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ポスターにデカデカと写っていたテーミス像が、左手に天秤右手に剣で正義を象徴している一方で、左脇にラージサイズポップコーン右手にチュロスを持ったアイナは食欲を象徴していた。
「もー(もぐもぐ)、始まっちゃうよ(もぐもぐ)」
アイナは一区切り喋ってはチュロスを頬張っていた。これは間違いなく映画が始まる前に全部食べ切るペースだ。文句を言っているときはしかめっ面だけど、チュロスを口に運んだ瞬間は笑顔というのがなんとも可愛らしい。
「食べるのか喋るのか、どっちかにしなさい」
「わかったよ(もぐもぐ)、兄貴 (もぐもぐ)」
チュロスを早々に食べ終えたアイナは、ついで、ポップコーンの山へと手をつけ始めた。そしてどこぞの掃除機ばりの勢いのままに全て食べ切っていた。まぁ一応、形骸化してるにせよ兄としての務めを果たせたということでよしとして、僕は乾いた笑いを浮かべていた佳奈を見つめた。
「ん? どうかした?」
半歩前に進んで僕の前に顔を突き出すと、佳奈は小首を傾げた。さらさらと揺れる黒髪から甘い香りが漂ってきて、頭がクラクラしそうになった。
「……なんでもないよ」
僕はサッと目を伏せた。スラリと伸びた鼻筋、切れ長の瞳、シュッとした唇、見慣れた顔のはずなのにいつになく佳奈が綺麗に見えていた。いままで意識してこなかったけど、佳奈はかなり美人な方だと思わずにはいられなかった。そんな彼女の一つ一つの動作が、僕の心を揺り動かしていた。
「……変なの」
佳奈はそう言うと、僕にチケットを渡した。
「早く行こっ!」
シアター内に向かうとき、ちらりと見えた佳奈の横顔はやっぱり綺麗だった。
「なーに見惚れてんだか」
「な……」
先にチケットを切ってもらっていた佳奈を尻目に、アイナがじとっとした目で僕を見ていた。やばい、冷や汗が止まらない。アイナのことだからよからぬことを言い出すに決まってる。
「おーい、はやくー」
佳奈がチケットを切る所から抜けた先で、手を大きく振っていた。
「やばっ、チケット落としたかも……佳奈姉ぇは先行ってて、すぐ見つける」
「わたしも手伝うよー」
「大丈夫、大丈夫、もうすぐ始まっちゃうし」
「うーん……わかった!」
佳奈の後ろ姿を見送ると、「じゃあ僕も先に……って、痛ったぁ」アイナが僕の腕を万力を捩じ切るくらいの威力で引っ張って、映画館内の食べ物売り場の前までやってきた。
「どういうつもりだよ」
「兄貴、もしよかったら、ウチのチケットと交換する?」
落としたと言ったはずのチケットが、アイナの手元にあった。
「おい、なんで持ってるんだよ」
「佳奈姉ぇと、隣になれるよ」
ぼそっと呟くアイナは、指先でチケットをひらひらさせていた。
「これさえあれば、暗闇であんなことやこんなことが……ぐへへへ」
僕はアイナの頭をビシッと叩いた。荷物を持たされた恨みも増しにして。
「馬鹿言ってないで、早く行くよ」
「うぅ……せっかくのチャンスなのに」
「なんだよチャンスって、そんなの、」
「いい、兄貴。いま佳奈姉ぇは先輩ときまずーい状況なわけだ、そこで優しさの一つや二つ、いや、飲み物の一つや二つをさりげなーく渡してあげれば、あら不思議。佳奈姉ぇも兄貴の良さに気づくっていう寸法よ。そしてゆくゆくは、」
「……いくらだ?」
「冗談冗談……って、マジ?」
「……いくらですか?」
「……ポップコーンセットの一番おっきいやつ」
僕はアイナからチケットをひったくって自分のと差し替えると、アイナの望みの品と、もちろん佳奈の分の飲み物も注文した。
「あの兄貴がねぇ……」
僕の後ろでそんなことを言われたような気がしたけれど、僕は品物が出来上がるのをいまかいまかと待っていた。