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大量の荷物を預け入れサービスセンターに渡し終えた僕は、一旦外に出て噴水広場前のベンチに座っていた。映画まで時間があるみたいだし、きのうきょうで急速に移り変わった頭の中を一人で整理したかった。天を見上げると清々しいほどの青空が広がっていた。日差しは落ち着きを見せ始め、心地よい風が肌を撫でた。
「このままじゃ、まずいよなぁ……」
独白に似た言葉が空間に溶けていく。佳奈と親友の間に生まれていた溝、そしてなにより、親友に隠れて佳奈と触れ合ってしまったことに対して、僕だけではなく佳奈もよからぬ感情を抱いてしまっていたことが、僕の目の前の大きな壁として立ちはだかっていた。たった一言、「いやだ」と、言ってしまえば済んでしまうような簡単なことなのに、その一言がもたらすメリットとデメリットの天秤が快楽という名の錘によって正常に機能しなくなっていた。略奪愛という、そんな、不貞を、ばかなことは、みじんも考えることなく、たった一人の人を愛することができていればいいのだろうけど、現実問題としては避けようのない自己撞着を抱えていた。とまあ、さんざんこねくり回してみたけど、結局、肉体的な気持ちよさの前には全てが泡沫の夢だった。
「なんだかなぁ」
唇と頬は触れ合っていたときにあれだけ熱を帯びていたはずなのに、いまやみる影もないほど平衡状態を保っていた。僕は自分のことを理性的にコントロールできる方だと思っていたけど、理解の範疇を超えたものに出会ったときのマニュアルは知らなかった。ならぬことはならぬものですとばっさり切り捨てることができればいいのだろうけど、僕はその基準を推し量るための巻き尺を持っていなかった。自前の体を荒野にさらされたら、なすがままに身をやつす。それが僕の世界に対する向き合い方なのだと思い知らされた。
「どうしたもんかねぇ……」
考えれば考えるほど思考の大海原にコンパスなしで放り込まれた気分で、ひどく悪酔いし始めた。僕は足を外に投げ出して全身をリラックスさせた。ただ、考えないことには先に進めないので、この先の未来を少しばかり考えてみた。
親友に隠れて佳奈と触れ合って、彼女の言うところのハジメテの人物になったとして、それでも親友と佳奈の間の関係は続き、僕は永遠に間男ポジションとして墓場までその関係を隠す。と、いった具合だ。
我ながら馬鹿馬鹿しい未来だった。そもそも論として、僕はハジメテといった言葉に含まれる純粋さや無垢なものに対してもはや幻想を抱いていなかった。人間なんて汚くてナンボだし、佳奈がそういった処女性を主張することで特別感みたいなものを演出しようとしたことには正直驚かされた。なぜならば、佳奈のいうところのハジメテを強調したいのならば、付き合っている人がいるのにそいつを蔑ろにして他の人間を受け入れるという行為は、ハジメテの意味することから大きく逸脱しているからだ。それはもはや悪意でしかなくて、過去を精算してからのほうがよっぽど綺麗に映るってもんだ。
なぜ佳奈がハジメテを強調したのか、考えられるに、親友と何らかの事情でエッチができないという事情が生まれたか。もしくは、僕に対して元々そのつもりでいたか。の二択だ。前者の場合は、例えば、親友がかなり浮気性なやつで、それを知った佳奈が、『そういう不純な奴に対して私の大事なもんをやれるかっ』ていう気持ちから、『お前がそうならするなら、わたしだって』と、僕の存在をヤケ気味に当てつけで利用しているということだ。悲しみを少しばかりの快楽で埋め合わせる。そういう類の代物であって、僕なら無害だし問題ないと思われているのかもしれない。後者の場合は……
「まじ、かよ……」
ふと、噴水広場を見ると、急用があると言って帰ったはずの親友の隣にはブランド物に身を包んだ女性が、なんなら腕を組んで歩いていた。親友が実は浮気性という方向性が、あながち間違いではないのかもしれない事実がそこにあった。こういうことをするやつじゃないと思いたいのに、目の前の現実は否定しようのないものだった。
(佳奈が僕に迫ったのは、親友の所為、なのか……?)
「……ちょっと!」
僕は駆け出して、親友の後ろ手を掴んでいた。
「なーにこの子?」
「……ユキト」
親友の無意識な言葉が僕に冷たくのしかかった。きっと親友の空似だと確かめたかった、だけど、彼の言葉はまぎれもなく親友のものであった。親友を掴んでいた手が凍るような感じがした。
「私たち、デート中だから……ごめんね」
女性が僕の頭をぽんぽんと優しく叩いた。疑いようのないくらい幸せな表情だった。
「どうして……」
親友を掴む腕を強めた。かなり力を加えているのに親友は痛むそぶりも見せず、
「……お前に関係ないだろ」
と、吐き捨て、「じゃあな」と僕の腕を払った。
「あの子、知り合いだったんじゃないの?」
「……そんなんじゃねーよ」
徐々に去っていく二人の後ろ姿を茫然と見つめる。相変わらず、視界の端っこに映り込んでいた空は青々しく晴れていた。