さん、あまり難しい話ばかりで退屈じゃないかね?」


慎一郎さんが気遣いを見せてくれるが、私は決まり文句のように微笑む。


「いえ、とても勉強になります。医療の世界は奥が深いですね」


その言葉を聞いて陽子さんが頷く。


「そうでしょう。いずれあなたにも、理事長夫人として病院の行事や会合に参加してもらわないといけないのだから。何事も知っておいて損はないわ」


さらりと“理事長夫人”扱いされて、私はフォークを持つ指先が少し震えるのを感じた。先日、湊に「いずれお前には広報も手伝ってほしいかも」と言われたばかりだったので、少しは覚悟していた。でも、こうも当然のように言われると“私の個人”より“朝倉家の一部”という意識が強く押し付けられる。


「理事長夫人……ですよね。はい、頑張ります」


かろうじてそう返事をする。だけど胸の奥で何かがざわざわしている。私の小さな感情などまったく考慮されないまま、“病院のトップ”の妻となる未来が、既定路線として語られていく。そのことに不安と違和感を拭えないままだった。


ディナーの翌日、私は出勤したものの仕事中はずっと集中力を欠いていた。取引先への書類を送付する際に、一瞬「ここは宛名をもう少し丁寧に書いたほうがいいのでは」と躊躇してしまったり、上司に呼ばれてもどこか上の空だったり。大きなミスこそないものの、頭にかかるモヤモヤが途切れない。


「あれ、灯。ここ数日元気なくない?」


休憩室で顔を合わせた同期の友人・春菜はるなが心配そうに声をかけてきた。私は慌てて笑みを作る。


「ちょっと寝不足気味で……ごめん、気遣わせちゃって」


「結婚式準備で忙しいの? 落ち着いたらお祝いしようねって言ってたのに、最近あんまりLINEも返ってこないからさ」


「ごめんね、本当に……。バタバタしてて。今度こそ、絶対にランチ行こう」


私はそう言いながらも、実際には予定が立てづらい状態だった。とにかく朝倉家での用事が最優先で、週末もマナー教室やゴルフレッスン、結納の準備、病院の挨拶回りまで、スケジュールが埋まっている。必然的に友人との時間は削られ、気づけばプライベートは朝倉家関連一色になりつつあった。


夕方になり、会社を出る頃にはもうクタクタ。それでも「今日は湊家に寄っていく?」という連絡が入れば、断るわけにもいかない。湊が優しい言葉をかけてくれるのはわかっているけれど、その“優しさ”が私の本音を覆い隠してしまうようで、なんとも言えない息苦しさが増していく。


「灯、お疲れ。母さんたち、今日の夕食は簡単に済ませるみたいだから、気楽にしていいよ」


少しズレた気遣いに苦笑しながら、それでも私は湊の愛車で彼の家に向かう。車中、湊は「母さんも父さんも、お前のことを信頼してるんだよ。すごいって言ってた」と励ましてくれる。私は黙って笑顔をつくる。

(これで安心していいのかな……私が本当に望む未来ってなんだろう?)

そんな疑問が募るばかり。それでも、口に出すことができないまま日々が過ぎていく。



「灯さん、あなたは広報が得意だそうじゃないか。金融系とはいえ、営業的なスキルもあるんだろう?」


ある日曜日の昼下がり、湊の父・慎一郎が私に声をかけてきた。いつものように朝倉家に詣でていた私は、マナー講習を終えて一息つこうとしていたところだった。


「え、ええ……まあ、多少は。社内イベントの企画を手伝ったり、取引先への提案をまとめたりということはしてきました」


「ならば、将来的には病院の広報担当も引き受けてほしい。うちは新病棟の建設や、海外患者の受け入れなど、これからますます発信力が必要になってくるからな。湊が理事長になった際には、お前がサポートしてくれると助かる」


慎一郎の物腰は丁寧だが、その内容は半ば決定事項のようにも感じられる。私の方から「無理です」とは言いにくい雰囲気だ。


「は……はい。もし私にできることがあれば、協力させていただきます」


声が少し震えてしまった。なぜなら私の胸には、「できるのかな?」という不安と、「私の人生はどこへ消えてしまうの?」という恐怖が入り交じっていたからだ。慎一郎が立ち去った後、私は思わずダイニングの隅で小さく息をつく。


「ふぅ……」


窓から見える庭園は手入れが行き届いていて美しい。けれど、今の私は、その整然とした風景さえもどこか息苦しく感じていた。

(朝倉家の理事長夫人として、病院広報を担当して……それが、私の“未来”ってことになるの?)

何もかもが大きなレールに乗せられてしまったような錯覚。少し前までは、湊と結婚できるなんて夢のようだと思っていたのに……現実を突きつけられるほど、私は自分が薄れていくようだった。



「おっと、失礼します!」


その日の夕方、キッチンでボウルを取りに行こうとした拍子に、私は誰かとぶつかりそうになった。何かいい香りがする、と思ったら若い男性がコック帽を被って立っている。手には大量の野菜が盛られたトレイを抱えていた。


「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」


「あ、いえいえ。こっちこそ。灯さんですよね? お噂はかねがね……ええと、俺、隼人はやとって言います。新しくシェフの見習いで雇われたんです」


人懐っこそうな笑顔と、少しだけ照れ臭そうな雰囲気。聞けば最近になって朝倉家の料理スタッフに加わったばかりだという。正規のシェフは別にいて、隼人は実質アシスタントとして働いているらしい。


「灯さん、いつも大変そうですね。朝倉家って、やっぱり普通の家とは違いますよね。俺もまだ慣れなくて……」


「……やっぱり、そう見えます?」


「見えますよ。なんか、すごいルールがいっぱいあるじゃないですか。俺なんか絶対ムリですよ、と思いながら必死にやってます。灯さんはさらに大変なんだろうなって……」


隼人は困ったように笑うが、彼の言葉にはどこか自然なやさしさを感じた。私が心の内をこぼしても、否定されない気がする。


「私は……うーん、どこにいるんだろうなあ、って考えることが多いんです。朝倉家のために頑張ってるのは確かなんだけど、自分が本当にここにいる意味があるのかなって」


そう言ってしまったあと、(しまった)と少し後悔した。けれど、隼人は真面目な表情で頷く。


「わかりますよ。俺も“ここで何やってるんだろう”って思うことありますし。シェフとして腕を磨くにはいい環境かもしれないけど、正直、ここが最終目的地じゃないですからね」


彼は野菜のトレイを棚に置いて、真剣な目で私に向き直った。


「自分がどこにいるのか分かんなくなったら、マズイっすよ。俺、昔、それで失敗したことあるんで。なんか、自分がいなくても物事が勝手に進んじゃう感覚っていうか。気づいたら誰の人生歩いてんだろう、みたいな」


隼人の言葉は鋭く私の胸に突き刺さる。そう――まさに、今の私の感覚がそれだった。


「……そう、ですね。私も誰の人生を歩いてるんだろう。自分の人生じゃないみたい」


「まあ、無理しすぎないでください。疲れたら俺のとこに逃げてきていいっすよ。賄い飯ぐらいならいつでも作れますし」


冗談めかした口調で言いながら、彼の目は優しかった。私は思わず「ありがとう」と小さくつぶやいた。短いやり取りだったが、初めて“朝倉家”の中で息がつけた気がした。このときの隼人の存在は、私にとって小さな救いになったのだ。



それからの私は、陽子さんやマナー講師に連れられてのVIP向けテーブルマナー講習、さらにはゴルフ場での接待レッスンなど、俗に言う“良家の嫁修行”を猛スピードで受けることになった。週末はもちろん、平日夜にまで予定が組まれるほど徹底している。


「灯さん、スイングが乱れてます。もっと肘を締めて、しっかり腰を回して!」


ゴルフ練習場でコーチから叱咤され、私は何度もボールを空振りした。休日くらい好きなことをしたい、家でゆっくり休みたい――そんな気持ちはあっても、今は「朝倉家の義務」が優先だ。


一方で、湊とのデートという名目で出かけても、実際には親族づきあいの下見や、病院関連の知人との顔合わせが多い。二人きりでカフェに寄る余裕などなく、スケジュールは「朝倉家の都合」に合わせて埋まっていくばかり。湊も忙しく、あまり気軽には動けない。ときおり隙を見て彼が「灯、大丈夫か?」と声をかけてくれるけれど、正直言ってそれで救われるほど生半可なストレスではなかった。


「結婚式の準備も進めていかないとな。母さんが式場の候補をいくつかピックアップしてくれてるから、一緒に見に行こう。日程の都合つく?」


「……うん、わかった」


心ここにあらずのまま頷いてしまう私。こうして周囲から見れば“完璧”に進んでいるように見える婚約準備は、私の中の「生気」を少しずつ奪っていく。そしてあるとき、私は何気なくスマートフォンを開き、気がついた。

(最後に友達と連絡を取ったのは、いつだっけ……?)

会社の同期や地元の友人たちのグループチャットでは、おそらく近況報告や雑談が飛び交っているはずなのに、私は長らく既読すらつけていない。メッセージの数は膨れ上がっているが、怖くて開けない自分がいた。


――「こんなに必死になって、自分は何を得ようとしてるんだろう」――


そんな自問が頭をもたげ始める。湊を支えたい。その気持ちは本物だけれど、今の状況は果たして自分の本質的な望みなのか? 私はただただ“家のため”の作業をこなし、完璧を装い続けることで、破綻を先延ばしにしているだけのように感じていた。



「灯さん、この度はあなたを正式に朝倉家の嫁としてお迎えします。結婚式のことは母さんや式場スタッフにも協力してもらって、万全の体制で進めていきましょう」


ある日曜日の夕方、陽子さんが“正式承認”を言い渡した。もともと婚約はしていたものの、「本当に朝倉家に相応しいか見極める期間だった」という口実があったらしい。私は突然の報告に困惑しつつも、「ありがとう……ございます」と頭を下げるしかない。嬉しさよりも、「ついに本格的に逃げられなくなるのか」という気持ちが先だった。


それからは急ピッチで結婚式準備が進む。ドレス選びも、招待客リストの確定も、式の演出プランも、ほとんどが陽子さんと式場スタッフ主導で決まっていく。私が「こういうドレスが着たい」と口にする前に、高価なブランドのカタログが山のように積まれて、「このあたりが無難ね」と言われるのだ。


「灯、母さんが提案してくれたこのドレスのデザイン、いいんじゃないか? すごく上品だし、お前に絶対似合うと思う」


「そうだね……うん、ありがとう」


湊の声もどこか上滑りに聞こえる。でも彼には悪気がないのだ。彼なりにベストを尽くしているつもりなのだろう。私も形だけは「花嫁としての成功ルート」に乗っているかもしれない。式の準備は“順調”で、湊の両親や親戚からも「いいお嬢さんだ」と評価が高いという。だがその評価を受けるたび、私の存在は薄れていくような気がして仕方なかった。



式の準備が具体的に進むほど、私は会社でも浮いた存在になっていった。周囲は「結婚が決まって幸せそう」と思っていたのかもしれないが、実際の私は業務中も上の空で、同僚との会話に参加する余裕もない。大事なメールを見落としかけたこともあり、上司から「大丈夫か?」と呼び出された。


「すみません、私情を持ち込まないようにしてるんですけど……ちょっとバタバタしてまして」


謝る私に、上司は苦笑する。


「まあ、結婚準備は大変だろうしな。落ち着いたら挙式日を教えてくれよ。お祝いするから」


「……ありがとうございます」


そう言われて余計に息苦しくなる。お祝いされるほど幸せを感じていない自分が、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになるのだ。


さらに追い打ちをかけるように、キッチンの隼人が突然朝倉家を辞めたという噂が耳に入った。

「隼人くん、急に辞めちゃったのよ。『もう自分の居場所がない』とかなんとか言って」

家政婦さんが私にそんなことを教えてくれたとき、胸がズキリと痛んだ。確かにあのときから、隼人も「ここにいる意味」を模索しているようだったし、私に「自分がいなくても世界は回っちゃうんですよね」なんて呟いたことがあった。

(結局、踏みとどまれなかったんだ……。でも、私にとってはちょっと羨ましいかもしれない。逃げられたんだもん……)

私はなんてひどいことを思っているんだろう、と自分で自分に嫌気がさす。逃げたいけれど逃げられない。その葛藤のなかで、私はついに自分自身を見失いかけていた。



結婚式リハーサルの日。広い式場のバージンロードを歩く段取りや、披露宴の流れを確認する。控室でヘアメイクをされながら、ふと鏡に映る自分の姿を見る。白いドレスが眩しい。幸せの象徴のはずなのに、私の心は酷く沈んだままだ。


リハーサルを終え、控室に戻ってきたところで、陽子さんが笑顔でやってきた。

「お疲れさま、灯さん。どう? 順調だった?」

陽子さんはいつもより機嫌が良さそうに見える。私はやや硬い声で答える。

「……はい、まあリハーサルなのでなんとかなりました」

すると、陽子さんはふっと口角を上げる。その表情は安堵なのか満足なのか、あるいはその両方なのか。


「ええ、これで朝倉家も安泰ね。あなたがきちんと振る舞ってくれるおかげで、私も安心だわ。結婚したら、湊よりも家を最優先してくれるでしょう?」


「……え」


その一言は私の耳に妙な響きをもって届いた。「湊よりも家を優先してね」という言葉。私が一瞬固まると、陽子さんはまるで「当たり前じゃないの?」とでも言うように微笑んでいる。


「だって湊は男の子だから、仕事で外に出ることが多いでしょう? 奥様たる者は家を守り、あくまで朝倉家のために尽くすものなのよ。あなた、今まで教えられてきて、わかったでしょう?」


「……湊よりも……家、を……?」


呆然と繰り返す私。陽子さんの表情は変わらない。そのあまりの当然ぶりに、思わず寒気すら覚えた。


「そうよ。あなたと湊が円満に暮らしていけるならそれに越したことはないけれど、朝倉家の伝統が第一。何かあったときには、躊躇なく家を守ってちょうだいね?」


さらりと言い放たれて、私の頭の中で何かがバチンと弾けた。ちくちくと続いていた違和感が、ついに限界を超える。

(そうだった。私は、ずっとこういう扱いを受けてきたんだ。まるで物のように――。個人じゃなくて、朝倉家という大きな歯車の一部になれって……。)

私の中で、言いようのない空虚が大きく広がる。




控室に一人残り、私はハイヒールを脱ぎ捨ててソファに崩れ落ちた。ドレスのスカートがしわになるのも構わず、頭を抱える。


(湊と私の結婚……だったはずなのに。いつからこんな“朝倉家の行事”になっちゃったの?)


左手の薬指には、湊から贈られた指輪がはめられている。プロポーズの瞬間は嬉しかったはずなのに、今はその指輪を見るたびに胸が苦しくなるだけだ。過去数ヶ月の結婚準備を思い返す。指輪選びも、招待客のリストアップも、ドレスも……ほとんど私の意志は反映されていない。会話に参加していたつもりでも、気づけば陽子さんや式場スタッフの提案がそのまま通っていく。


「私、この式場にいるけど……どこにもいない」


声に出した途端、思わず涙が零れる。確かに私はここに座っている。でも、心はここにない。私は自分の人生を歩んでいる感覚がまるでない。

――どうして私は、こんな場所にいるのだろう?――

湊が好きだった。彼の優しさも、人を救いたいと願う志も。なのに、いま私が感じているのは、絶望に近い喪失感だった。私にとっての結婚は、こんなにも息苦しいものだったのだろうか。サークル活動で一緒に笑い合っていた昔の私が、今の私を見たらなんて言うだろう。


「……もう、耐えられないよ」


声が震える。けれど、ここで泣きじゃくっていても状況は変わらない。やがて落ち着いてきた私は、ドレスを直しながら意を決した。

(逃げちゃいけない。湊とちゃんと話をしよう。どんな結末になっても、もう嘘はつきたくない……)




リハーサルがすべて終わり、私は廊下で湊に声をかけた。少し焦った様子の湊に、「二人で話がしたい」と強引に控室へ連れ込む。まだ着替え途中のウェディングドレス姿のままだが、そこにこだわる余裕はなかった。


「灯、どうしたんだ? そんな顔して……具合でも悪いのか?」


湊は心配そうに覗き込んでくる。その表情を見ると、やはり憎めない。彼の優しさは本物だ。それでも、私は目を逸らさずに言葉を放つ。


「湊……ごめん。私は……もう無理なの。こんな形で結婚するのは」


「え?」


「私ね、湊と一緒に生きたいって思ってた。心からそう思ってたし、今も気持ちはある。だけど、実際には“朝倉家の嫁”に私が取り込まれてるだけだって、今日確信したの」


湊は戸惑った表情を浮かべ、私の言葉を飲み込めないようだ。


「ちょっと待てよ、灯。確かに母さんたちはいろいろ言うけど、俺はお前を大切にしたいってずっと思ってる。だからこそ、お前に家族との折り合いをつけてもらいたかったんだ」


「わかってる。それはわかってるんだけど……あなたは家族の期待に応えることが最優先なんでしょう? 私はあなたがやりたい医師としての仕事を支えたかったけど、いつの間にか病院経営やら理事長夫人やら……私の意志はどうでもいいみたいじゃない」


吐き出す言葉が止まらない。一度決壊した感情は自分でも制御できなかった。


「私は朝倉家のために生まれたわけじゃない。あなたと二人で、普通に生きていきたかった。でも、もうここに“私”はいないの。あなたにとっても、結局は“家”が一番なんでしょう?」


「そんなこと……言ってない……」


湊は必死に否定しようとするが、言葉に力がない。まるで自分が指摘されるのを恐れているようにも見える。


「……俺は……家族に応えたかっただけなんだ。俺は長男だし、父さんや母さんの期待を裏切るわけにはいかないだろ?」


「そう。それは仕方ない。でも、私はもう、このまま流されるのは嫌。……ごめんね、湊」


私は左手から指輪を外し、彼の手のひらにそっと乗せる。湊の瞳が大きく揺れた。


「灯……?」


「私は、私の未来を、私自身で選びたい。だから、この結婚はもうやめたい」


自分の口から出た言葉が信じられないほど、静かな声だった。大きな決断なのに、不思議と穏やかな確信があった。湊は苦しそうに首を振る。


「待ってくれよ……そんなの、急すぎる。俺たちここまで準備して……」


「急じゃないの。私はずっと悩んできた。でも黙ってただけ。ごめん、本当にごめん」


湊が私の手を掴もうとするが、私は一歩引いて首を振る。震える声で「行かないでくれ」と叫ぶ湊。しかし、もう決意は揺るがなかった。


「さようなら、湊。……今まで、ありがとう」


そう告げると、私はドレスの裾を引きずったまま控室を出る。もう戻る気はなかった。



婚約破棄という結論に至ったことで、朝倉家は大騒ぎとなった。特に陽子さんからは「とんでもない裏切り者」と罵られ、慎一郎さんは冷ややかに「これではうちの体面が……」と嘆いた。もちろん私の両親にも連絡が行き、母は驚いて電話をかけてきた。


「灯、本当にいいの? あんな素晴らしい家にお嫁に行けるのに……」


「ごめん、お母さん。でも、私……これ以上は耐えられなかったの」


噂を恐れてか、朝倉家は式が始まる前に「破局」を内々で処理したかったのだろう。結局、双方の話し合いを経て、穏便に縁を切ることに合意した。私もできるだけ揉めたくはなかったし、湊との間にはまだ嫌い合うような感情もなかった。唯一本人同士が顔を合わせる機会はほとんどなく、それだけが少し心残りといえば心残りだった。


こうして私は再び自分の小さな部屋に戻ってきた。ここには朝倉家のような豪華さはないし、冷房の効きも悪い。でも、妙にホッとする。

(そうだ。ここが、私の生活だったんだ)

友人たちには一部事情を話すと、「驚いたけど応援する」という声が多かった。仕事場でも、上司に正直に伝えたら「苦労したんだな。気にすんな」と励まされた。私はまだ傷心とまではいかないが、ぼんやりとした虚脱感を抱えながらも、少しずつ日常を取り戻そうとしていた。


そして、しばらく経ったある日。私はネットで情報収集を続け、思い切って転職活動を始めてみた。

(結婚だけじゃなくて、自分のキャリアもちゃんと考えたい)

これまで朝倉家への遠慮から、「辞めずにこのまま今の会社にい続けて、いずれは病院広報へ?」なんて未来を半ば強要されていた。でも今は自由だ。試しに外資系企業にもエントリーシートを出してみたら、思いがけず書類審査を通過した。


「……あ、面接の案内が来てる……!」


通知メールを開き、その企業の名前を見た瞬間、私の胸は高鳴った。グローバルに展開する金融系の外資。英語力も問われるし、入社試験も厳しいと聞くが、だからこそやりがいがある。それに「私が望んだ未来を、自分で切り開きたい」という思いが、今の私を動かした。



数ヶ月後。私は、外資系企業への内定を獲得し、新しい一歩を踏み出す準備を整えていた。もちろん甘いことばかりではないだろう。それでも今の私は、かつての閉塞感から解放され、心が軽い。


明るい日差しが降り注ぐ東京の街。久しぶりに余裕を持って歩くと、通りにはたくさんの人が行き交っている。当たり前の景色が、なんだか新鮮に映る。私は近くのカフェに立ち寄り、テラス席に座って手帳を開く。そこにはこれからのプランや目標が、何行にもわたって書き留められている。


「今度は英会話スクールも通いたいな……あとは、資格の勉強も……」


ペンを走らせながら、私は微笑む。かつて、朝倉家の門前で深呼吸していたときとは、まったく違う気持ちだ。あのときは「入る前の緊張をほぐす深呼吸」だったけれど、今は「これからを切り開くための深呼吸」。同じ呼吸でも、その意味合いはまるで違う。


「私、私の未来を、自分で創るんだ」


そう静かにつぶやくと、胸の奥から確かな力が湧いてくる。痛みや後悔もある。でも、過去の選択を否定したくはない。湊と出会ったあの頃の自分も、当時は真剣だったのだから。もしもまた恋をする機会があったなら、そのときはお互いを大切にしあえる関係を築きたい。家や肩書きではなく、人と人として……。


空を見上げると、抜けるような青が広がっていた。カフェの周囲はにぎやかなのに、私の心は穏やかに満たされている。

手帳の新しいページを開いて、私はもう一度夢を書き込む。そこに詰まっているのは、誰かに決められた未来ではなく、自分で選んだ未来だ。


――月曜日の朝、深呼吸をする私がいる。だけどもう、それは義務感に縛られた呼吸じゃない。自由をかみしめるための呼吸――。


私はコーヒーカップを両手で包み込み、そっと微笑んだ。


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