情報は、戦場で奪え-1
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怪しげな建物の中は、意外にも古びた酒場だった。
薄暗い室内に、カウンターの奥でひとり佇む男。客の気配はなく、男は静かにグラスを磨きながら、こちらに視線を向ける。
「いらっしゃい」
気だるげなその声に、nullとシカクは顔を見合わせると、軽く頷いてカウンターへと歩を進めた。
nullが近づくと、男の目が彼女へと鋭く向けられる。
「……持ってるな、お嬢ちゃん。
――そっちの兄ちゃんは……持ってねぇな? 二人組で来たってことでいいのか?」
どうやら、彼が言う「持ってる」とは――金貨のことらしい。
男はシカクにも目をやるが、すぐに再びnullへと話しかける。金貨の持ち主以外には、特に興味がない様子だった。
nullとシカクは黙って頷く。
「……なら、こっちだ」
男は無造作にカウンター奥の一枚の扉を指さす。その先には、古びた木製の階段が下へと続いていた。
nullは躊躇いもなく、その階段を下り始める。シカクは一歩後ろで立ち止まり、男に尋ねた。
「この先には何が?」
「行きゃ分かるさ」
男は振り向きもせず、ひらひらと手だけを振って返す。どうやら、それ以上の説明をする気はなさそうだった。
nullはそれを確認すると、階段を進み続ける。シカクもその背を追った。
やがて階段の終わりが見え、仄かな光が漏れてくる。
扉はなく、ただの枠組みだけがそこにあり――まるで「ここから先は別の世界」だとでも言うように、二人を迎え入れていた。
足を踏み入れた部屋は、この世界の雰囲気とはまるで異なる場所だった。
並べられた無骨なコンピューター。壁際の棚にはファイルでぎっしりと整理された資料。どこか研究施設や実験室を思わせるような空間に、nullは思わず呟く。
「……リアル。」
異質な光景の中で、ゲームと現実が一瞬、重なった気がした。
「サーチ」
nullは慣れた手つきで魔法を展開する。体の感覚に溶け込んだこの動作は、彼女にとって呼吸と同じ。部屋の隅々まで、魔力の波が静かに広がっていく。
やがて、視界にシステムウィンドウが浮かび上がる。
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《サーチ結果》
・【隠し部屋】:戦闘訓練用の実験室。防音構造あり。
・【微弱なエネルギーが流れるコンピューター端末】:起動可能。電源はスタンバイ状態。
・【床下のアクセスパネル(ロックあり)】:ロック機構を検出。解除にはアクセスコードが必要。
・【本棚の奥にある隠し収納】:内部にファイリングされた資料を検出。タイトル:「生物試験データ No.216」
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「シカク、端末お願い。私はこっちの資料を確認する」
「了解」
シカクは頷き、端末の方へと向かっていく。nullは本棚へ歩み寄り、サーチで反応のあった一角に手を伸ばす。
本棚に入っているファイルをすべて取り出すと、最奥に倒れていたファイルを発見した。
「これかな?」と手に取れば、表紙には「生物試験データ No.216」と記載されている。
どうやらこれで間違いないらしい。
ぺらぺらとページをめくっていくと、専門用語と数値が並び、断片的な記述に混じって「被験体」「暴走」「遺伝魔力干渉」など、見逃せない語句が浮かんでくる。
(……これ、単なる金貨の話じゃない。もっと――深い)
ファイルの奥から、何かもっと重大な謎の影が、じわじわと浮かび上がってくるようだった。
資料によれば――この施設内で“実験体《生物試験データ No.216》”を撃破すれば、液晶端末にアクセスコードが表示され、そこから必要なデータの閲覧が可能になるという。
しかも、このNo.216でなくとも他の個体でも解除コードは得られるようだが、「最も高度な解除キー」を所持しているのはこの個体らしい。つまり、倒すべきターゲットは自ずと決まってくる。
なお、資料にはこんなことも書かれていた。
【実験体は端末からある程度の制御が可能である。戦闘担当者と制御担当者に分かれて対応すれば、難易度は抑えられる】
難易度表記には「★×3」とあるが、最高がいくつなのか明記はされていない。
(控えめに書いているだけなら……それはそれで厄介)
そして、No.216のコードネームは――《バイオスレイヤー》
nullは無意識に眉をひそめた。ファイルに記されたその特性は、プレイヤーにとって嫌がらせのフルコースだった。
『高速移動、鋭利な触手による範囲攻撃、自己再生能力、物理、毒、音波の複合ダメージ』
(めんどくさ……)
資料を手に、nullはシカクのいる端末の方へと向かった。彼は既に情報を検索しているらしく、手慣れた操作で複雑なUIを動かしている。nullはその様子をしばらく眺めながら思う。
(……現実では、こういうの扱う仕事だったのかな)
nullは、昔プレイしたとあるマニアックなゲーム――研究所で開発したモンスターをリンク操作して戦わせるタイプのやり込み格闘ゲーム――を思い出した。
「システム構築フェーズ」がリアルすぎて、チュートリアルで投げ出すユーザーも多かったが、nullは根性でやりきった記憶がある。
(あの時と違って、今は制御を任せられる人がいる。……楽できるなら、任せたいよね)
そう思って彼の隣に立ち、淡々と声をかけた。
「ねえ、隠し部屋のロック解除して」
「……隠し部屋の? あそこ、危険な実験体がいるらしいけど…」
怪訝そうなシカクの言葉に、nullは無言で資料ファイルを手渡した。ページを繰りながら彼が眉をひそめていくのを見届けてから、淡々と口を開く。
「アクセスコードを得るには、そこにいる《No.216》を倒すしかないみたい」
「……マジかよ。こんなの、どうやって倒すんだよ。制御できるって書いてあるけど、戦わなくても済むルート、探すべきじゃないか?」
半ば本気でそう言う彼の視線がnullに向く。
「俺には無理だ」と言わんばかりの表情にnullは微苦笑を浮かべつつ、端末の画面を覗き込んだ。
(……そりゃ、普通のプレイヤーならそう思うよね)
確かに手強い。
相手は、鋭利な触手と自己修復能力を備えた「バイオスレイヤー」
コードネームが付いているあたり、ただの試験体ではない。それに加えて、物理・毒・音波という複合攻撃に、電気と氷という限定的な弱点。
(正直、魔法だけで突破できる相手じゃない)
nullが持つ魔法は、どちらかといえば回避・撹乱・支援に寄っている。決定打となるような【雷属性・氷属性】の高威力スキルは、現時点では揃っていない。
だからこそ、彼女にはもう一つの手段がある――だが、それをシカクに見せるつもりはない。
それに今回の戦いでは、彼がいることが強みでもあり、リスクでもある。
《制御担当》として敵の動きを抑えてもらえれば、こちらは隙を狙って戦える。けれど、そのためにはnullの戦闘を常時モニター越しに観察されるということでもある。
(下手なことはできない……。ただ、やるしかない)
シカクが端末を操作し、ロック解除のための手順を探し始めた。nullはその背中を見ながら、思考を続ける。
(勝ち筋があるとすれば、回避と継戦力、そして――シカクのサポート。……あとは、自己再生をどう止めるか。それさえどうにかできれば――)
「5,000……いや、4,000ダメージを与えられれば、おそらくいける。でも、相性が悪すぎる。たぶん、こっちの火力だけじゃ無理。制御にかかってるかも」
「それはもちろん協力するさ。にしても、4,000か……それくらいなら何とかなるかもしれないな」
試験体 No.216の資料と、端末の制御システムを交互に見つめながら、シカクは真剣な表情で考え込んでいた。nullはそれを見ながら、決断する。
(自己修復さえ止められれば、勝ち目はある)
だから――彼に任せる。
「じゃあ、任せた。解除、よろしく」
そう言って、nullは隠し扉の前へ立つ。
目を閉じ、これからの戦闘を頭の中でシミュレートする。自分の動き、スキルの順序、立ち位置。ほんの数秒、だがその中で何度も繰り返して、手応えを確認する。
――ギィィィ……
扉が、音を立てて開いた。
ふぅ、と息を吐いて目を開けると、白一色の空間が広がっていた。床も壁も天井も、何もかもが白い。ただし天井の四隅に設置されたカメラとスピーカーだけが異物感を放っている。
(あれでシカクがこちらを監視してるんだな)
声も届くはずだ。つまり最低限の連携は取れる。
『あー、こちらシカク。ナルさん、聞こえるかー?』
「聞こえてるよ」
『よし、こっちもバッチリ。準備でき次第、そっちに“試験体 No.216”を送り込むぞ』