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しめて、歩くこと四時間。
ようやく集落に戻ってきた。近隣に住む人達に水を配り、最後の最後に羅の家へと向かう。
桶の中の水は大分なくなってしまっている。羅と姉の二人分と考えても、少々足りないくらいだ。
それでも、羅は文句をいわない。彼はもともと集落生まれの人間ではない。拾われ、育ててもらっているのだ。文句を言える立場ではない。
羅自身は不平等な扱いに慣れっこだったが、弟分の江は気まずそうに視線をそらしている。
「……家を買うのは、隣近所を買うこと、ってことわざがあるんす。隣近所が悪ければ、家を買うのも諦めるって意味でして。……本当に、ここの人たちはわるいひとばかり……っすね」
「見ず知らずの俺ら姉弟を育ててくれたんだ。悪い人ではない」
「……そうですけど……」
江は桶の中身を見つめ、肩を落とす。
くよくよしたってどうしようもない。羅は江を軽く叩いて慰め、家へと向かう。
江は優しいながら現金な男の子で、羅の家に近づくにつれ、そわそわと落ち着きがなくなった。
「美琴さん、首を長くして待っていますかね!」
「……さあな」
「この前は会えなかったから、今日は会えると良いですけどねえ」
「……そうだな」
適当に相槌をして家へと向かう。
集落から少し離れたオンボロ家が、彼と姉の住まいだった。
いつものように建付けの悪い扉を開けようとして、ふと、羅は違和感を覚えて立ち止まった。
扉のわきに、見慣れないヤカンが置いてあるのだ。
他の家の人間が出入りしているのか。いや、わざわざヤカンをもってくる意味はない。そもそも羅の家には余分な水などないのだから。
羅を野生で生きる逞しい一匹狼と例えるのならば、江は人間に愛されて警戒心のかけらもなくなった子犬であった。
いや、美しい毛並みの黒猫に魅了された、若い黒犬と例えるべきか。
ヤカンに目もくれず、兄貴分の羅がついてこないことにも気づかず、意気揚々と家の中に入る。
「美琴さん! 帰ってきましたよ! って、誰ですかあなた!!」
驚愕する江に、羅は弾かれたように家に入った。
部屋の中には、薄汚れた男が我が物顔で座っていた。
年は羅と同じくらい、二十代後半から三十代前半であろう。
山でも分け入ったのか、服は葉っぱや土で汚れている。どこぞの浮浪者のような見た目だが、身につけている衣類は頑丈で穴も空いていない。
羅も羅でむっつりとしているが、その男も引けを取らないむっつりさだ。
そばで姉の美琴が笑みを浮かべていなければ、さては喧嘩でもしてきたかと誤解していまだろう。
「あら、おかえりなさい!」
脅されている様子もなく、朗らかに微笑む。
とりあえず、姉の身の安全を確認できて、羅はほっと息をつく。
ただし、密かに恋する江にとっては、好いている女性のそばにいる男は敵そのものである。
怯えながらも、精一杯の威嚇をする。
「ど、どこから来たんですか! 何者ですかっ!」
男に代わって、美琴が答える。
「この人、ヤカンにお水を分けてほしいんですって。少し分けてあげましょうよ」
「八田與一です。よろしくお願いします」
八田はぺこりと頭を下げる。
「……お前、日本人か?」
「ああ、そうだ」
血液に宿る憎悪が全身を駆け巡る。培った感情を制御せず、眼の前の日本人に叩きつける。
「いいか、日本人。お前らにやる水はねえ。とっとと帰りやがれ」
「こら、清芳! 日本人でもなんでも、困っている人がいたら助けてあげないと」
「姉さんも姉さんだ。日本人だと知ってなんでこんなやつを招いた!」
江がおろおろと美琴と羅の間を行ったり来たりする。
八田は自分が招かれざる客と察したらしい。湯呑みをそっと置くと、立ち上がる。
「失礼しました」
「あ、お水は」
「いえ、結構です」
じっと八田はこちらを見つめる。
喧嘩でも売るつもりなら、言い値で買おう。
一歩歩く羅。だがしかし、八田の視線は動かない。
彼が見ていたのは、ほんの僅かの水しか残っていない水桶だった。
「しかし、本当に水が枯渇しているのだな。日本で例えると香川県ほどの広さの平原にも関わらず、水がないせいで不毛の地となってしまっている。そう、逆に言うのなら、水さえあれば、嘉南平原は作物に溢れた土地となる」
「ほお、日本人様は無から水源を作る妖術使いだったか。なら、とっとと水場を作って欲しいものだ」
羅の挑発に、八田は単に首を横に振るだけだ。
「いや、違う。私は嘉南平原に灌漑施設を作る計画をしている」
「かんがい?」
なんじゃそりゃと首を傾げる。
そそっと江が耳打ちする。
「ダムを作って水をためて、水路で各地域に供給する施設のことです。ただ、ここらの地域では灌漑施設なんて作れないっていわれていますよ」
無作法にも、八田は聞き耳を立てていて、俺等の会話に勝手に入ってくる。
「ああ、かなり難しい。雨季の雨量が季節によって一定ではなく、河の水量にも地域差がある。だが、最新の土木知識をふんだんに使い、入念に計測を進めれば出来ると踏んでいる」
江は目を輝かせる。
「へえ! そしたら、売値が高い米も作れるようになりますね!」
まんまと日本人に乗せられてしまっている。
羅はよく言えば無邪気、悪く言えば単純な江をぽかりと殴る。
「うぎゃ! なにするんですか!」
「よく考えてみろ。どうせ金だけ取られて終わりに決まってる。なんなら、水を枯らしちまうかもしれないぞ」
日本人にとっては、この土地は体の良い実験場だ。
たとえ失敗して、抗議活動が起こっても、武力で抑えれば事足りる。
羅は八田を含めた日本人全員を信用できなかった。
しかし、八田は疑心を向けられても態度は変わらず、堂々と胸を張っている。
「確かに、少ない水源を一部の嘉義平野につかえば、残りの平野は不毛の地になる。だが、その手法は使わない。嘉義と台南の平野全体を灌漑してみせよう」
ちらりと、八田は姉を見る。
「でないと、お姉さんの病気も治らない」
羅にとっては、その一言は逆鱗以外の何者でもなかった。
空っぽになった水桶をやつの足元に叩きつける。
姉の怒る声をかきけす声量で、羅はどなった。
「とっとと出ていけ日本人!!!」
◯◯◯
鳥脚病とは、井戸に混入したヒ素により、四肢が壊死する病である。
まだ姉は歩ける程度ではあるものの、これ以上進めば、足を切り落とすしかなくなる。
きれいな水さえふんだんに得られれば、姉の病の進行も遅くできる。
あの日本人、八田與一が言っていたように水が手に入る環境さえあれば、どんなにいいことか。
しかし、羅はもう現実をしっかり理解していた。
できっ来ない、と一言言うと、彼は乾燥しきった外気につばを吐いた。