一
ときが流れ、灌漑施設工事の初日。
羅は二人をつれて宿舎へと向かっていた。
一人は、農作業があまりにできず、家族から厄介払いされてしまった江英文。
そして、もう一人が……。
「本当に私も宿舎で生活していいのかしら?」
羅の姉、美琴だった。
江はほんのり頬を赤らめて、どもりぎみに答える。
「た、確かにそう書いていますよ! 家族も同伴してもよいと」
工事は年単位で行われる。現場に直行できるよう、作業員は宿舎での生活が強制されている。
どうせ台湾の人間を差別している外来人のことだ、休みもなく、一年中働かされ、姉と会える日もなくなってしまうと覚悟を決めていた。
しかし、工事の案内には、家族の同伴を認めると記載していたのだ。
聞いた話によると、あの髪の毛ねじり男、八田與一の提案らしい。
いわく、家族がそばにいると、作業効率があがるだとか。
八田與一本人も、日本本土から妻を呼んでいるらしい。
外人嫌いの羅も、これにはさすがに文句はいわなかった。
姉の安全な姿を目にできるのならば、例えどんな苦役でも甘んじて受け入れるつもりであった。
ただし、捻くれ者の羅は素直に喜びやしなかった。
「けっ、どうせオンボロ宿舎に決まっている。美琴、隙間風で風邪でもひいたら、すぐに俺に知らせろ。工事なんてほっぽいて、看病してやる」
精一杯の強がりだが、美琴は笑って返す。
「わたしたちの住んでいる家よりも隙間風が吹く家なんて中々ないわよ」
「……外で雑魚寝させられるかもしれねえぞ」
もちろん、そんなことはなかった。
美琴は目を輝かせて宿舎を見つめる。
「わあ! こんな素敵な場所に住めるの!?」
宿舎は隙間風なんて無縁な、新築の建物であった。
家の前に立っているだけなのに、木の匂いがふんわりと漂ってくる。
「集落のどの家よりも立派よ!」
「……ふん、当たり前だ。こっちは日本様のために工事をしてやっている立場だ。住む場所くらいしっかりとしてなくちゃ暴動を起こす」
江がくいくいと羅の袖を引っ張る。
「兄貴兄貴! あそこあそこ!」
「なんだ、騒がしい」
「あそこ、病院らしいですよ!」
「びょ、病院!? ま、まあ、工事で事故が起きて怪我でもされたら、動ける人数が減るからな。とっとと治して働かせるための病院だな」
きゃあきゃあと子どもたちが走っていくのが見えた。
「なんだあのガキ。あんな小さい奴も工事に使うのか?」
「兄貴、あの子たちは工事に参加する人たちの子供らしいですよ」
「こ、子供も同伴可能なのか」
「みたいですよ!」
引率の大人が、ある建物を指出す。
「ここがみんなの学校よ。お父さんが働いている間、みんなはここで一生懸命勉強しましょうね」
子どもたちは元気よく「はーい!」と返事をした。
「……学校まであるのか。……いや、子供をほっぽいても、悪さをするだけだ。面倒な子供を一つに集めるに学校なんてものを作ったに違いない」
「わあ! 兄貴! 見てくださいあそこ!」
「なんだ。騒がしい」
「あそこ! プールがありますよ!」
「ぷ、プール!?」
「『てにすこーと』っていう施設もあるらしいですけど、『てにす』ってなんだろうなあ。聞いたことないなあ」
「て、てにすこーと……」
美琴がきゃあ、と歓声をあげた。
「清芳! あそこにお店があるわよ。雑巾に剃刀、お洋服も買えるみたい!」
「お店……」
「兄貴兄貴、娯楽クラブってところでは、将棋、囲碁、麻雀ができるって言ってました! 兄貴、麻雀好きですもんね! やりましたね!」
「麻雀……」
「清芳清芳! 今日の夜、あそこの舞台で芝居をやるみたいよ! 最前列で見ないと!」
「舞台……」
江も舞台と聞いて飛び上がる。
「わあ、舞台なんて初めて見ますよ! いの一番に並びましょうね!」
「ええ! いい席とらないと!!」
興奮のあまり、江と美琴の二人は急接近してしまった。ふたりともハッと驚き、顔を赤くさせて目をそらす。
「と、ともかく、荷下ろししないといけないわね」
「そ、そうっすね! 目は餅を見て、足は火を踏む羽目になりかねないですね。つまりは、夢中になっていると危ないですから……」
散々見飽きている二人の反応なんて、羅の目には一切入らなかった。
ただただ、工事の人間を使役するにしては豪華な施設の数々を、呆然と眺めることしかできなかった。