四
羅は仕事こそ真面目にやっているものの、頭のなかではある日本人、八田與一のことでいっぱいだった。
八田與一は、……一生懸命だった
今日も今日とて、八田は工事の進捗を確認しに、馬を走らせている。
八田ほどの偉い立場なら、部下でも派遣して報告させれば良いにもかかわらず、それをよしとしない。
夜遅くまで帰らず、朝も早くに起きて現場を視察する。
たまに軽く仮眠だけ取って、また動く。
本物の熱意がないと、ああまで動けない。
けれど、江のように素直に八田はすごい奴だと受け入れることはできない。
そんなことをしてしまえば、命をかけて日本人を追い出そうとした羅の両親が浮かばれないではないか。
よその部族と差別され、姉と二人きりで耐え忍んだあの日々も否定されてしまうと、そう思ってしまった。
仕事は困難を極め、体力が削られ、精神的にも不安定になっていった。
姉の美琴や江が心配してくれるも、羅の精神状態は悪化をたどる一方だった。
病は気から、なんてことわざがある。泣きっ面に蜂なんてことわざもある。
羅は二つのことわざを体現する羽目になった。
朝、起きると、体はだるくてしかたない。
体を引きずって外に出ようとする彼を、美琴が慌てて制する。
「ちょっと待ちなさい。顔、真っ赤よ? 熱でもあるの?」
美琴はおでこをくっつけてきた。
普段なら「子供みたいな真似はやめろ」と追い払うが、それすらもできないほどに気だるかった。
「わあ! すごい熱よ! 病院にいきましょう」
「断る。仕事にいく」
「だめ。病院にいきなさい」
問答無用で引っ張っていく。
「ただの風邪ならいいんだけど……」
美琴は不安そうにため息をついた。
しかし、ただの風邪程度では、頑丈な羅は熱を出してぶっ倒れやしない。
美琴の嫌な予感は、あたってしまった。
美琴は江を連れて、医者のもとを訪れる。
医者から告げられたのは、羅からマラリアの陽性反応が出たという知らせだった。
マラリアは凶暴な病で、羅たちが住んでいた集落でも、これが原因で死亡する人が毎年一人は出ていた。
「そんな……」
美琴は涙を流し、顔を覆う。
江はすがるように医者に尋ねる。
「治る見込みはっ、あるんですかっ!」
「安心してください。本病院には、マラリアの特効薬が常備しています。これさえ飲めば、死亡率は格段に下がりますよ」
「本当ですか!」
よかったと江は肩を下ろす。
ただし、といって、医者は肩を竦める。
「特効薬は副作用がかなり強く、頭痛や吐き気に襲われてしまいます。患者さんは辛いでしょうが、飲み続ければ良くなりますので、根気よく説得してください」
治るのならば、副作用が強くても仕方ない。死ぬよりは何十倍もマシである。
美琴は涙を拭い、頭を下げる。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます」
薬をもらい、羅の待つ家に帰宅する。
「本当に良かった。薬さえ飲めば、マラリアも治るのね」
ボロボロと涙がこぼれていく。
今度の涙は、嬉し涙だ。
美琴にとっても、羅は唯一残された家族である。失いたくはない。
江は元気づけようと、美琴の肩をぽんぽんと叩く。
「ええ、兄貴は頑丈ですからね! 薬さえ飲んでたっぷり寝れば、きっと、いや、絶対に良くなりますよ!」
「ふふっ、そうね」
美琴は涙をぬぐう。
「一緒に来てくれてありがとう。江がいなかったら、私、お医者さんの話をしっかり聞けなかったかもしれない」
好きな女性に涙目で笑いかけられ、平常心でいられる男はいまい。
江は耳まで真っ赤になって、視線を泳がせる。
「ま、まあ、このくらい、どうってことないですよ! そ、それより早く兄貴に薬を渡さないと」
「ええ、そうね」
二人は和やかに帰宅する。
薬と休息さえあれば、羅ほどの男ならすぐに完治すると、二人は安堵していた。
まさか、病人本人が薬を飲みたくないと駄々をこねるとは、想像だにしなかった。
初日こそ素直に飲んだものの、二日目になると、羅は服薬を頑固に拒否した。
「こんな毒薬飲めるかっ!」
それもこれも、副作用があまりに強烈であったからだった。
薬を飲んだあと、羅は割れんばかりの頭の痛みに襲われた。
痛みでのたうち回り、それが収まったとおもえば、バケツを抱えて胃の中のもの全て吐き出してしまう始末。
もうあんな苦しみを味わいたくないと、羅は服薬を拒否した。
美琴が「飲みなさい!」と叱っても、江が「生きている乞食は、死んだ高知恵よりも値打ちがあるってことわざがあるんですよ!」と説得しても、頑として飲まなかった。
江は覚悟を決める。
「こうなったら力ずくで飲ませます」
「やれるもんならやってみろ!!」
「兄貴といえども、今は病人! 抑え込んでやります!」
結果は一目瞭然。
江は呆気なくはじきとばされてしまった。
「ひえ、兄貴、馬鹿力すごすぎますよ!」
「黙れ! 誰がなんと言おうとも、飲んでたまるか!!」
美琴は江に指示をだす。
「誰か呼んできて、抑えてもらいましょう!」
「分かりました!」
急いで扉を開けて飛び出すも、扉のすぐ前にいた人とぶつかりそうになった。
「わあっ! す、すみません!」
反射的に謝って顔を見上げる。
「は、八田さん!?」
「やあ、江君。……その様子だと、羅君はまだ薬を飲んでいないのか」
「そうなんです! 八田さん、どうかお手伝いください」
羅は犬のようにきゃんきゃんと吠える。
「お偉いさんが一労働者の服薬補助なんかするわけねえだろ! とっとと追い出せ!」
八田は深くため息を付く
「全く……。羅君、君は私のことを誤解している」
美琴から薬を受け取ると、八田は力ずくで薬を羅の口の中に放り込んだ。
羅はすぐに吐き出した。
しかし八田も薬を拾うと、また口にねじ込む。
不機嫌そうに八田はギロリと睨む。
「現場にいる限り、日本人も台湾人も、それこそ原住民でも違いはない。ともに働く仲間だ」
「っ、」
「分かったら、とっとと飲め! じゃないと首にするぞ!」
こんなもの飲むくらいなら本当に辞めてやってもいい、だとか。
自分がいなくても、もっと使えるやつを雇えばいいだろう、とか。
……そんな文句を言えなかったのは、口を塞がれていたせいだけではなかった。
「……」
羅は、ようやく理解した。
八田與一という男は、本気で嘉南平原を水にあふれた土地にしようとしている。
育った集落で爪弾きにされるような、些末な労働者も気をくばるほど、本気で。
そして羅は、
こくりと、薬を飲み込んだ。
あれから数日間、八田は羅が薬を飲んでいるか確認しに家に訪れた。
美琴が「お忙しいのですから、看病は私にお任せください」と遠慮しても、頻繁に顔を出す。
聞くところによると、マラリアにかかった他の労働者のところにも巡回し、薬を飲むまで頑固に粘っていたとのことだ。
「おかしなやつだな、あの男は」
羅が笑うと、江は驚いて目をぱちくりさせたあと、にっこりと笑った。
「ですね! おかげで、兄貴がこんなにも元気になってくれました!」
美琴もうんうんと頷く。
「明日から仕事に復帰できるんでしょ? よかった、一時はどうなるかと……」
「心配かけさせてすまないな」
羅は大きく伸びをする。
羅の日本人嫌いはまだ健在であった。
けれど、八田與一は、……信頼できる男だと、心の底から感じはじめていた。
「さてと。八田様のために、今日も働くぞ」
皮肉っぽい言葉には、悪意はひとかけらも存在していなかった。