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アイナのお腹がぐぅと地割れみたいな響きで鳴った。僕とアイナは互いに目と鼻の先で微笑んだ。その瞳にはもう、先ほど漂っていた不穏な影はほとんど見えなかった。
アイナとの夕飯は、普段よりちょっとだけ気まずかったけど、いままでより一番美味しく感じた。
夕飯を食べ終えると、僕が皿洗いをしているあいだにアイナはお風呂を入れてくれていた。僕は皿洗いを終えるとソファでくつろぎながらテレビをザッピングし始めた。あとからアイナが僕の隣に座ってくつろぎ始めた。アイナにテレビのリモコンを渡すと、定期契約しているストリーミング配信サービスからお気に入りのアニメを見始めた。
この一連の流れは僕とアイナが二人で生活することになってからはほぼ毎日のような、儀式的ともいえることだけど、きょうのアイナと僕との物理的な距離は野球ボール一個分ほど近くなっていた。
アイナは目を輝かせながらお気に入りの変身ヒロインアニメに釘付けになっていた。僕はその横顔を頬杖をつきながら眺めていた。
言葉を交わしているわけではないけど、僕たちは確かに同じ時間を共有していた。ただそばにいるだけ、と言ってしまえばそれだけのことなんだろうけど、それは何十億という人たちの中から天文学的な確率で導かれたものであって、そんな奇跡をごく当たり前のように意識せず過ごせていることは僕たちが何より健やかに生きてこれたからなのかもしれない。
そんな日々を僕が織りなせているのも、アイナや、親友、そして佳奈たちが僕のそばにいてくれたおかげだと思い出し始めた。彼らのおかげで、両親がいなくなって絶望していたあの頃の僕からは想像できないほど、いまの僕は成長することができていた。
僕一人だけだったら決してあのときを乗り越えることができなかった。それほど大事な結びつきをどうして僕は疑ってしまったのか。佳奈と親友だって、口には出していないけど、地元の高校ではなくて僕が内部進学する方の高校を受験してくれていたことだって。ボロボロになっていた教科書や付箋だらけの参考書を涼しい顔でこなしていたけど、びっくりするくらい授業の難易度だって上がっているはずだった。部活をしながらなんてもっときついはずだった。それでも、少しばかり冗談で愚痴るくらいで、本当に辛い顔を僕に見せたことはなかった。
努力は人を裏切らない。僕が中学受験のときに一番感じていたことだった。当時はやればやった分だけ成績が伸びたし、何も怖くなかった。誰よりも僕はデキると思っていた。でも、入ってみたら僕の存在なんてその辺の石くらいの価値しかなかった。世の中に自分よりスゴいやつなんて腐るほどいることを知り、それに、僕の世界を包括していた両親がいなくなったったところで、僕を取り囲む世界は何事も起きなかったかのように進むということを知ってしまった。
悲しかった。けど、その悲しみをいままで思い出すことがないほど、いまの生活は充実していた。
お風呂が沸いたことを知らせる通知音がリビングに響いた。
「先に入っていいよ、いまいいところだから」
「うん」
普段はアイナが先にお風呂に入っていたけど、アニメがちょうど盛り上がり始めたシーンとかだとこういうことがちょくちょくあったので、僕は特に気にせずお風呂に入ることにした。
服を脱いで風呂場に入ると浴槽のふたを開けた。アイナが好きなラベンダーの香りのする入浴剤を浴槽に入れると、もうもうと立ち込める湯気の中にラベンダーの芳しい香りが混じった。
シャワーで軽く体を流してから浴槽に浸かると、ほどよく温められたお湯が僕の体を包み込んだ。体にとどまっていた疲労感が湯船の中にじわっと溶け出していくような気がする。このときが一日を通して僕が一番リラックスできるタイミングだった。
頭の中を空っぽにしてぼぅと天井を見上げていると、
「兄貴、入ってもいい?」
と、アイナがお風呂場の扉越しに尋ねてきた。
シャンプーやコンディショナー、ボディーソープが切れているわけではないから、アイナの発言は一緒に入っていいかどうか、ということだった。それはアイナが僕のことを兄貴と呼び始めてから初めての出来事だった。
いくら兄妹と言えど二人で一緒に入るような時期はとうの昔に過ぎている。だから僕は急いで浴槽から出ると、
「すぐ出るからちょっと待ってて」
と、言った。
「ううん、ゆっくり入ってていいから。それに、きょうは一緒に入りたい」
アイナの声がお風呂場の扉越しに聞こえてきた。
お風呂場の曇りガラスに映るアイナの黒い影が、お兄ちゃんと僕を呼んでいた頃の面影を色濃く残していた。それは、自分では抱え切れないほどのものを抱え込んでしまったときに、浴槽であれやこれやと一緒に分けてくれたときの姿と一緒だった。
僕は浴槽に深く浸かると、
「いいよ」
と、言った。
脱衣所からガサゴソと音が聞こえてくると、アイナがお風呂場の扉を開けて風呂場に入ってきた。僕はアイナのことを極力見ないように浴槽の湯面をじっと見ていた。
アイナはシャワーを軽く浴びると、
「背中流すよ、兄貴」
と、言った。
「どれくらいの金額が請求されるんですかね?」
「お値段なんと、いまだけ無料だよ」
「まじ?」
僕はアイナのことを思わず見てしまった。アイナは白いタオルで全身をぴっちりと隠していた。
「兄貴はウチのことを何だと思ってんの?」
「守銭奴」
「兄貴に襲われたっていまから警察に連絡を」
「やめて、冗談にならんから」
僕は下半身をタオルで隠しながら急いで浴槽から出ると風呂椅子に腰掛けた。
アイナは壁にかけられていたボディスポンジをとってボディーソープを染み込ませると、僕の背中をこすり始めた。
「どう?」
「ばっちりです」
くもっていてはっきりとは見えなかったけど、多分、鏡に映っていたアイナは嬉しそうな顔をしていると思う。それくらいアイナの持っていたスポンジは僕の背中を軽快な動きでうごめいていた。
「兄貴がさ、あのままどっか行っちゃうんじゃないかって、怖かった」
不意に、ゴシゴシという音に合わせてアイナはそう言った。あまりにも急すぎて聞き逃しそうになったけど、アイナは確かにそう言った。
アイナは、僕のことを僕以上に知っていた。僕が過去にしでかしてしまったときも、これから同じことをしようとしていたときも、隣にいてくれたのはアイナだった。僕はまたしてもアイナを一人ぼっちにしてしまうところだった。
一番の嘘つきは僕自身だった。それでも僕は、アイナを安心させるためにあのときと同じ言葉を使った。
「アイナがもう少し大きくなるまでは、どこにも行かないよ」
「それじゃあさ」
アイナは動いていた手を止め、
「ずっとちっちゃいままでいい」
と、アイナも同じ返事をした。
「僕はちっちゃいままはいやだけどね」
「むぅ、そういうんじゃないってわかってるくせにぃ」
「痛ってぇ」
皮膚が赤くなるくらい強くこすったアイナは、
「約束、してよ」
と、言った。
二度と僕が約束を違えないように、強く。
「もう、一人は、いやだよ」
二度と僕が至らないよう楔を打ち込むように、烈しく。
「こんどはぜったい、一人にしないよ」
それは僕がアイナと交わしたハジメテの約束事だった。
 




