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最終話

 関東大震災の余波がまだ続く中、八田與一は、工事期間を六年から十年に延長させた。


 その間に、日本が復興すると見越しての決断だった。

 

 八田の予想は見事にあたり、首都東京はたちまち復興をとげた。


 さらに八田はダム建設の低金利の資金も借り、二十五年の分割払いで返すととした。


 おかげで、農民の土地一ヘクタールにつき十円の徴収も、五円に収めることができた。


 工事は着々と進んでいき、


 ダムに水が流される日となった。


 江は他の作業員たちと一緒に、ダムの近辺で待機していた。


 江はついついそわそわしてしまう。


「うう、緊張するなあ。大丈夫って分かっているのに、緊張する……」

「ははっ、本当にだ」


 作業員の一人は、嬉しそうに目を細めてダムを見つめる。


「しかし、たがが砂利と土が、あんなに立派なダムになるとはなあ」


 例のセミ・ハイドロリックフィル工法により、ただの砂と土はしっかりとした壁へと変貌を遂げていた。


 伝令の人から、あと一分で水が流される、と連絡がいった。


 固唾をのんで、皆はトンネルを見つめる。


 トンネルの掘削作業で、作業員たちは少なくない数の仲間たちを失った。


 風も通らず灼熱地獄で、さらにマラリアの危険まである。


 それでも、彼らは掘り続けた。


「おい、あれを見ろ」


 作業員たちの血と汗が滲んだトンネルに、


 水が、流れてきたのだ。


「やった、成功した、やった!!!」


 われんばかりの歓声があふれる。


 水はゆっくりと四十日かけてダムを満たし、山の中腹までの水量を蓄えた。

 

 その水量、一億六千万トン。


 次の関門は、この水を平原に流すことだ。


 嘉南「平原」の名の通り、山を抜けると海岸まで凹凸の少ない土地が広がっている。


 水を流すには、若干の傾度が必要不可欠だ。


 しかし、八田は計測器を片手に平原を走り回り、細かく計算して水路を作り上げた。


 適切な努力をしたものに、自然法則は慈愛あふれる恩家を与える。


 ダムから放たれた水は、まず放水口の下の静水池に落ちて勢いを落とされる。


 分岐点を経て、南北の水路の双方へゆったり流れていく。


 水は三日をかけて、平原をのんびりと潤した。


 嘉南平原全体を灌漑する。


 そんな大風呂敷が、今まさに、大成功の中畳まれたのだった。


◯◯◯


 美琴は水をたっぷりのんで、ふう、と息をはく。


「こんなに美味しい水がすぐに飲めるなんて、ちょっと前なら信じられなかった」


 鳥脚病は慢性的な病のため、新鮮な水が来たからと言ってすぐに治るわけではない。


 けれど、悪化を止めることはできた。


 江はニコニコと微笑む。


「それもこれも、兄貴たちの頑張りのおかげですよ!」

「もう、あなたの頑張りもあったでしょ?」

 

 美琴は愛おしげに大きくなったお腹を撫でる。


「この子のためにも、もっと頑張ってくださいね、あなた?」


 まだまだ初な江は、顔を真赤にしながらも男らしく頷く。


「が、がんばります! たっぷり働いて、美琴さんと子供を楽させますから!」


 水が来たおかげで、米の収穫はダムを作る前の六倍、サトウキビは二倍にまでなった。


 負担金こそ取られるものの、それを割り引いてもあまりがでる。


 農業が下手くそな彼でも、今の嘉南平原なら戦力になる。


 それでも、江はある思いを抱えていた。


 まだ迷ってはいた。


 けれど、それも今日で終わりにしようと決意していた。


「では、美琴さん。兄貴の石碑を見に行ってきます」

「うん。お願いね。私も行きたかったけど、このお腹だとねえ……」

「美琴さんの分も、たっぷり見ておきます!」

「楽しみにしているわ」


 今日は、ある石碑がお披露目される日であった。


 向かうと、大勢の作業関係者たちが石碑を見に来ていた。


「俺の弟の名前もちゃんとあったぞ」

 

 作業員の一人が嬉しそうな、それでいて寂しそうな顔で笑う。


「あっちの世界で、元気にしているといいがなあ」


 江の順番が回ってきた。


 彼はひざまずき、石碑をさする。


 羅清芳の名前が、しっかりと刻まれていた。


 石碑には、工事の犠牲となった者たちの名前が残されている。


 日本人も台湾人も違いなく、亡くなった順に並んであった。

 

 普通なら、日本人を先、台湾人を後にしそうなものだ。


 八田與一たちは、それをよしとしなかったのだろう。


 羅の名前を指でさすり、両手をあわせる。

 

 次の人に譲り、ぼうっとしていると、八田與一の姿が目に入った。


「八田さん」

「ああ、江君か」

「よく名前を覚えていますね」

「記憶力はいいほうなんだ」


 江は深々と頭を下げる。


「改めてなんですか、嘉南平原を水であふれる土地にしてくれて、ありがとうございました」


 きっと、耳にタコが出来るほど聞いているお礼だろうが、八田は嬉しそうに頷いてくれる。


 江はお得意の方法で八田を褒める。


「分水嶺って言葉は日本にもありますか? いわゆる、運命の分かれ道! って意味なんですけど、嘉南平原の分水嶺は、八田與一さんが来てくれたことかもしれませんね」

「……いや、それは違うな」

「へ?」

 

 八田はにこやかに微笑む。


「私だけの意志なら、あのガス爆発でくじけていた。この計画が成功したのは、大切な友人や家族が亡くなっても、ダムを作りたい、灌漑を成功させいたいと願ってくれたおかげだ」

「……」


 最初こそ、無理やりに嘆願書を書かされてはじまった灌漑作業だった。


 けれど、八田さんたちの頑張りに触れていくうちに、本気になっていった。


 八田さん本人が気落ちしてしまっても、親しい人が亡くなっても、工事を続けさせてほしいと頭を下げるほどに。


 嘉南平原に住む台湾人のおかげで、嘉南平原の灌漑が成功したと、そう言ってもらえるのならば。


「八田さん。自分、もっと嘉南平原の農作業が効率よく出来るように、勉強しようと思います。生産性が上がれば、嘉南平原の住民たちはもっと楽ができます」


 その成功をさらに大きくするのも、江たちの役目である。


「そっか。なら、私が口添えをしよう」

「ありがとうございます!! あ、けど、その前に」


 江はぱちりとウインクをする。 


「八田さんの銅像を作らないとですね」

「……本気で作るつもりなのか」

「はい! もちろん! 他のみんなも、作りたいって言っていますよ!」

「……なら、威厳たっぷりの銅像はやめてくれ。私は技師だ。そんな銅像ふさわしくない」

「大丈夫です! 八田さんの銅像は、座像にするって決めています。八田さんらしさが伝わるように、髪の毛をぐにゃぐにゃする姿にする予定です!」

「ははっ、それは面白いな!」


 楽しく笑い合う、二人の同志。


 その後ろには、


 たっぷりの水が、たゆたっていた。


 

 

 


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