Ⅱ
どうか、どうか無事でいてください。
江は懸命にトンネルへと走る。
「江君!」
はっとして後ろを振り返ると、八田與一が馬に乗って走ってきた。
「八田さん! と、トンネルで、ば、爆発事故っ!」
「知っている! 下流部での爆発らしい!」
「か、下流部……」
確か、羅は下流部の作業に入っていた。
ならば、羅は……。
江の顔色が真っ青になる。
「は、八田さん、馬に、馬に乗せてください! 兄貴がっ!」
「分かった、乗れ!」
八田の馬に乗せてもらい、下流部方向の入口に到着する。
入口付近には、
……言及するのも避けたいほどに、最悪な状況だった。
真っ黒に焦げた死体に、わずかだけ動く重体者。
体の一部がただれ、苦痛の呻きを漏らす多くの人々。
その中に、
羅が、いた。
「兄貴……っ! 兄貴っ!」
羅の服は全て燃え、皮膚がただれている。
しかし幸いなことに意識はあるようで、江の呼びかけに応じる。
「……江、か……」
「兄貴! すぐに、すぐに手当をっ」
「……手当の前に、八田に、伝えてほしいことがある」
「八田さんなら、すぐそこにいます!」
「……いる、のか」
羅は懸命に目をこらす。
江が八田を呼び、すぐ近くに呼ぶも、羅は探す素振りを続ける。
目が見えていないのだ。
八田が声を掛けると、ようやく八田に視線を向ける。
「……八田。原因は、ガスだ。……ガスに、ランタンの火が、引火した。……以前から、ガスは出ていたが、バカどもは報告しなかったらしい……」
「……そうか……。……医者がすぐに来る。気を強く持て」
「はっ、そうだな。……こんなところで、……くたばるつもりはねえよ」
羅は優しく微笑み、目を閉じた。
すぐに大勢の医者がやってきて、怪我人の手当を行う。
しかし、間に合わない人も多くおり、五十名もの死者が出てしまった。
羅はまだわずかながら息をしているも、いつ容態が急変してもおかしくない状況であった。
工事は中断され、八田は本国政府からかなり批判を受けてしまっている。
元々、莫大な予算をあてられているが故に国民や官僚の関心も高い。
大風呂敷な八田への個人的な反感もあわさり、相当いわれているようだ。
普段の八田なら、多少の批判なら怒鳴り散らして弾き返す。
だが、今回ばかりは、八田もいつもの銚子で反応できなかった。
八田は怪我をした一人ひとりを見舞う。患者の家族もさることながら、八田も目がくぼみ、髪もボサボサで疲労がにじんでいた。
羅のもとに訪れた八田も、ひどく落ち込んでいた。
八田は美琴と江に頭を深く、深く下げる。
「今回の事故を引き起こしてしまい、大変申し訳有りませんでした」
美琴は涙を拭い、精一杯微笑む。
「八田さんのせいではありませんよ。きっと、清芳もそう言うと思います」
「……そう言っていただけて、ありがたいです」
八田は断りを入れて、羅の手を握る。
羅は、反応しない。
息こそしているものの、まるで死んでいるかのようである。
「……」
八田は唇を噛みしめる。
その胸中に、何を考えているのか。
工事中止の噂を実現しようとしているのか。
「……八田さん」
美琴は、頭を下げる。
「お願いします、工事は、中止しないでください」
「……ですが、私はこんな事故を起こしてしまいました」
「だからこそ、です」
美琴は優しく羅の頭を撫でる。
「清芳たちがあんなに頑張っていたのは、嘉南平原を水であふれた場所にしたかったからです。それなのに、止めてしまったら、清芳も、死んでしまった人たちの頑張りもなかったことになります」
江も、頭を下げる。
「お願いします。続けさせてください」
「……」
八田はうつむく。
かすかに、羅の手が動く。
ぎゅっと、八田の手を握りしめた。
まるで、羅も工事の再開を望んでいるかのような気がした。
「……実は、他の家族にも同じことをいわれたんだ。工事を続けてほしい、と」
自分に言い聞かせるかのように、八田は言う。
「今すぐには、無理かもしれない。だが、再開してみせる。嘉南平原の灌漑を成功させてみせる」
八田は、羅の手をぎゅっと握り返した。
「……絶対に」
工事は、なんとか再開に持ち込めた。
今まで以上に細心の注意を払い、危険な箇所の突破に成功した。
しかし。
嘉南平原の灌漑作業は、またもや危機に見舞われた。
今度は嘉南平原での事故ではない。台湾内での問題でもなかった。
九月一日。
早朝に日本の関東で起きた大地震は、多くの建築物を破壊し、大勢の人が火の海にのまれた。
関東大震災である。
関東での大震災は、嘉南平原の計画さえも、根底から揺るがすこととなった。