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「それじゃあ、また明日」
佳奈と親友の姿が見えなくなるまで玄関前で手を振った。曲がり角の直前で二人は僕の方を見ると互いに向かい合わせで僕に腕を振った。慣れ親しんだ二人の動作なのに、ゆらゆらとした何かが地の底から這い上がってきた。僕の聞こえないところでどんな会話を重ねているのだろうか、僕のことを悪く言っているんじゃないか、僕のことを実は嫌っているんじゃないか、そんなネガティブな要素に満ちた濁流が僕の体を飲み込んでいく。
親友、ましてや佳奈がそんなことをするはずなんてないと思いたい。けど、人なんてのは薄皮一枚で肉と外を分けているだけなのだから、極端な話、人ではない何かが人のように振る舞うなんてことは簡単だ。親友のこともそうだし、佳奈のことも、アイナのことだってそうだ。人の本質なんてそう簡単に見抜けるものじゃない。なぜなら僕も、僕以外の何者でもないのだから。
玄関を開けると家の中は真っ暗だった。
僕はスマホの明かりを頼りにリビングの椅子に座ると、Senlyを起動した。
僕は探偵じゃない。張り込みもできなければ、協力してくれる人もいないし、七色に変装するスキルだってない。でも、GPSアプリさえあればアイナが言っていたことがまずは真実かどうかの裏付けを取れる。
知ってしまうことが怖かった。世の中には気づかなければよかったことがたくさんあるのだから。もちろん、小学生のときにサンタの正体が父親だったと知ってしまったときや、二十ウン歳だと教えられていた母親の実年齢がプラス二十歳であることを病院先で知ってしまったときのような、ほとほと悪気がなく善意のもとで隠されていたものだってあることは知っている。だけど、その逆も然りだった。
とにかくいまはアイナの居場所を確認しないと。と、画面を見る。
しかし、ディスプレイに表示されていたのはオフラインという表記と共に常に学校を指し示していたアイナの位置情報だった。
「どういうことだよ」
時事刻々と時間が過ぎているのにアイナの位置情報は更新されていかない。ただ、オフラインの表記だけが画面に表示されていただけだった。
心臓が破裂しそうなくらいバクバクと脈を打ち始める。それなら親友と佳奈はどこだと思ったけど、友だち登録していたのはアイナだけだったので二人の位置情報が追えなかった。
どうする、どうすればいい。と、僕の頭の中が急速に慌てふためく。ダメもとでもいいから電話をかけるしかないと思った僕は、親友の携帯電話ではなくて親友の自宅の固定電話に電話をかけてみることにした。親友自身ならともかく彼の家族なら誤魔化しが効かない可能性があると思ったからだった。
数回の呼び出し音のあと、留守番電話サービスへとつながった。何も残さずに電話を切るともう一度電話をかけてみた。それでもダメだった。
やばいやばいやばいやばいやばい。
わらをも掴む気持ちで佳奈の家に電話をかけると、
「はい、逢沢です」
と、おばさんの声が電話越しに聞こえた。
「あの、忍足ですけど、佳奈さんはいらっしゃいますか?」
「ユキト君?」
「そうです」
「佳奈ちゃんなら部屋で休んでるけど、代わる?」
「いえ、大丈夫です」
スマホを持つ手の震えが少しだけおさまった。
「ちょっと伝えたいことがあったんですけど休まれているみたいなので」
「そーお? 急用なら佳奈ちゃんに伝えておきましょうか?」
「それほど重要ではないというか、佳奈さんの体調が大丈夫なのか気になって電話をかけたくなったといいますか」
「あらあら、あらあらあら。いつの間にそんな感じになったのぉ?」
「おばさんが考えているような感じというか関係には、まだなっていませんでして」
「ふぅん。まだ、ね。いいわねぇ、若いって」
「あのー、それでこの電話のことを佳奈さんに内緒にしてもらえると助かるというか、あとでいじられるのが恥ずかしいというか」
「いいわよぉ。ユキト君の頼みならなんでも聞いちゃうんだから。いつも佳奈ちゃんがお世話になっているし、ね?」
「ありがとうございます、おばさん」
「どういたしまして」
「それじゃあ、失礼します」
「またねー」
おばさんとの電話が切れると、ふぅ、と胸を撫で下ろした。流石におばさんまで巻き込むなんて芸当をするはずないだろうから一安心する。小さい頃から僕のことを本当の息子のように接してくれたおばさんのことまで疑い出したら、もう何も信じることができなくなる。
これでとりあえずの心残りは、親友とアイナが何をしているのかということだった。
やるべきことを終えた僕はスマホを閉じようとしたけどそれは充電切れで勝手に切れた。
唯一の光点を失った部屋の中がより一層真っ暗になった。
視覚から入ってくる情報が真っ暗闇によって極限まで削られた。目を開けているのに目をつぶっているかのような不思議な感覚が脳内をたゆたっている。環境音がいつにも増して鋭利に感じられ、普段暖かみを感じられる時計のチクタクという音一つとっても喉元にその冷たい切先を這わせているかのようだった。
部屋の電気をつけたいのに立ち上がることができなかった。座っていただけなのにめまいが止まらなかったからだ。
机に突っ伏して目を閉じてみても、ぐるぐると目がまわる。目を開けてみても、ぐるぐると目がまわる。
僕はもうどっちを向いて座っているのかすらわからなくなっていた。
僕の体を浮遊感が包み込む。
終わりなき底へとふわりふわりと落ちていく。どこまでも、どこまでも、際限なく。
僕はこの現象を覚えていた。両親を失ったときと同じだ。
あのときは確か、と詳細を思い出しそうになったとき、ガチャリとリビングを開ける音で現実に引き戻された。
「ただいまー、いるなら電気つけなよ。目を悪くするよ」
アイナは部屋の電気をつけると、僕の背後通って通学バッグをソファの上に置いた。
爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。それは、いつものラベンダーの香りではなく——
親友のものと全く同じ柑橘系の匂いだった。




