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親友とアイナが同じ匂いをさせていることの意味を考えてみると、どれもこれも二人の関係を深く結びつける方向性しか思い当たらなかった。妹の色恋沙汰に口を出すつもりはないけど、なぜ、親友という向こう見ずな選択をしているのかという疑問符が浮かんだ。
確かに、アイツはかなりいいヤツだ。頭はいいし運動はできるし身長は高いしコミュニケーション能力も高いし、それにアイツほどアイナのことを大切にしてくれている人もいない。だけど、アイナは親友と佳奈が付き合っていることを知っている。それが意味していることを知らないと主張できるほどアイナは幼くない。
ただ、それがイケないことであると強く否定することが僕にできるはずもなかった。もしアイナが、僕が佳奈に抱いているものと同じような感情を親友に対して抱えてしまったのであれば、つまるところ、恋してしまっているのならば仕方がない部分もあるのだろう。それくらい、人を愛してしまうというのは恐るべきことなのだと知ってしまったからだ。
それとも、という一番想像してはならない方向へと思考が進む。親友が何かしらアイナの弱みを握っていて脅していると。タナさんとの会話の中で、『親友に写真を撮られて』という部分が強く蘇る。いやいやと、僕は強く頭を横に振った。
そんな犯罪に手を出すほど親友はバカじゃない。バカじゃない、よな。でも、親友の家に行く予定はないと言っていたはずのアイナが、親友と同じ香りを漂わせていたという事実はどう説明つけるのか。もしそうだったとしても、せめてアイナは僕に正直に話していて欲しかった。それなりに僕のことを信頼してくれていると思っていた。どんなことがあったとしても受け入れられる覚悟だってあるのに、僕なら助けられるのに、アイナはそう思ってくれていないのかもしれなかった。ただじっと、誰にも言えず我慢しているかもしれなかった。
「どうしたの兄貴? 怖い顔して」
「いい匂い、だね」
僕はそう言っていた。言わずにはいられなかった。
「わかる? ウチもそう思うんだよねー。きょうめっちゃ暑かったからユッコの家でシャワー借りたんだけどさ」
心底嬉しそうな顔を浮かべていたアイナが僕の前に座った。
嘘偽りのない純粋な笑みに、一筋の影が差し込んでいた。
「——ん——失——見——届」
墨を流したような闇の中で目を覚ました僕は、馬鹿みたいに恐ろしくなっていた。
何がまずかったんだ? 僕が佳奈と一緒にいようとしたことが悪かったのか? それとも両親がいた頃みたいな性格に戻って、それが僕を悩ませることになるとも知らずに冗談をやっているのか? ではなぜ、僕はこんなに長い苦しみの中で、僕は生きているんだ? それとも、僕は本当に生きているのか? これは幽霊が感じるものと違うのか? どこまでも寂しく、迷子になったような、どこにいるかもわからず? あのときに僕は、両親と一緒に死んじゃったんじゃないのか?
「兄貴!」
どこからともなく声がした。
「兄貴!」
その子はまた僕のことを呼んだ。
「お兄ちゃん!」
懐かしいその声で僕は少しだけ意識がはっきりとした。僕を正気づかせるための符牒だった。僕は病院のベッドで横たわっていたときのことを思い出した。血管に薬が少しずつ入れられているあいだに、僕は蛍光灯の明かりを見つめアイナの声を聞いていたんだ。だけどそれは何十年も前のことのようだと思えた。
無限に続く恐怖、耐えられない重圧、苦痛。
「嘘、つかないでよ」
「嘘なんてついてないって、ウチが兄貴に嘘つくことなんてないんだから」
「僕なら、騙せると思ってる?」
「だからそんなこと」
「嘘だ」
「兄貴?」
「嘘だッ!」
震えが止まらなかった。
これ以上、僕に嘘をつかないで欲しかった。嘘で嘘を積み重ねないで欲しかった。一度でもついてしまった嘘は、その根本を断たない限り上へ上へと伸ばすことでしか逃げ場がなくなってしまうから。その結果としてどんな苦しみが生まれようとも。
アイナにはそんなものを背負って欲しくなかった。アイナにはもっと自由に、束縛のない、まっさらな世界の住人として生きていて欲しかった。アイナはそんなことを毛ほども考えていないかもしれない。それでも、アイナのことを一番近くで見てきた兄として、何の取り柄もない僕ができる唯一のことだと思えたから。
でも、アイナのことを自由にしてあげたいという思いをアイナ自身に強要することもまた、アイナのことを縛ってしまっているのではないかという矛盾に気づいた。多様性という言葉を盾にマイノリティを駆逐している人種と何ら変わらないことに気づくと、僕はひどく愚かな真似をしてきてしまったのじゃないかと戦慄した。
徐々に黒く染まり始める僕、それと同時に、暖かな色が混じり始めた。
それは人の温かさで、変わらないアイナの体温だった。
忘れかけていたあの頃の記憶が蘇る。お兄ちゃんと呼びながら僕の後ろについてきたあの頃のものとそっくり同じだった。
あの頃とはまるっきり変わっていたように思えた妹の中に流れている変わらぬものの存在が、僕にとってはありがたかった。
涙が出た。
変わるものもあれば、変わらないものもある。当たり前のことだけど、そう思えた。
意識がはっきりとし始め、しばらくすると、インターフォンの音がリビングに響いた。「誰か来た」「うん」僕がじっとしているとアイナは僕の姿を捉えつつモニターの通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
「アイナ? きょう失くしたって言ってた髪留めが見つかったから届けにきたんだけど、いま大丈夫?」
モニターに写っていたのはユッコちゃんだった。アイナが僕の方を見てきたので縦に頷くと、アイナは僕の腕を引いて玄関先へと向かった。




