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エミリー

 世界は黒くうごめいていた。生気を帯びた人々はどんどんと黒く染まっていき、やがて動かなくなった。華やかだった街は太陽の光すら届かないほどの真っ暗な濃墨(こずみ)の世界へと変わっていった。黒く不気味な得体のしれないものが――そうさせたのだった。この白く磨かれたレンガ造りの城もやがてその闇へと落ちていくに違いない。庭木は手入れをされずに不規則な形に変形し、庭の芝生は伸び、雑草が生えている。城の庭に人気は全くない。空にはこの国の行く末を表しているかのような重く垂れさがった暗雲がひろがり、華やかだったつい数か月前までの光景は嘘のように感じる。エマ・ブリスティアンはその小さな手を窓ガラスにかけ、高い階層から外界を見ていた。彼女は十歳になったその年に、この窓へやっと届く背丈になった。黒く染まっていく恐ろしい世界にいつ自分が食べられてしまうのかと、怖くてしょうがなかった。

「お嬢様。危ないですよ。そんなに覗かれては、こちらへお下がりください」

きらびやかな装飾とベルベットのじゅうたんが敷き詰められた廊下に、透き通ったソプラノの声が響いた。

「ああ、エミリー。いったいどうなってしまうのでしょうか?」

 エマはそう言った。その声は力なく、そして小さく震えている。エミリーは、この幼き小さな体が必死にその恐怖に耐えていることを悟った。

「お嬢様。安心してください。今外は大変な事態になっておりますが。このお城は安全です。お嬢様も外に出なければ大丈夫です」

「本当?」

 エマは、エミリーの優しく諭す言い方に心底安心する。エミリーの言葉が間違っていたことなど、今までなかったからだ。エマは傍らに抱いている人形を強く握る。そして、歩み寄りエミリーの白いエプロンがかかった衣服に抱き着く。上質な絹の柔らかな質感を頬に感じ、それと同時にローズマリーの香りがした。その匂いは、エマがいつも嗅いでいるエミリーの匂いだ。城内で栽培しているローズマリーの手入れをしているエミリーの姿がエマの脳裏に浮かんだ。エミリーはエマが生まれてからずっと乳母としてそばにいた。今やその存在は父よりも大きいものとなっていた。エミリーはしゃがんでエマの頭をそっと抱えゆっくりと撫でた。

「エマ様。そのように強く握っては英雄トマスが痛がりはしませんか?」

 エマの小さな手が、軍服と王冠をかぶった青い目の人形をへこませていた。

「ああ、ごめん。トマ。痛い?」

 エマが人形を両手で持ち、その顔を見て言った。

「エマ様、大丈夫ですよ。英雄トマスは、すごく強いんですから。トマスも大丈夫だと言っています。そのような事ではどうともありません。世界を救った英雄です。彼がいる限りエマ様は安心ですね」

 エミリーはそういうと、エマの顔を見て優しく微笑み、さらに深く抱きしめた。

 しかし、エミリーの心は緊張と不安でいっぱいだった。状況は切迫していた。暗闇は心に深く致命的な傷を刻み、その傷口はどんどんと侵食されていた。町では、早く逃げるようにと住民達が騒いでいる。知人も何人も死んだ。そしてたった一人の肉親だった母も死んだ。エミリーは、城主のことを思う。

(旦那様も同じ症状だ。たぶんもう長くはない。あのまま放っておけば皮膚に黒い斑点が浮き上がり、死んでいく。呪いなのだ。きっとこれは、神の怒りに触れた我々に対する呪いに違いない)

 お城の門の前には数人の人間がさまよい歩いている。熱に侵されているのか、わけのわからない言葉を発しながら歩き、時には半狂乱で暴れている。座り込んでいる人間もいる。何人も何十人、何百人も、街には力なく座ったり倒れたりする者たちが溢れていた。あるところでは、家屋から火の手が上がり、そして悲鳴のように泣き叫ぶ声が聞こえた。そして町中には黒ずくめの覆面をした男たちが歩き回っている姿も見える。占星術でこの事態を収めようとする者たちだ。

 そこにあるのはただの死だった。そして、それらは誰にでも均等に配分されており、生と結びついて一緒に手渡される死だった。生まれるという事象が生じると同時に生成される。そしてそれは、無慈悲で残酷で、どんなに善行を積もうが情けをかけてはくれなかった。

(教会は、良いことをすればよいことが返ってくると言うが、それなら、あんなにいい人だったパン屋のウィリアムスも、花屋のマティルダも若くして死ぬはずはない)

 エミリーはそう思った。今や、この国の半数が死亡している。小さな領土だ。崩壊はすでに時間の問題だった。エミリーが顔をしかめていると、小さくか細い声が響く。

「お父様はもうよくなったかしら」

 エマはエミリーに聞いた。エミリーは慌てて顔の緊張を緩める。

「はい。まだ完全にはよくなっておりませんが、もうすぐ元気になるはずです。その兆しが見えていますから」

 エミリーは満面の笑みでそう言った。しかしエミリーの頭の中では、城主はもう助からない事を理解していた。しかし今ここで、城主が助からないことをこの小さなエマに伝えることなど到底できるはずもない。それだけは絶対にだめだ。エミリーはそう思う。そして、エミリーの感覚が正しければ、エマもうすぐ同じ症状になる。抱きかかえたエマの体温が通常よりも高かったことをエミリーはすぐに気が付いた。


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