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ちょいエロ。
三人で毎日のように通っていた路を、ぼぅとしながら僕は一人で歩いていた。
見上げた空は曇天。湿り気を含んだ土の匂いと、むわりとたちのぼる汗のにおいが鼻の奥を抜けるたびに、心の中がどんよりとした。ただ、その理由は天候のせいだけじゃないのだろう。親友が僕に大事な話があるんだと報告した屋上の場面を思い起こすと、胸の奥底がギュッとしめ付けられたからだ。
親友から放たれたものは、普段と変わらない平坦なトーンの言葉だった。言いよどむわけでも焦るわけでもなく、何気ない日常のひとときを切り抜いたくらいのささいな一言だった。だけど、僕たちの過ごした十年間という歳月にピリオドを告げるには十分すぎるほどの鉛玉だった。
いつまでも僕たちが友達どうしでいられるのは難しいことくらいわかっていた。いずれ、それぞれがぞれぞれの家庭をもって、もしかしたら子供を授かって、未来へと思いが繋がって、そうした流れの中で僕たちの関係性はまるでアイスクリームがあたたかいところで溶けるくらいのゆったりとした速度で薄れることは、なんとなくだけどわかっていた。
わかっていた……けど……
頭上に雨粒がぽたぽたとこぼれ落ちる。傘をさすほどでもないけど、濡れるのはそんなに好きではない。だから、カバンから折り畳み傘を出そうとしたのに、中に入っていたのは授業用のテキストとノートだけだった。そうだ、昨日使ったときに玄関先に置きっぱなしだった。
『ほら、ユキト。どうせ傘忘れたんでしょ?』
鈴が鳴ったような朗らかな声が聞こえて振り返るが、そこに見慣れた姿はない。ただ、同じ制服を着て下校している生徒と、サラリーマンがいそいそ帰り道についていただけだった。
雨足が強まる歩道を僕は無我夢中で走った。頭の中を空っぽにするように、走ること以外の雑念を忘れさせるように。でも、そうやって意識すればするほど、僕の中の大切なかけらはガラスに入り込んだヒビみたいに割れていく。一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、その破片がパラパラとこぼれ落ちていくような感覚に襲われていく。そして、いつの間にか僕の足もとには思い出という名の真っ黒な水たまりができあがっていた。
足元に広がっていた闇は、意志を持っているみたいに上へ上へと艶かしく立ち上り、全身を絡めとった。行き場のない息苦しさが空間を満たし、どこに僕が立っているのか、どこを向いているのかわからない恐怖が生まれた。
寒い……誰か、誰か助けて……
心の叫びは誰にも届くことがない深い闇の中へと溶けていく。しかし、体全体が虚空へと霧散するその刹那、ほのかな暖かさに身を包まれた。気づくと、玄関の前で立ち尽くしていたのだった。
「おかえり兄貴……って、めっちゃ濡れてんじゃん」
扉を開けると、エプロン姿のアイナが玄関先で出迎えてくれた。僕が雨でびしょびしょになっていたのに気付くと、ぱたぱたとスリッパの音を立てながらタオルを持ってきてくれた。
「これ、おろしたばっかりだから」
タオルを受け取って頭を拭くと、ほのかにラベンダーの香りが漂った。「ありがとう」「早く服を脱がないと風邪ひいちゃうよー」そんなやりとりをしながら、僕は濡れた制服を脱いで洗面所に置くと、寝巻きに着替えた。
「きょうはどったの?」
リビングに腰を落ち着けると、アイナは鍋で何かを煮込みながら尋ねた。アイナと僕だけの家の中は、ガラスを打ち付ける雨粒の音が響いている。
「どったのって……別に何も……」
僕はアイナの後ろ姿を見て、そして、窓際に視線を向けて頬杖をつく。そうすることで、少しでも気持ちを落ち着かせたかった。
「何もなかったら、こんな時間にびしょびしょになって帰ってこないでしょ」
アイナの問いかけに反応して、思わずそちらをじっと見つめてしまった。ちょうど僕の方に振り返ったアイナの力強い瞳に射抜かれると、秘めたる思いを正直に明かさざるを得なくなる。
「佳奈姉ぇと喧嘩でもした?」
核心をつくような物言いに、思わずどきりとする。
「喧嘩っていうか、まあ……多分、それに近いんだけど……でもそういうんじゃなくて」
どういうふうに話していいのか返答を窮していた僕に、
「どーせすぐ、いつもみたいにパパッと仲直りするんでしょ? ね、彼氏さん」
と、アイナはクスクスと笑いながら応えた。普段だったら気にも留めないようなからかいだったけど、このときばかりは顔が引きつるのを止められなかった。
「……多分、もう、仲良くしちゃダメなんだと思う。それに……僕は佳奈の彼氏じゃないし……てか、佳奈にはもう……」
歯切れの悪い返答にただならぬ空気を感じたのか、アイナは火を止めると、僕の対面に座って真面目な表情を浮かべた。そして、机の上に置いてあったシャーペンを口元に当てて、うーんと唸ると、
「じゃあさじゃあさ、あしたの休日、デートしようよ、デート」
と、言った。アイナのことだから、僕の気を紛らわせようとしてくれているのかもしれない。元に、僕が佳奈とちょっとしたことで喧嘩したときとかには、ちょくちょくアドバイスをもらったりしていた。
「デートねぇ……」
「ウチと遊ぶのがそんなに嫌?」
アイナがわざとらしく目をうるうるさせると、猫撫で声で言った。
「嫌なわけ……ないけど」
「ってことは、デートに行ってもいいってことだよね!」
いますぐにでも家を飛び出して遊びに出ていってしまうほどに期待に満ち溢れた視線、それに普段からアイナにお世話になっていることもあるので、無下にするわけにもいかない。年頃のアイナと二人っきりで出かけるのは毎度心苦しいものがあるが、僕は小さく嘆息をすると、「いいよ」と呟いた。
「やった!」
と、アイナは言うと、小さくガッツポーズした。勢いよく立ち上がりエプロンのしわをはたくと、アイナは料理を再開した。とても機嫌がよいのか、鼻歌を歌いながら鍋底をかき回している。
「あした、楽しみにしてるよ」
僕はアイナに向けて笑顔を向けた。ぜんぶがぜんぶ気持ちに整理がついたわけではないけど、少なくともアイナとの約束は僕の胸に生えたささくれを優しく撫でてくれた。
「兄貴、起きてー、朝だよー」
部屋をノックしながら奏でられるアイナのモーニングコールで目を覚ました。
眠気まなこで天井を眺めると、一体いつ付いたのかわからないシミが、点々と層をなして渦になっていた。胸に手を置いて昨日のできごとを振り返った。しかし、心の喧騒はきのうと比べると、まるでもとから存在していなかったのかなと疑いたくなるくらいに静まり返っていた。
このまま、過去のあらゆるすべてがなかったことになればよいのに。そして、嫌なことから抜け出して身勝手に生きられればいいのに。それと同時に、その幻想を抱き続けるに、僕はあまりにも子供を卒業し始めていたんだことに気付かされた。あらゆる事象は自己責任だという事実は、不幸にも、僕に大切なことを伝えてくれたのだった。
「いま行くよー」
と、返事すると、アイナが階段を降りていく音が聞こえた。
ベッドから出て身支度を整える。姿見が反射するのは昨日と変わらない日常。だけどどこか昨日とは違う風景。勉強机、参考書、通学バック。そこに映り込んでいる一つ一つの要素が、連綿と続く日々の積み重ねを知らず知らずのうちにたくわえていて、それはきっと、僕自身もそうなのかもしれない。
階段を降りると味噌の香りがリビングの中を漂っていた。アイナはエプロンをキッチン棚にかけると、ご飯と味噌汁をよそい始めた。
机の上であい向かいに並ぶ二人分の和食は、僕とアイナの分である。両親は僕が中学生のときに交通事故で亡くなっており、それからは二人でどんなことも乗り越えてきた。ありがたいことに、僕たちが過不足なく生活するくらいのお金を残してくれたおかげで不自由なく生活できていた。ただ、僕自身、両親のいない寂しさを感じることが少なくなったが、家族連れで遊ぶ人たちを見かけるたびにアイナが遠い目をするのは、いたたまれない気持ちになる。
だからこそ、アイナが寂しさを感じないようにできるだけ二人の時間を大切にしていた。食事を揃って食べるようにしているのもそういった理由だったりする。
「きょうもめちゃくちゃうまそー」
と、言うと、アイナはニッコリと笑った。鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし、豆腐に、ひじきの煮物、机の上には僕の大好物の和食が溢れていた。
「それじゃあ冷めないうちに……いただきます」
アイナと一緒に手を合わせてから、朝食を食べ始める。
温かい食事というのは心まであったかくなるような気がする。大切な人と一緒に食べるとなおさらだ。
「だいぶ顔色がよくなったね」
おかずを小さく崩しながら口に運ぶアイナは、小動物的な可愛らしさを醸し出していた。
「そうかな、自分じゃわかんないや」
「もしかして、ウチとのデートが楽しみだった?」
と、言うと、アイナは不適な笑みを浮かべた。
「はいはい、楽しみ楽しみ」
「むー」
僕がふざけた調子で応えると、アイナは口を尖らせた。本人としては抗議のつもりなのだろうけど、その行為は愛嬌と例えた方が適切だ。
「それで、きょうはどこに連れていってくれるの?」
「そうだな……この前できたばっかりのショッピングモールはどう? あそこならアイナが買いたいって言ってた服もあるだろうし、大体のアミューズメント施設は揃ってるでしょ」
僕はスマートフォンでショッピングモールのホームページを開くと、アイナにも見えるように机の上に置いた。
「いいねぇ。ちょうどアクセも欲しかったんだー」
アイナはスマートフォンを下にスワイプしながら、種々の施設を斜め読みし始めた。ところどころお眼鏡にかなった場所を見つけては、栗色の瞳を輝かせた。そんな可愛らしい姿を見れるのだったら、たまに一緒に出かけるのも悪くないな、という心持ちがした。
「おっけー……じゃあ、ショッピングモールで決定な」
「うん! あ、あと、せっかくのデートだから現地集合にしようよ。そっちの方がそれっぽいでしょ」
と、アイナは何の恥じらいもなく言ってのけた。逆に、僕の方が照れ臭さを感じてしまうくらいだった。両親がいなくなったことで一日中ふさぎこんでいたときからは想像もつかないほどの毅然とした態度に、本当になんというか、人の成長も心の移ろいもあっという間なんだなと思わずにいられなかった。
ならいつか、アイナも僕のもとを離れていくんじゃ……。
という思いに駆られたが、そんな日が来ることを後悔するよりも大事なのは、きょうという日を大事にすることだと思い出した。失ってからは遅すぎるのだから。
「集合場所は噴水広場でいいか?」
「りょうかーい」
いまはアイナと一緒にいる時間を、食卓を囲んでいるひとときを楽しみたいと思う。
そうして、大体の予定を詰めながら食事を終えると、僕は食べ終わった食器をアイナのぶんもまとめて流しに持っていった。いつもアイナに食事を作ってもらっているので、僕は僕なりにできるだけのことは手伝うようにしていた。その間は、アイナは自分の部屋に戻って出かける準備をしていた。
軽く身支度を整えてからアイナの部屋をノックして、先に向かうことを伝え、家を出た。
雲ひとつない青空と、ジーーと鳴くセミの声は夏の到来を感じさせた。中空から伸びる日差しを弱めるために手のひらをかざすと、小さな鳥が二羽並んで上空素早く横切っていた。立っているだけで汗が吹き出してくるほどの暑さだったので、熱中症にならないようスポーツドリンクを口に含んだ。
ショッピングモールへの道のりは徒歩三十分ほどの距離があり、軽く背伸びをしてから歩を進める。葉桜がひらひらと舞い散る住宅街を抜けると、のどかな田園風景が広がった。虫取り網を持ってあぜみちを駆け回る子供たちに懐かしさを感じた。無邪気なままにかけまわる姿は羨ましくもあった。
地平線の彼方まで続くと思われた新緑と青のコントラストを切り裂くかのごとく、無骨な建物は屹立していた。それこそ目的地のショッピングモールであり、公道には県外のナンバープレートをさげた車が増えていた。
エントランスとしての機能を持つ噴水広場に到着すると、備え付けのベンチに腰をおろした。ふくらはぎをほぐしながらあたりを伺うとカップルで賑わっていた。仲睦まじく歩いているカップルを眺めつつ、ふと、親友と佳奈が手を繋いでデートをしている風景を想定してしまった。互いの指を親密に絡め、歩調を合わせて、他愛もない話で盛り上がる。そんな姿を考えたところで意味がないのに、一度想像してしまうと、その奔流を避けることができなくなっていた。
ゆっくりと深呼吸して目を閉じた。胸を押さえると心拍が下がり始めた。すると、先ほどまでのイメージがおぼろげになり、今度は佳奈の隣に僕が立っていた。僕は首を左右に振ると、両手で勢いよくほほを叩いた。少しでも気を紛らわせようとしたけれど、ピリピリとした痛みが皮膚に残るだけだった。
スマートフォンで時刻を確認すると、ディスプレイは十一時を示していた。あとからやってくるアイナのために自販機で飲み物でも買っておこうと立ち上がったら、背後から肩を叩かれた。
「お待たせ」
振り返ると、そこにいたのは白のワンピースに身を包んだアイナだった。
「どうかな?」
アイナがその場でくるりと回った。髪の先を滴り落ちる汗の粒、ワンピースから生える健康的な小麦色の肌が太陽の光を受けてよりいっそう艶やかに輝いた。陸上部で鍛え上げられその美しさには、妹ながら見惚れてしまうものがあった。
「うん、似合ってるよ」
と、言うと、アイナは満遍の笑みを浮かべた。その威力たるや、この場の衆目を全て集めるくらいには凄まじかった。
「兄貴もいい感じ!」
軽快にサムズアップするアイナに合わせて、僕もサムズアップを返す。普段よりフォーマルな装いで来たかいがあったもんだ。
「さてと……中に入って涼もう」
「はーい」
噴水広場を抜けて、ショッピングモールの中に入る。ショッピングモールは県内随一の敷地面積を誇る複合型ショッピングモールで、衣服、雑貨、飲食、映画館などが併設されている。きょうは休日ということもあり、家族連れだけでなく学生の姿も多く見受けられた。僕たちはだたっ広い中央広場で開催されていた物産展を眺めつつ、エスカレーターを上った。階層そのものが服飾関連のお店の集まりになっているフロアに降りると、アイナはあらかじめ目星をつけていたショップへと一目散で向かった。
オーデコロンの甘い香りがする店は、ふわふわもこもことしたガーリーアイテムが揃っていた。店内は女性しかおらず僕の存在は浮いていたが、アイナは特に気にするふうでもなく、一つ一つのアイテムを体に合わせては、「どうこれ?」と、言って、小首をかしげた。僕からするとどれもこれも似たようなデザインな気がしていたが、適当に相槌をうつとアイナの機嫌が大幅に損なわれてしまうという経験上、二人で服を買いに行くときは決まって少々考えている感じを装い、マネキンの模範的なセットアップにならって解答するようにしていた。
そんなわけで、僕がいろいろとアドバイスするたびに上機嫌になってくれるのは嬉しいけれど、なんとも気まずい心持ちがしていた。
何着かお気に入りのセットアップを見繕うと、
「試着してくるねー」
と言って、試着室に向かうアイナに若干ほっとしたところ、彼女と入れ替わりで、試着室から見慣れた人物が現れた。
「あっ……」
佳奈は僕に気づくとさっと僕から視線を外した。僕も気まずさのあまり視線をそらした。すると突然、僕の腕は引っ張られ、試着室の中へと連れ込まれた。試着室は三人分のゆったりとしたスペースがあったのだが、佳奈は僕にぴったりとくっついていた。
「ごめん……急に……」
佳奈は蚊の鳴くような声で囁き、僕の裾をきゅっと握りしめた。跳ね上がった心拍が佳奈に聞こえちゃうんじゃないかとビクビクしていたが、彼女の様子が尋常でないことに気づいた。カチカチと歯の鳴る音が絶え間なく聞こえるくらい震えており、その額から大粒の汗が溢れていた。急に体調が悪くなったにしては、あまりにも症状が重すぎだった。
「救急車呼ぶ?」
胸の中で頭を左右に振った佳奈は、さらに袖を強く握った。一体彼女に何がおこったのだろうか、問いかけようにも受け答えが満足にできそうな状態ではないので、彼女が落ち着くまで沈黙の帳を下す。
それを破ったのは試着室へと近づく革靴の音だった。カツカツと床を鳴らす音がくっきりと聞こえると、佳奈の肩がピクッと跳ねた。
「ちょっとトイレ行ってくるわー」
試着室の仕切りの向こう側から聞こえてきたのは親友の声だった。この状況を気付かれるのは非常にまずい。背筋が凍るような思いでじっとしていると、革靴の音が離れていった。
佳奈はふぅとため息をつくと、舌を出しながら、にひひと笑った。ただ、無理して笑おうとしてるのがわかりやすいくらい袖を掴む力は全くおさまっていなかった。
「一か八かだったけど、バレなくてよかったね」
「ああ……うん……えっと……」
一難去ってまた一難というか、僕はこの状況をどうやって乗り越えるべきか考えていると、佳奈はゆっくりと僕から離れた。
「ふふ、めっちゃドキドキしてた」
佳奈は僕の胸に人差し指を押し当てると、いたずらっぽく笑った。先ほどまでとは打って変わっていつもの調子に戻ったみたいだったので、小悪魔的な笑みに磨きがかかっていた。
「そりゃあ……まあ……」
恥ずかしさのあまり頭をぽりぽり掻いていると、佳奈は背伸びして、僕の唇にキスをした。僕は突然の出来事にびっくりして、反射的に唇を離した。
「ちょっ……」
「いま……だけ、だから……」
佳奈のすがるような目つきは真正面に僕を捉えていた。否が応でも、佳奈の唇に視線が寄ってしまう。
「いま……だけ……」
僕は佳奈の言葉を復唱すると、それをトリガーにしてこの世のものとは思えないほどの柔らかな感触が口の先に広がった。互いの鼻息がかかるくらいの距離で視線が交わった。じっと佳奈の瞳を見つめると、今度は舌を唇に押し当ててきた。僕もそれに応えて、互いの舌と舌を絡ませた。ぴちゃぴちゃと舌の転がる水音が耳介を伝播し、熱を帯びた吐息がうねりをあげた。身を持て余すほどの多幸感が脳内を駆け巡り、視界がパチパチと弾けた。あたまの中がドロドロに溶け出し、徐々に意識が薄れていった。
「……そろそろ行かないと、アイツが来ちゃう……」
互いの舌先からだらりと伸びる唾液の糸が名残惜しそうに切れると、夢のような時間は唐突に終わりを告げた。
佳奈はそれ以上は何も言わず、仕切りをちょっとだけ開けて周りに人がいないか確認すると、そそくさと立ち去った。試着室にたった一人取り残された僕は、むせかえるような芳香が満ちた場所で立ちすくんでいた。唇に触れると、ほんのりとした熱を帯びて、リップのぬめぬめとした感触が残っていた。
(どうして、佳奈はキスをしてきたんだろうか……)
次第にはっきりとしてきた頭をフル回転させて、僕はその理由について考えを巡らせていた。ふと、ありもしない不穏な影がはしったとき、ポケットに入れてあったスマートフォンが振動した。通知を確認すると、『さっきの、ハジメテだったから』と、佳奈からメッセージが届いていた。
(もしかして、佳奈は僕のことを……いや、そんなはずは……)
再びスマートフォンが振動すると、『今どこにいるの(怒)』と、アイナからメッセージが届いた。僕はアイナに見つからないように試着室をならべく急いで抜け出して、
『ごめん(汗)お腹痛くてトイレ駆け込んでた。なる速で向かってるから』
本当のことを言うわけにもいかないし、誤魔化すことにした。
『着いたら連絡して‼️ 兄貴にはウチを待たせた分のツケをきっちり払ってもらうから』
不穏な返信をよそに、わざとらしく息を切らせながら『到着!!』と連絡した。もちろんこのあと、僕の自腹でアイナの衣服を買う羽目になったのだけど、それはここだけの秘密だ。