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 最初のそれは、「ボクハココニイル、ココニイル、ココニイル」

 第二のそれは、「キミガソコニイテヨカッタ、ヨカッタ、ヨカッタ」

 ——『タイタンの妖女』

 学校外ではハジメテの三人一緒の旅行——僕たちを出迎えたのは豪華なエントランスだった。絢爛、壮麗、精巧、どの言葉でもぴったりと説明できるようなヴィクトリア調の内装は、クリスタルガラスの照明を受けて明るく輝いていた。


「チェックインまで時間があるし、みんなは海で遊んでらっしゃい」

「ママはどうするの?」

「ちょっとだけ知り合いに挨拶しておきたいし、それに、ロビーで作業の続きもしたいから気にしないで」


 僕たちがベルベッドのつやふわなめらかアームチェアに座っているあいだ、おばさんは非日常的なエントランスを勝手知ったる調子でどんどん進んでいった。マホガニーの一枚板でシックに仕切られた受付の向こう側の人に言付けすると、すぐさま扉の奥からホテルの支配人ぽい重厚な佇まいの妙齢な女性が出て来た。よっぽどおばさんのことが重要なのか、扉から女性が出てくるまでが速すぎて、身支度をサッと確認する時間すらないくらいだった。


 その女性は、おばさんのゆったりとした雰囲気とは対照的なパリッとしたキャリアウーマンだった。背筋をぴんと伸ばし、髪をヘアワックスで後ろに撫で付けている容貌は、リゾートホテルの長としての存在感を遺憾無く発揮していた。おばさんが指差しながら僕たちの方を向くと、女性は内装と同じく長年の歴史の積み重ねたインギンな礼をしてくれた。


 僕たちも同じように礼をすると、女性は微笑みを浮かべた。そして、女性とおばさんの二人はエントランスに備え付けられているアームチェアに移動して談笑し始めた。


「おばさんって、もしかしてすごい人なんですか?」


 その様子を遠巻きに眺めていたユッコちゃんが佳奈に尋ねていた。ユッコちゃんは高級なアームチェアを汚さないように心掛けているのか、背もたれから距離を離し、お尻の端っこだけを椅子に乗せてるような格好で座っていた。多分、僕と同じようにこういう場所には慣れていないのだと思う。


「ふっふっふ」この手の質問に慣れてい佳奈はスマホをポチポチと操作すると、「これがママです」授賞式で物憂げな表情を浮かべているおばさんの画像と経歴が載っているウェブサイトをユッコちゃんに見せた。基本的におばさんは可愛いらしいという修飾語句が似合っているけど、こと仕事モードにおけるおばさん——深窓のご令嬢みたいな佇まい——は、美しいという言葉以外が見つからないほどだ。


 ユッコちゃんはサイトをまじまじと見つめて目をまんまるくさせていた。


「もしかして」


 ユッコちゃんはチェーンがついているスクエアバッグから、栞紐がだいたい中間あたりに収まっていた文庫本を取り出した。片翼の天使が描かれた表紙の両端を、艶やかで刺々しいネイルの生えた指先が支えていた。


「一年のときから超ファンなんです」


 表紙のゴシックフォントタイトルを見てみると紛れもなくおばさんの新刊だった。おばさんが小説家としてデビューしたときから個人的に全ての本を購入しているし、それに、ネットニュースや本屋のポップでこれでもかと顔を合わせているから間違いはない。扱っている内容がドロドロとした恋愛ものだけに、ユッコちゃんみたいな中学生が持っているのは情操教育上よろしくないと思うのだけれど、肝心の本人は目をキラキラと光らせ佳奈に羨望の眼差しを向けていた。


「サインを、いや、一ファンとして推しに近づくのは」


 ユッコちゃんは頭を抱えて悶え始めた。僕には推しと呼べるほどものがないので彼女がどれほど苦しんでいるのか理解できないけど、アイナと佳奈は首を縦に振って激しく同意していた。親友は僕と同じ性質だからきっと呆れてる表情でも浮かべてると思いきや、ぼぅと中空を見つめて心ここにあらずな状態だった。ときおり、まるで誰か別の人からの視線を避けるかのように首を左右に揺らしては小声でなにかを呟いていた。ただ、エントランスには旅行バッグを大量に携えた東南アジア系の旅行客や恰幅の良い老婦人がいるくらいで、とりたててこちらを見るような人物はいない。「ちょっと外の空気を吸ってくるわ」親友は思い詰めたかのような表情を浮かべながら、逃げるように外へと出た。額に浮かんでいた汗の玉がクリスタルベルベットの絨毯へと滴り落ちる。それは空調がほどよく効いたエントランスには似合わない、鈍色のしみをつくった。「僕も行ってくるね」女子三人組に断りを入れ、親友のあとを追った。


 外に出ると、ロータリーは人の群れでごったがえしていた。列をなしていたタクシーが出ては入ってを繰り返し、捲し立てるような声で子供を呼んでいる外国人旅行客がいた。その間を縫いながら親友の姿を探すと、海へと繋がる階段をまさに降りようとしているところだった。集団をいち早く抜けるべくなめらかな鋪道をひた走る。ときどき他の宿泊者と肩同士がぶつかり、怒っているような言葉を投げつけられたけど、僕はそれよりも親友の残した軌跡を辿ることに夢中だった。


 南国風の木々の葉っぱが潮風を受けてサワサワと音を立てた。見渡す限りの緑を抜けた先、その眼下に広がるは海の蒼だった。日常の色合いは潮騒とともに非日常の色彩を帯びていく。頭上を照らす太陽の光、その見慣れたものでさえいまの僕にとっては特別なことなように感じた。


 階段の末端は広めの踊り場のようになっていて、海を見渡せるように何個かベンチが備えられていた。そこの一つに親友は腰掛けていた。潮風に揺られてたなびく黒髪、はためく白シャツ、現実味の薄れた絵画のようなそれらは、僕が初めて親友と会ったときと変わらず見惚れるものがあった。頭の中に出会った頃の思い出がコンコンと湧き出る。公園、通学路、林間学校、修学旅行。どれもこれも、僕にとってかけがえのない思い出で、僕が僕としてありつづけられたのもまた、彼との出会いがあったからこそだった。そのときと同じように、彼の座るベンチの端っこに腰掛ける。親友は僕の顔をちらっとだけ一瞥すると、地平線の奥まで続く海を眺めた。


「海って、広いよな」


 異国情緒あふれる声色に混じった親友の言葉は、何か深い意味を加えられていたような気がした。だけど、毎年のように目にしていた広大な海——両親が大好きだった海を前にして、僕は「うん」と答えるのが精一杯だった。親友の言葉に含まれた真意を探ろうとしたけど、それはうっすらとぼやけてしまう。両親が僕の両手を繋いで浜辺を歩く光景、夕陽がまだ熱の残る砂浜を照らしていたときの記憶が蘇ってきたから。


「ほんっと、ユキトはすげぇよ」


 親友は下げていた視線を上げて僕を見た。その瞳の色合いと仕草の意味を僕は知っていた。


「頭にアルミホイルでも巻いとく?」

「それはいいな」


 親友はクスクスと笑うと静かに立ち上がった。それは親友らしくない緩慢な動作だった。まるで月の上でも歩いているかのように、一歩また一歩と地に足がついていないような様子で正面を歩き始めると、崖から落ちないように設置されていた木材の柵にひじを掛け寄りかかった。


「あーあ、気分が削がれたわ」

「それは悪うござんしたね」

「ここなら、赦してもらえると思ったんだけどな」


 僕は親友の隣で同じように柵に寄りかかった。崖下の荒々しい波飛沫が深い海底への呼び声のようにこだまする。同じ場所に行くために、僕が隣にいなかったらきっと、そんな気がした。


「それが、君のやりたいことなの?」


 親友は間髪を入れずに、


「そうだよ」


 と、言った。その言葉は、緊張の糸がぷつっと切れたかのようにとも言えるし、全てを諦めたようにとも言えるほどスラスラと力なく出てきた。親友の顔に浮かんでいた表情は虚無。どのような感情が親友のうちを駆け巡っているかは到底わからないけど、たった一つ確かなことは、僕の問いに対して今までないくらいにはっきりとした応えが返ってきたということだった。


 いましかないと、僕は言った。


「僕は君の、そういうところが嫌いだよ」

「は?」


 親友は虚をつかれたかのように後退りした。それもそうだ、愛憎表現なんてものを親友に伝えたことなんて過去の一度もない。


「自分さえ我慢すれば全て丸くおさまるっていう、そういうところ」

「俺が我慢? そんなことするわけねーだろ」

「とぼけないでよ」


 声を荒げたわけでもないのに、親友の体がビクッと震えた。


「どうして逃げるんだよ」

「逃げてねーよ」

「どう見たって逃げようとしてたじゃないか」

「だから逃げてねーって言ってんのがわかんねぇのか」


 親友は突然取り乱したかのように僕につかみかかってきた。「俺が、何のためにここまでやって来たと思って」僕は親友の手を振り払うことはせず、ただ、襟元で小刻みに震えている両手を眺めた。無理に声をかけるわけでも否定するわけでもなく、全ての行いを赦すように。


 それでもあえて僕は言った。


「君が良くても、僕は赦さない」


 それは奇しくも病院のベッドで僕がふせっていたときに、親友が伝えてくれた言葉だった。この言葉を伝えるのにどれほどの覚悟が必要だったのか、その立場になってハジメテ知ることができた。親友が何に対して苦しんでいるのかを一番知っているはずの僕は、その答えから目を背けていた。親友なら全てを理解してくれていたという希望的観測があったし、親友なら大丈夫だと甘えてしまっていた。親友だって一人の人間だというのに、そのことに気づくのが遅すぎた。その結果がどうなるかなんて未来を見通す力を持っているわけでもないのに、安易に決め込みすぎていた。


 たとえ僕のことを恨むようになったとしても、それが親友の生きる理由になってくれるのであれば、僕はよろこんで親友のためになろう。それが、両親が最後に残してくれたメッセージではなかったのか。


「もう、たくさんだ」


 親友は手の力を徐々にゆるめ弱々しく僕に寄りかかった。ゴツゴツとした体躯から伝わる温度はゾッとするほど低かった。まるで正気を感じられないほどに。


「疲れちまったよ、ユキト」


 訥々と語られる言葉は、崖の岩肌にぶつかる波の音によってかき消されていった。

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