Ⅰ
集落で零細農業を営む羅にとっては、ダム作りなんて想像の範囲外の行為であった。
コンクリートとやらで水をせき止める壁を作るのかと思いきや、今回のダムでは使わないらしい。
江が八田に、「どうしてコンクリートを使わないんですか?」と聞いてみたところ、地震でコンクリートに亀裂が入ってしまうと、ダムが崩壊する危険性があるから使わない、とのことだった。
代わりに、砂利や石っころで水をせき止めるとのことだ。
鳥山頭から十数キロメートルの距離に、大内庄の河原があり、そこから砂利を持ってきている。
素人の考えだと、砂利なんかで壁を作っても、水に流されてしまうのではないかと思ってしまう。
羅や多くの労働者は「お偉いさんが指示出しているのだから、石っころでも水をせき止められるのだろう」と思い、深く考えたりはしない。
けれど、好奇心が強い江はあれやこれやと疑問をぶつけてきた。
作業の疲れでウトウトとしていた羅に、江は目をキラキラ輝かせて説明しだした。
「いわく、セミ・ハイドロリックフィル工法なんです」
「せみ……?」
「はい! 土砂をたくさん積んでいますよね? そこに、水を噴射するんです!」
「はあ……。なんでまたそんなことをするんだ?」
「例えば、石や砂がまじった土に水をかけると、まず流れていくのは粒の小さい砂ですよね? その原理を利用して、粒の小さい粘土を沈殿させるんです!」
「粘土? 粘土なんかどこにあるんだ?」
「毎日せっせと積み上げた土砂の成分に含まれていますよ!」
「はあ、そうだったのか……」
「それでそれで! 粘土が水を含んでしっかりと固まりますよね? そしたら、次に粒の大きい土砂が粘土を守るように覆ってくれるんです! それが層をなして、頑丈な壁が出来上がるんです!」
「……なるほど」
羅は江がいつもするように、ことわざまじりで褒める。
「江はあれだな、おなかのなかは漢字でいっぱい、ってやつだな」
「えへへ、兄貴にそう言ってもらえると嬉しいです!」
そんな話をしていると、他作業員から下流部のトンネル堀り作業で人が足りないので、加勢してほしいとお願いされた。
江も行こうとするが、作業員は笑って断る。
「お前にトンネルの作業は任せられねえよ。そこらでくたばっちまっても助けなくてもいいなら、付いてきていいぞ」
「ぐ、ぐぬぬ……」
言い方は少々あれだが、江の体力では過酷なトンネル作業は厳しいのは事実だ。
羅は江の肩をぽんぽんと叩く。
「んじゃ、行ってくる」
「ぐぬう……。いってらっしゃいです……」
軽く飯をとってから、トンネルの現場へと向かう。
平地での水路作成業務とは異なり、トンネル内は危険と隣り合わせの作業である。
それ故、慎重な作業が要求される。
ただ掘って進むだけでは、湧き水や土の圧力によって崩れてしまうおそれがある。
そのため、掘った先から、コンクリートをふきつける。
コンクリートさえも崩しかねない箇所には、日本から持ち込まれた松の丸太材を組む。
慎重な作業が終われば、休憩の時間だ。
作業員の一人が、肩をすくめて水を飲む。
「今朝、八田の姿を見たんだが、めちゃくちゃ機嫌が悪そうだったぞ。なんだろうな、奥さんと喧嘩でもしたのか?」
他の作業員が肘で小突く。
「お前ん所の夫婦とは違って、あの二人は仲良しだぞ。んなことねえって」
「なら、なんでだろうなあ。日本の官僚からごちゃごちゃいわれたか?」
どれも間違いだ。
羅は誇らしげに胸を張った。
「すまんな。俺のせいだ。昨日、八田と賭け事をやったんだが、ついついこてんぱんにやっつけてしまってな。それで機嫌が悪いんだろう」
羅は楽しげに昨夜の勝負を思い出す。
八田は賭け事好きで、作業員と一緒に麻雀を囲んでいた。
八田の実力もかなりのものだが、昨夜は羅に大敗を許してしまった。
髪の毛をぐにゃぐにゃとねじりながら長考している様と、それでいて負けて顔を真っ赤にさせて再戦を要求するさまを思い出すと、ついつい笑みがもれてしまう。
二人の作業員は納得して頷く。
「ははあ、なるほど。そりゃ機嫌も悪くなるな」
「あの人、負けず嫌いだからな」
作業員がニヤリと笑いをする。
「この前麻雀していたら、八田さんが来てな。とっとと終わらせようと適当な手で勝負したら、急に怒り出してな。そんなのではだめだ、こうしろ! って指示してくるから困ったもんだよ」
「違いないな」
羅も作業員も、穏やかに笑い合う。
八田への信頼は、一作業員の間にも広まっていた。
トンネルのなかは、当然ではあるが、太陽の光が届かない。
暗い中、ランプの灯りがぼんやりと作業員たちを照らす。
「おっと、灯りが消えそうだな」
作業員は油をそそぐ。
小さな炎が力強く燃え盛る。
「そういえば、前にめちゃくちゃ危ないことがあってな。トンネルを掘っているときに、ガスが出たんだよ、ガス」
作業員の一人が、世間話のような気軽さで言う。
「ガス?」
「そうそう。火がつくと爆発するガス。出るかもしれないって注意うけただろ? あれが出たんだよ。まあそんときは火が近くになかったから事故にならなかったけどな」
「……」
羅は前に八田がぶつぶつ話していたことを思い出す。
鳥山嶺には石油層が数本走っている、と。
「それは、誰かに報告したのか?」
「してないしてない。何もなかったのに、いちいち話しにいかないって」
「……」
羅はどこかに監督者がいないか目を走らせる。
そのとき、だった。
ガスの嫌な匂いが、どこかから漂ってきた。
ランプの炎が、一気に膨れ上がり、
轟音と灼熱が、羅の五感の全てを奪い取った。