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「ゆうべはおたのしみでしたね」
開口一番にそう言い放ってきたのは朝食の準備を終えていたアイナだった。いつものように、ココアを飲みながら一息ついている。
「あれは事故だから」
ちなみに、僕の発言を受けての妹の表情を画像検索したらジト目っていうのが一発目でヒットするくらいには半目になっていた。
「事故ねー、ふーん、へー」
「だから事故なんだって」
僕がアイナの正面に座るとアイナの目はさらに細くなっていった。
「ごめんね兄貴。次からはユッコの家に泊まってくるから」
どんなに抗弁しようともアイナはマグカップを両手に持ってチビチビとココアを飲んでいるばかりで、まったく聞く耳を持ってくれなかった。
「怒ってる?」
「どうして怒ってると思うの?」
「怒ってんじゃん」
「兄貴っ」
アイナは自分の襟元を指差して、一生懸命に何かをアピールしていた。
「鏡、見てきた方がいいよ」
言われた通りに洗面台に置いてある鏡台の前に立つと、アイナが言わんとしていることを理解した。首筋のあたりにつけられていたキスマーク、それは全く記憶にないものだった。指先でゴシゴシこすってみたけど消える気配がみじんも感じられない。水につけて洗い流そうとしても変化なし。
僕がひたすらに跡を消そうと努力していたらアイナが絆創膏を手渡してきた。
「消えるまではこれで隠しときなよ」
絆創膏を貼ると不恰好ながらもキスマークを隠すことができた。
「ありがとう」
「いいよ別に、大したことしてないし」
アイナは一つため息を入れると、
「それで、兄貴はまだ事故って言い張れますか?」
と、言った。
「これは記憶にないと言いますか」
「もういいって、兄貴。楽になろ?」
警察の取り調べよろしく、カツ丼でも出すくらいの勢いで僕の顔を覗き込むとアイナはこれ以上ないほどに笑顔を浮かべた。
不当な取り調べには断じて退くわけにはいかない。ただ、真正面にぶつかってもアイナに負けることも知っていた。
ゆえに、長年兄として生きてきたからこそ分かる妹の弱点、そこを突くべく僕はアイナの頭を撫でた。
「ふえぇっ」
「大きくなったね、アイナ」
「もう、こんなんでごまかされないんだからー」
アイナが苦言を呈していたけどその声はふにゃふにゃになっていた。さらには、僕の体を抱きしめてきた。
とりあえずアイナが満足するまでこのままだなー、とかいうゲスい男の思考のまま、僕はアイナの背中をポンポン叩いたり絆創膏のあたりをぽりぽりと掻いた。
しばらくして、涎を垂らしながら満足げな表情を浮かべていたアイナが、「ふいぃ」と言って僕から離れた。
「ご満足していただけましたでしょうか?」
「これ以上はヤバい」
危ない薬でもやってるんじゃないかっていうくらいブリブリになっていたアイナは、何回も深呼吸して呼吸を整えていた。
「さてと、朝ごはん食べよ。もうお腹すいちゃったよ」
「うん!」
勢いよく返事をしたアイナと一緒に食卓を囲みながら、風邪が治ってよかったなと僕は思っていた。




