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短め。
ピピピ、ピピピ、ピピピ。
「俺が持ってくるから、佳奈は座っといて」
佳奈の握っていた呼び出しベルが鳴ると、親友はそれを受け取ってお店の方へと向かった。佳奈は親友の向かった先を手を振って送ると、僕の対角線上の席に腰を下ろした。突然訪れた二人きりの状況と試着室での出来事が相待って、頭の中は軽いパニック状態に陥っていた。何か話さないと間が持たないのに、脳内は佳奈と触れ合っていたときの温もりで満たされていた。できることならもう一度触れ合いたいという欲求が体の奥底から沸き起こっている気さえした。
そんな僕をよそに、
「試着室のはさ……急にごめんね」
と、佳奈は俯きがちに言うと、人差し指で下唇をいじった。その仕草は佳奈が不安を感じているときによくやっているクセだった。
「あやまらないでよ……僕はその、ああいうシチュって長年の夢だったし!」
「……ふふっ、優しいね、ユキトは」
僕の精一杯の冗談が真正面から受け止められた。気恥ずかしさというよりも事態の深刻さが上回った。口元を押さえて慎ましやかに微笑む佳奈には、先ほどまでの勢いが見られなかったのだ。
「……優しくなんて、ないよ」
僕も彼女の言葉をしっかりと受け止めた。それこそが考えられうる限り最大の誠意であったし、何より本心から滲み出た言葉だった。優しさではなく臆病さこそが僕を僕たらしめる要素であることは、二十年近く生きていれば嫌でも思い知らされていた。変わろうとすればするほど空回りしていくのが僕の生きていたこの世界だった。
「ううん……そんなことない……あのね、ユキト」
「なに?」
親友が商品を受けっている姿が遠目に映った。あちこちを行き交う群衆の合間に切り取られて、消えては現われ消えては現われていた。その繰り返しの中で、佳奈は僕の耳元で言った。
「わたしのハジメテは、ユキトのためにとってあるからね」
そして佳奈は僕の頬にキスをした。瞬きをするくらいの速さだったにも関わらず、僕の肌に触れていた部分はジンジンと熱を帯びて火傷しそうだった。佳奈の発言に込められた意図がなんであるかを考えようとすると、それと同時に彼女の言葉に混じった吐息の暖かさが蘇り、背筋がゾクゾクと震えた。
キスされた部分に手のひらで触れると、席に戻っていた佳奈は不敵な笑みを浮かべた。対角線上で佇む彼女は僕の知らない笑みを浮かべていた。
「でも佳奈には……」
親友の方を見ると商品受け取り終えてこちらに向かっていた。佳奈も親友の方を見た。
「……好きって気持ちだけじゃ、埋められないものもあるんだよ」
佳奈は意味深に呟き、再び僕と相対した。僕はそれ以上は何も言うことができず、ただじっと黙っていた。
「お待たせ、はい、佳奈の分」
親友は早足で席に戻ってくると、両手に持っていたお盆の片方を佳奈の席の上に置いてから、自分の席の上に置いた。佳奈の瞳がこれでもかというほど輝き始めた。それもそのはず、器には佳奈の大好物の豚骨ラーメンが盛られていたからだ。フードコートの並ぶお店の中でも群を抜いて本格的な逸品で、地元のテレビで特集を組まれていたりしていた。周りの家族連れの人たちも豚骨ラーメンを食べているせいか、あたりには食欲をそそる匂いがこれでもかと立ち込めていた。少し空腹感を覚えていた僕のお腹が、香りに触発されてくぅと鳴った。
「腹減ってるなら俺の分食べるか?」
「ううん、大丈夫」
親友がお盆を差し出してきそうだったので丁重に断ると、「お先に」と言ってゆっくりと食べ始めた。佳奈も僕を見て申し訳なさそうな顔を浮かべていたけれど、「いただきます」と言って麺を口に運んでからは、至福の表情で食べ進めていた。
二人が食事をしながら笑い合っている姿を横目に、僕は孤独感に苛まれていた。同じ場所で同じ空気を吸っているはずなのに、たった一つの、食べている物が違うということだけで、僕と二人の間はアクリル板で隔たれているかのような気がした。僕は一人の時間が好きだ。ただそれは、孤独が好きだということを意味していない。孤独とはすなわち、恋人として付き合ってほしいと告白したのに相手からは友達でいようと言われたときのような、とか、自分が唯一の親友だと思っていた相手が自分のことを友達の一人としかカウントしていなかったときのような、とかいうものであって、有り体に言うと、人と人とが社会を形成する上で避けて通ることができない相互作用の願望と達成レベルのギャップが生み出すもので、つまるところ、この場の僕の在り方はどうしようもなく孤独だった。そしてそれは、三人でいるときに必ずと言っていいほど僕が感じていたものだった。
「あれ、佳奈姉ぇと先輩じゃないっすか!」
僕の孤独感に手を差し伸べたのはアイナだった。その手に呼び出しベルを持ち、自分用の椅子の背もたれに手をかけた。
「おぃっすー」
「久しぶりだね」
佳奈と親友は一旦食べる手を止めると、返事をした。
「さっき偶然会ってさ、もしよかったら一緒に食べてもいい?」
「いや既成事実の押し売り!」
アイナのするどいツッコミが親友を襲った。そしてどっと笑いが起こった。「もちろん全然いいっすよ。ね、兄貴」「もちのロン」アイナは生粋の盛り上げ上手で、どんな場の雰囲気でも柔軟に対応することができるタイプだ。そんな彼女の存在は、僕にとっては非常にありがたかった。
アイナは椅子に座ると、親友のスマートフォンに着信が鳴った。「ちょっと電話出てくるわ」と、一言断りを入れると、親友は席を立って何か話をし始めた。その間アイナは佳奈と談笑していたが、しばらくして親友が席に戻ると、
「悪い……急用ができたから、もう帰るわ」
と、親友は言うと、まだ半分も食べ終えていない食器を持ち上げて返却口の方へと消えた。その後ろ姿を佳奈はただ茫然と眺めていた。
「いやー、せっかく先輩と久々に会えたってのに、何の用事なんすかね」
アイナが場を何とかしようとしていたが、佳奈は何も言わなかった。ただ、僕の直感だけど、佳奈は何かを知っていそうな感じがした。
「てか、佳奈姉ぇが先輩とねー……もしかして付き合ってたリぃ?」
「……うん」
「マジ……?」
佳奈は首を小さく縦に振った。
「……おめでとう! めっちゃお似合いじゃん!」
「そんなことないって」
「うっそだー、だって学園一の美男美女で、」
「だから違うって!」
佳奈が机を勢いよく叩いた。周りの人たちが一斉にこちらを向いた。アイナだけでなく僕もビクッと震えた。
「……ごめん」
アイナが両手を合わせて深々と謝った。
「こっちこそごめん……ほら、わたしってそんな美人じゃないし……ね、ユキト」
おどけた調子で佳奈は笑っていたけれど、彼女の両手はキツく握り締められたままだった。
「……アイナしか勝たん!」
ここぞとばかりに勢いよく立って、僕は天高く拳を振り上げた。
「「うわぁ……」」
アイナと佳奈が、もちろん周りの人も僕を見てものすごい顔をしていたけど、この場を丸く収めるための少しばかりの嘘は見逃して欲しかった。でも、二人の緊張が少しでも緩和してくれたみたいだから、いいのではないでしょうか。