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(ここは……?)
カーテンが引かれた真っ暗な部屋のベッドで僕は寝ていた。
さっきまで確かお父さんとお母さんの幻影を追って真っ赤な川を渡りそうになったけど、『まだ早い』と書かれたプラカードを掲げた両親が対岸でスタンバッていたので、すんでのところで引き返したはず。
体感で数秒のできごとだったけど現実には数時間経っていた。
(あのまま川を渡っていたら……)
そんなことを考えてぶるりと震えた。両親のもとで過ごしたいという気持ちはあるけど大切な妹を一人残すわけにいかない。残された人の気持ちは痛いほど知っているからこそ、もう二度とそんな思いを抱いてほしくなかった。
(とにかく……父さんと母さんが思いのほか元気そうでよかった)
次に両親に出会うときは何十年も先の遠い未来だろうとたかをくくっていたため、生きながらにして両親の元気な姿に立ち会えると思っていなかったからなんとも不思議な心持ちだった。
この場は一つ佳奈に感謝の言葉でも伝えておこうとしたけど、僕を旅立たせた張本人はいつの間にか部屋からいなくなっているし、熱がぶり返してきたのか体を動かすのもままならなかった。
インナーが汗でベトベト肌にまとわりついてきて気持ちが悪い。それに食欲が少しだけ出てきてお腹が鳴った。
けれど、僕の周りにはそのことを知っている人はいなかった。
助けを呼ぼうにも声が掠れてうまく言葉にすることができない。出せたとしても、僕の声が聞こえる人はいない。
夜中の寂寞が必要最低限の家具を闇に溶かす。
そして、僕の部屋はすっかりがらんどうになっていた。
いつもの部屋が僕にとって少しだけ広く感じて、それでいて悲しかった。
◇◇
階段を上がる音がした。普段聞きなれない不規則な音だった。
「入るねー」
佳奈は部屋の電気を肘で器用に付けると、土鍋を乗せたお盆を僕の机に置いた。
「お腹空いてると思ってさ、台所借りて作ってきたんだけど食べられそう?」
「うん……ちょうどお腹減ってきたとこ」
「よかったー」
佳奈は心底胸を撫で下ろすと、土鍋の蓋部分に布巾を当ててパカッと開いた。
ゆらゆらとゆらめく湯気と一緒に美味しそうなだしとご飯の香りがあたり一面に漂った。
「それって……」
土鍋の中には母さんが風邪を引いたときによく作ってくれた『たまご雑炊』が盛られていた。
「懐かしいでしょ……これ、ユキトのお母さんから作り方を教わったんだ。アイナちゃんにもさっきちょこっとね……って言っても、ここんとこユキトに作る機会が全然なかったんだけど」
佳奈は笑顔を浮かべると、鍋をゆっくりとお盆の上に載せた。
佳奈の言うとおり、両親が亡くなってからはめっきり風邪を引かなくなったので『たまご雑炊』を食べる機会がなかった。けどそれ以上に、佳奈が母さんからレシピを教わっていたことにびっくりした。そういえばと、中学生くらいまで佳奈が家に来ては母さんの料理を手伝っていてくれたことを思い出した。
しかし、両親が亡くなってからは佳奈は僕の家に入らないようになっていた。その原因は当時の僕にあるんだけれども。
昔の思い出に浸っていたところ、佳奈が一口分の雑炊をレンゲによそい、
「ふーふー」
と、熱を冷まし始めた。
前に垂れる髪を耳にかける佳奈の姿が、母さんのそれとダブって見え、胸の奥底が締め付けられる。そして、知らず知らずのうちに僕の目の端には温かいものが込み上げていた。
(これ以上はダメだ……)
袖口で目元を隠す。
弱っている姿を見せちゃいけない。
余計な心配をかけちゃいけない。
強くならなくちゃいけない。
アイナのために僕はそう決意したのだから——
ただ、いままでの僕を形成していた固い決意を前にしても鼻水と涙が止まらなかった。
「我慢しなくて、いいんだよ」
佳奈の言葉がじんわりと響く。袖越しに優しい熱が伝わる。
どうして、僕の欲しい言葉が佳奈にはわかるんだろう。
言葉にしていなくても伝わる、その嬉しさを噛み締め、ただひたすらに僕は泣いた。




