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羅は集落から離れて、地元の人間でさえ立ち入らない、険しい斜面を登る。
羅は両親の顔を覚えていない。
物心つくまえに、両親と死に別れてしまった。
姉はおぼろげながら記憶にあるといっているが、両親がどこの部族の人間だったかまでは分からない。
羅姉弟は、両親の故郷にさえも頼れず、集落の意向を丸々飲み込まなくてはならないのだ。
現実は理解していた。
それでも、羅は姉のように不条理をすんなり受け入れられなかった。
かといって、集落を離れるつもりはない。病を患った姉は遠くまで歩けないし、そもそも拾ってもらった恩をないがしろにしたくない。
姉を置いて自分だけ逃げる、なんて発想は、はなから抱いていなかった。
どうしようもなくムシャクシャした気持ちを解消するために、彼はよく山へと向かう。
原住民族は外からやってきた大陸の人間に追われ、山間に暮らしている。
両親がいた部族こそわからないが、彼にとって、両親の面影を見出す場所は山であった。
集落近くにある山には原住民族が住んでいない。
けれど、鳥のさえずりに耳をかたむけ、風にたゆたう木の葉を眺めると、沸騰していた血が落ち着いていくのだ。
もう少しいけば、腰掛けるのにちょうどいい石が転がっている。
自然と歩く速度が早くなる。
しかし、ここで予想外のことがおきた。
彼のとっておきの場所に、先客がいたのだ。
しかも、その男は、いまいましい諸悪の根源であった。
いつかの日に我が家を訪れ、水がほしいと要求してきた日本人、八田與一がそこに座っていた。
地べたに座り込み、羅がよく腰掛ける石に地図を広げ、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。
あたりには、彼の荷物であろうか、一見して重量がありそうなテントに、食料品をつめているリュックサックが放り出されていた。
どう考えても一人で持ってきた荷物とは思えないが、周りに気配はない。
体力自慢の羅でさえ、この荷物をもって山を登るのは骨が折れる。もし江ならば、十歩歩いて音を上げよう。
じろじろと見ていると、気配に気づいたのか、八田が顔をあげる。
「ああ、君は確かいつぞやの集落にいた……」
「こんなところで何をしている?」
「ダムの計画を詰めているところだ」
「はっ、計画をつめるねえ……。それで? ご加減はおいかがでしょうか先生様? 大風呂敷はたためそうですか」
「今、それを考えているところだ。邪魔しないでくれ」
ギロリと睨み、八田は片手で髪の毛を掴むと、ぐにゃりぐにゃりと髪の毛をねじる。
地図に視線を移すと、また独り言をつぶやいた。
「亀重渓は思ったほど貯水量がとれない。水源にはできないな。濁水渓から水路で直接導水しよう。烏山頭にダムを作り、曽文渓支流の官田渓の上流にダムを築いて貯水する。これを嘉南平原に流す。これで、約五万ヘクタールの農地に水がいくが、それだけでは十万ヘクタール足りない、か……」
地名こそわかるが、ヘクタールだのなんだのといった単語はまるで分からない。
ただし、八田の計画がいまいち進んでいないことだけは理解できた。
羅は不器用だが優しい人なので、不機嫌をむやみやたらに他人にぶつけたりはしない。
だが、八田の場合は、羅にダム工事をやらせる悪人であり、羅のお気に入りの休憩場夜を占拠している。
羅は苛立ちを目の前の男にぶつける。
「いいか、どうせ外来人のことだから、村の金を回収してトンズラするつもりだろうが、そうはさせねえぞ」
「……」
八田は無言を貫く。
正確にいうと、八田の耳には羅の挑発は届いていない。地図とにらめっこして、考えにふけっている。
聞いていないことは察していたが、今更引っ込めない。羅は精一杯の嫌味を言う。
「そんなに水に執着しているなら、鳥山嶺のてっぺんから曽文溪かに飛び込めばいい。何万へくたーなんちゃらは無理でも、お前の小さい体には水がたっぷりはい」
「曽文溪!?」
ぎょろりとした目が羅に向く。
思わず羅は後ろに下がる。
「な、なんだよ」
「そうだ、鳥山嶺の向こう側には、曽文溪の本流が流れていた」
曽文渓とは、全長138キロメートルと、台湾第四の長さを誇る川である。
年間平均の総流量が約12億トンである。
八田は宝物を見つけた子どものように目を輝かせる。
「嘉南平野全体に水を行き渡らせるには、水量が足りなかった。だが、豊かな水量の曽文溪の水をダムに引き込んだらいけるぞ!」
「お、おい、待て待て。曽文溪の水を嘉南平原に流すつもりか?」
「ああ!」
「つっても、曽文溪の本流は、鳥山嶺の向こう側だぞ? 山でも崩して水を通すつもりか?」
「いや、くずさない、トンネルを掘る」
「と、トンネル……?」
「あの山の地層には石油層が数本走っていてリスクはあるが、曽文溪の水をダムに導水するには、鳥山嶺より他に適地はない」
八田は慌てた様子で荷物をまとめると、一人で全てを背負う。
「そうと決まれば、計測をしなくては」
八田は地図を手にする。
よくよく見ると、地図はおんぼろで、ところどころ補強したあとがあった。
羅に挨拶もせず、八田は力強い歩みで山を登っていった。
「……なんだ、あいつ……」
八田が消えていった山道を、羅は呆然と眺めていた。
困惑する彼の胸中には、いつのまにか、工事に参加させられる怒りが小さくなっていた。