信頼という名の交渉術-1
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セカンダリア中央図書館の一角。
重厚な書架に囲まれた、選ばれた者しか足を踏み入れられない「資料保管庫」の応接室に、nullとシカクは再び足を運んでいた。
豪奢な椅子に腰かけながら、二人は静かに相手の到着を待つ。
シカクは落ち着かない様子で椅子の背にもたれたり、足を組み直したりしているが、nullはその隣で無言のまま思考を巡らせていた。
今日の話し合いは、ただの報告に留まらない。
今後に繋がる交渉の始まりになるかもしれないのだ。
――コン、コンッ。
控えめなノックが部屋に響き、一拍置いて重たい扉が開かれる。
姿を現したのは、前回と同じ二人。ルシアンと、その後ろに控えるカイリスだった。
「待たせてすまないな」
相変わらずの堂々たる態度でルシアンがそう口にすると、ためらいもなくnullたちの横を通り過ぎ、正面の椅子に腰掛ける。
カイリスは何も言わず、その背後に静かに立ち、こちらに鋭い視線を投げかけてきた。
「いいえ、お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
nullは微笑みながら丁寧に頭を下げる。慌てて同じように頭を下げたシカクを見て、ルシアンは片手を軽く上げて、「構わない」とだけ応じた。
nullはその動きを見届けつつ、改めて相手の出方を注視する。
依頼された内容はすでに完了している。今回はその成果を伝えるための場。そして、それ以上の利を得るための、静かな駆け引きの始まりだった。
「それで、結果は聞き及んでいる。無事、果たせたようだな」
ルシアンはあっさりとそう告げた。
nullは静かに頷きつつ、その表情を見つめる。
彼は、金庫が転送されたことだけを知っているのか? それとも、あの場に“何がいたか”まで把握しているのか。
こちらには分からない情報を引き出すために、言葉を慎重に選ぶ。
「ええ。無事に届いたようですね」
「ふむ。それで?……どうだった?」
ルシアンの問いに、nullは少しだけ間を置き、口を開いた。
「まさか、あんな敵がいるとは思いませんでした。……ルシアン様も、お人が悪い」
軽く揶揄うように言えば、ルシアンは片眉を上げた。しかしその表情には感情の起伏が乏しく、何を思っているのかまでは読み取れない。
「心外だな。私は君たちに、金貨探しの依頼をしただけだが。」
「……依頼内容は金庫の奪還でしたね。ですが、それにしては随分と強力な金庫番がいましたよ?」
「番人か。……まあ、あの地帯は魔力濃度が高いからな。凶悪な魔物が眠っている――その程度の情報なら、事前に手に入ったのでは?」
淡々と返すルシアン。
「そのくらいの情報収集もできなかったのか」と暗に釘を刺すような物言いに、nullは小さく息を吐いた。
「まさか――カルセドリアン・ウォッチャーの話ではありませんよね?」
にこりと笑みを浮かべながらnullが告げると、ルシアンは僅かに眉間を寄せた。
その反応を見た瞬間、nullは確信する。やはりあの存在はイレギュラーだったのだ。
「……あの場にいたのは、結晶のモンスターではなく、明らかに実験体でした。それも、かなり手が加えられた――改造された痕跡があった」
「実験体?……どういう意味だ?」
不意に鋭さを帯びたルシアンの声。
ルシアンが隣に立つカイリスに視線を向けると、彼はわずかに首を横に振る。それは「知らない」という無言の意思表示だった。
(こちらの切り札を、どう切るか。)
派手に演じて情報を引き出すか、それとも静かに詰めていくか。
ほんの数秒、逡巡した末、nullは肩を軽く竦めて答える。
「……バイオスレイヤー、【Type:Ω】と呼ばれていました。戦闘中に表示された名称です。
攻撃パターンは規則的で、明らかに人工的な制御下にある印象を受けました。
外装は結晶化していましたが、内部には機構のようなものが組み込まれていたようで――」
nullが淡々と語る間、ルシアンもカイリスも言葉を挟まず、じっと耳を傾けていた。
だが、途中からルシアンの眉間はさらに深く皺を刻み、腕を組んで視線を落としながら考え込んでいる。
(彼の隙を突くなら今か…。)
再度nullが口を開こうとした、その時。
「――待て。それは本当にバイオスレイヤーと呼ばれていたのか?」
横から割って入ったのはカイリスだった。その声には、驚きと警戒が入り混じっている。
nullは少しだけ口角を上げて、ゆっくりと頷いた。
「はい。ログにも残っているはずですよ。気になる名称ですか?」
「……いや、いい。それより、【Type:Ω】だったか。それを倒したのだろう?」
「ええ」
あまりにもあっさりとしたカイリスの反応に、nullは思わず言葉をのみ込んだ。
カイリスの表情は冷静そのもので、揺らぎはない。だがその問いは、あまりにも軽い。
(倒したか、って……)
肩透かしを食ったような空気に、威勢を削がれた自分を自覚しながら、nullは目を細めた。
ルシアンが交渉相手として手強いのは当然だが、もしかするとカイリスはそれ以上に厄介なタイプなのかもしれない。
「――であれば、こちらで用意していた報酬とは別に、何か加えねばなるまいな」
落ち着いた口調で続いたのは、ルシアンの声だった。
その一言に、nullの眉がぴくりと動く。
(しまった、タイミングを逃した)
眉間にわずかに力が入り、表情が強張る。
狙っていた仕掛けの好機を逸した――そのことに気づいたのか、ルシアンがふっと意味ありげに笑んだ。
その笑みに滲んでいたのは、ただの言葉の応酬を超えた、彼らの連携の巧みさだった。
ルシアンが思考を巡らせる間に、カイリスがさりげなくこちらを牽制し、会話の主導権を手放さない。
あまりにも自然な連携に、一瞬、カイリスの軽い問いかけへと意識が逸れてしまったが――恐らく、それこそが狙いだったのだろう。
これが彼らなりの交渉術。練りに練られたペースの掌握だ。
nullは小さく肩を竦め、さらりと返す。
「報酬ですか。多くは望んでいません。ただ――もし、ご厚意に甘えられるのであれば、今後もご贔屓にしていただければと。それくらいの話です」
目先の利益よりも、ここで築くべきは継続的な繋がり。
そう判断した上での一言に、ルシアンが少しだけ意外そうな表情を浮かべた。
冒険者といえば、対価に強欲な存在だと思われていたか。
それとも、こちらの提案が――彼らにとっても都合の良いものだったのか。
nullは瞳を細め、相手の反応を観察する。
微笑みを絶やさず、堂々とした態度の裏に、強かさと利を見据えた冷静さを滲ませながら。
「つまり、またこうして私と会う機会が欲しいと?」
ルシアンはわざとらしく苦笑しながら、やや見下ろすような視線を投げかける。その声音には、「それは随分と贅沢な望みではないか?」という皮肉が込められていた。
nullは微笑を崩さぬまま、穏やかに言葉を返す。
「いえ、お忙しいでしょうし、毎度お目にかかる必要はないかと。ただ――何かあった時に、イザーク経由の連絡手段しかないというのは、少々心許ないのです」
イザークを嫌っているわけではない。むしろ、今のところは信頼に足る協力者だとすら思っている。
それでも――彼に知られずに動ける余地は、あればあるほどいい。
信頼とは、盲信ではなく、距離と選択肢を保つことだ。
たとえそれが、有事の際にしか使えない、形ばかりのものであったとしても。
接点という手段をもう一つ確保しておくことに、意味があるのだ。
「そこまで与えてやる必要があると思うか?」
挑むようなその問いに、nullの口元がゆるりと釣り上がる。
「では…貸し一つ、ということにしておきましょうか?」
静まり返る空間で、最初に反応を示したのは隣にいたシカクだった。
空気が冷たく引き締まる中、彼がごくりと喉を鳴らす音だけが妙に大きく響く。
それでもnullは一度もそちらを見ず、ただ可笑しそうに微笑んでいた。
「クックック……――貸し、だと?」
一気に場の空気が重く沈んだ。
ルシアンの低く抑えた声が、空間そのものの温度を下げるように落ちる。
「ええ。――だって、誰も手出しできなかったのでしょう?
それで都合がいいから、私たちに白羽の矢を立てた。
……私たちは、ただの冒険者ですからね。ハイリスクには、ハイリターンを求めたいだけです」
にこりと柔らかな笑みを向けながら、言葉にわずかに棘を込める。
その瞬間、カイリスが静かに首を振った。
「そうはならないだろう」
重く、落ち着いた声が空気を引き締めた。ルシアンの視線は鋭く、語気に揺るぎはない。
「確かに、今回の件について君たちの協力には感謝している。
しかし、君たちが行ったことは、犯罪すれすれ…。いや、不法侵入とすら言える行為だ。それを黙認し、依頼という形にすり替え、君たちの利益となるよう采配した。
それを貸しと称するのは、こちらとしては甚だ不本意だと――君なら理解できるはずだが?」
冷ややかな言葉に、nullは肩をすくめて笑みを浮かべた。
「そうは言いましても。私たちは依頼を達成し、その報告の場で追加報酬のお言葉をいただいたのです。
でしたら、多少こちらの希望をお伝えしても……悪くはないでしょう?」
決めるのはそちら。私はお願いしただけ
――そう言わんばかりに返すと、カイリスが思い切りため息を吐く。
呆れたようなその仕草に、nullは口元を緩め、してやったりと笑みを深めた。
ルシアンが、やれやれとばかりに片手を上げる。
「もういい。君たちに、この場所への立ち入りと、こちら側の者との連絡役を紹介しよう。――それが望みなのだろう?」
「いえいえ。私たちとしては、穏便に済ませられるのであれば、それ以上に望むことなどありませんわ」
きらきらと輝かんばかりの笑顔を浮かべながら、悪びれもせず言い切る。
その無邪気さすら感じさせる態度に、大きく反応したのはカイリスだった。ピクリと眉が跳ね上がり、わずかに顔を歪める。
してやったと確信したnullは、さらに微笑を深める。
「それにしても、高貴なお二方とこうしてお会いできる機会など、そうそうありませんから。とても貴重な経験をさせていただいております」
にっこりと礼をしながら言えば――
「……お前というやつは、本当に……」
カイリスの呆れ声が、静かな図書館に響いた。
「これほど慣れた態度の冒険者は初めてだ」
「まぁ、ありがとうございます」
皮肉を受け流すように、礼で返す。
またも深いため息が漏れ、それすら愉快に感じる。
「もういいと言ったはずだ」
ピシャリとした声でルシアンが場を収める。
「今回の報酬は、すでに決まっている。これ以上は――時間の無駄だ」
懐から取り出された二通の封書が、nullとシカクの前に静かに置かれた。
「これは元々決めていた報酬だ。それぞれ内容が多少異なるが……それくらいが、ちょうどいいだろう」
恐らく、職業やスタイルを考慮して用意されたものだろう。
あるいは――二度の交渉の場でのやり取りを踏まえた上で、微調整された報酬かもしれない。
中を見ても真意までは読み取れないだろうが、それでも構わないとnullは思った。
「ありがとうございます。受け取らせていただきます」
静かに頭を下げると、それに倣うようにシカクも礼をする。
「それから、先ほどの追加については、この場を出るまでには届けさせよう」
「重ねて、御礼申し上げます」
にこりと微笑めば、ルシアンは表情を崩すことなく、淡々とした口調で続けた。
「今回の件は、他言無用だ。……まぁ、漏れたところで痛手はないがな」
ふん、と鼻を鳴らしながら、こちらを見やるその視線に、何らかの手を打っていることが滲んでいた。
別に、こちらから広めるつもりはない。けれど、冒険者の中には、功績を誇張して語る者もいるだろう。
その念押しに、nullは素直に頷いた。
(気にしているのか、していないのか――)
ほんのわずか、不満げに揺れたルシアンの眉。それを見て、nullは小さく笑った。
どれだけ仮面を被っていようと、こうして人間味が見える瞬間がある。
――彼もまた、一人の人間なのだと。そんな風に思えて、つい、くすりと笑みがこぼれる。
「恐らく、其方らとはまた会うような気もする。……だが、必要以上に私たちに声をかけないでくれたまえ」
「ええ。世間体って、大切ですものね。――存じております」
まるで舞台上の挨拶のように、優雅に言い切る。
だがその言葉の奥底には、もうひとつの取引が静かに成立しつつあった。
次回:信頼という名の交渉術-2




