エミリー2
エミリーが調理場に行くと、残り一人となったコックのジェフリーがいた。
「おはよう。ジェフリー」
エミリーが声をかける。
「ああ、おはよう。しっかし、もうどうしようもないな。食料が底をつきかけている。このままじゃあ、なにもつくれや、し・ねぇ・や!」
ジェフリーの語尾が大きく跳ね上がる、それと同時に鈍く重い音が室内に響き渡った。
「きゃ! 何?」
それ異様な音に驚きエミリーは言う。
「いや、ネズミだよ」
ジェフリーの腕には、パン生地を伸ばすときに使われる木製の棒が握られていて、それには赤い血がべったりと付き、ぽたぽたと滴っていた。そしてその元には何かしらの固形物がついている。それは、赤く染まり、何かは見当もつかない。
「ちょっと、なにしてるの!」
エミリーは声を荒げた。
「すまん、すまん。まあ、こんなもん洗っとけばいいから」
ジェフリーはそう言って調理台の上にあるネズミの死体を手でつかみ窓から庭に放り投げた。それは、こともあろうに、這いまわるネズミを無残にもパンを伸ばす木製の棒で打ち付けた結果だった。そして、ここは調理場である。
エミリーはジェフリーのことがどうにも好きになれなかった。彼は、粗野で横暴で品性のかけらもない。昔、どこぞの海賊だか、盗賊だかで悪さばかりしていたらしいが、城主に目をかけられ、足を洗いこの城のコックとして働き始めた。性格が悪いわけではないが、他人に配慮するということを知らない男だった。強靭なその肉体は、隆起し、白いコックの衣装がまるで水夫のように見えた。そもそも足を洗ったといっても、今までどんな生活をしてきたのか分かったものではなかったし、もしかしらた人を殺したことすらもあるかもしれない。しかし、結局最後までこの城に残った使用人はエミリーの他はジェフリーだけだった。
他の使用人達は、なにかにつけて出て行った。それもこれも、あの死を生む黒い魔の手から逃れるためだ。誰もがその手の届かない場所を目指し、遠くの田舎へ避難していったのだ。
黒い魔の手は海からやってくる。エミリーはそう考えていた。ポセイドンの怒りに触れたのか、魔物レヴィアタンの呪いか、でも確実に港のほうから迫ってきたとエミリーは確信していた。すべての事象を黒く塗りつぶすほどの暗黒の手。悪魔の手だ。悪魔の手の進行は今やヨーロッパ全土にまで広がっていた。誰もが逃げるように町から遠のいて、内陸の田舎を目指した。ジェフリーはもともと天涯孤独だし、エミリーも年老いた母が一人、城下町に住んでいるだけだった。その母ももういない。「俺は、旦那様を裏切ることなんてできねえ。最後までここにいて、ここを守る」ジェフリーはそう言っていた。
確かにジェフリーは、コックというよりも殺し屋とか、用心棒とかそういった類の人種だった。そしてエミリーにも確固たる信念があった。エマを守るということだ。もちろん自分のおなかを痛めた子供ではない。しかし、もう十年も一緒にいる。エミリーはもともと、ある貴族の娘だったのだが、妾の子という理由から、その家系から除外された。それを城主が引き取ったのだ。エミリーは優秀な頭脳を持っていた。上層教育を他のどの兄弟よりも高い水準でやり遂げ、自分のものにした。運動能力も高く、ダンスの腕前も最高レベルだった。しかし、それをよく思わない者から貴族の権利をはく奪された。母と共に屋敷を追い出されたエミリーは、城主に拾われた。エミリーは侍女として働き、母と暮らすための家を城下にもらった。そしてエマが生まれた後は、エマの乳母と家庭教師として常にエマのそばについてその成長を間近に見てきた。
とにかくエマを最後まで守りたい。そう願っていた。しかし、エマもきっともうすでに悪魔の手にその心臓を握られている。今日それを確信した。それと共にエミリーも、自分のお腹に何か熱いものを感じていた。そして、時間が過ぎるにつれてそれは確信に変わっていく。間違いないこれは悪魔の仕業であると。そのしわだらけのどす黒い細く長い指は一本一本エミリーのやわらかい肌に、尖った長い爪を突き立て始めている。エミリーの無垢で純潔な体に爪を立て、白い肌から滴るその生き血をすする。耳は尖り、猿のように突き出した口には不揃いの長い牙がある。唇をすぼめるようにして、エミリーの生き血をすする。エミリーの皮膚なんてものは、その鋭利な爪にとって何の妨げにもならない。軽く触れるだけで穴が開き、そこから真っ赤な血がどくどくとあふれ出る。逃げることなんて出来ない。だれもその力に抗うことなど出来ない。絶望的な状況にあるということは、エミリーには十分わかっていた。
午前十時ごろ、城主の様子を確認するためにその部屋の扉を開けた。手には水差しとガーゼが乗った盆を持ち、ドアを閉めて中に入る。二、三歩歩いたところでエミリーの足は止まる。そこにあったはずの生気がなかった。朝はかろうじてあったはずのその生き物の気配はもうすでにそこにはなかった。そこにあるのはただの虚無な空間だった。
エミリーは歩みを進め、豪華な刺繍が施されたベッドに向かう。横たわる城主の傍らまで来て、城主に目線を向けたまま備え付けの小さなテーブルに持ってきた盆を置いた。そしてしゃがみ、城主の胸の白いシャツのボタンをひとつづつ外す。体中に大小の黒い斑点が浮き出ていた。不気味なほどくっきりと。
それはまるで城主の体の内側から生れ出た悪魔の手が、城主の体の中だけをぐちゃぐちゃにかき回した結果のようにエミリーには思えた。悪魔の手にかかった人間は皆、高熱が出るのだ。朝の時点でエミリーにはわかっていた。今朝の城主の体温は、ここまで人間は熱くなるのかと思うほどのものだった。母も同じだった。そこまでなるともう意識は全くなかった。もはや死んでいるのか生きているかすらわかない状態。だからこそエミリーは、城主が今日亡くなるとわかっていたのだった。
カーテンを閉め切った暗い部屋に、うっすらと肖像画が見える。城主と妃が手を取りあって描かれている。妃はエマが生まれて一年後になくなった。エマを産んだ後、産後の回復が遅く、そのまま体調を崩した。もともとそこまで丈夫な人ではなかったが、起き上がれない日が多くなり、一年間そういったことを繰り返した後、そのまま亡くなった。安らかな死だった。その時はとても悲しかった。妃はとても優しい人だった。貴族も平民も分け隔てなく接するような人だった。エミリーは妃に高価なブローチをもらったこともあった。妃はまるで自分の子供のようにエミリーのことを可愛がった。亡くなった時は本当に悲しくて、数か月は立ち直れなかった。しかし、今になって思うのは、妃が安らかに行けて本当に良かったということだった。
部屋はとても静まり返っていて、ほこりをかぶった化粧台、キャビネット、タンス、その全ては最後の主を失って無言のまま佇み、その死を悼んでいるかのように思えた。エミリーは開いたままになっている城主の眼球を見つめた。そこにはもう何も映っていない。エミリーは城主のまぶたにそっと手を置いて、ゆっくりと閉じた。