またもや続・人と話せるキツネに叱られた。
「まったく……気を付けろよ!」
「はい、すみませんでした……」
デスクで資料を整理しながら、俺はその様子を見守っていた。
怒られていたのは、俺の同僚で同い年の萩野。そして彼を事務所中に届き渡る声で怒鳴りつけていたのは、俺達の上司の坂井さんという人だ。
坂井さんは俺や萩野より20歳ほど年上で、普段は優しくて面倒見がいい人だった。長らくこの浄水場に勤めている大ベテランで、仕事への責任感や情熱は人一倍強く、俺達若い職員からは慕われている一方、怒らせないほうがいい上司として認知されてもいた。
萩野に対する坂井さんの説教は3分くらい続き、終わった。
肩を落とした萩野が、とぼとぼと歩いて席に着く。彼のデスクは、俺の隣だった。
「大丈夫か?」
恐る恐る、俺は萩野に声を掛けた。
気にするな、と言うことはできなかった。俺達の役目は安全で良質な生活水を作って地域の人々の健康を守り、豊かで潤いのある生活を提供すること。その仕事を仕損じた以上、怒られるのは仕方がない。
萩野は力なく頷いた。
「ああ……大丈夫」
本来、萩野は今日は休みだ。
しかしやらかしたミスの度合いが大きかったらしく、坂井さんに半ば強引に呼び出されてしまった。
萩野の家は、この浄水場から車で数分の場所にあり、往復するのはそこまでの負担ではない。それでも、休日返上で職場に来なくてはならなくなったのは気の毒だな。
早いとこミスの収拾をつけて、帰らせてやろう。
「しっかりな。車も買ったんだし、家族を守らないと」
「うん、ありがとう」
俺が慰めると、萩野はまた力なく頷いた。
5年ほど前に結婚した萩野は、今は1児の父親だ。前に娘さんにあったことがあるんだが、とても可愛い子だったのを覚えている。
さらに彼は半年ほど前に、車も新しい物に買い替えていた。前々からテレビCMで『遊べる軽』という触れ込みで紹介されている、スズキの新型ハスラーだ。きっと萩野は、子供の成長に備えて車種を選んだんだと思う。
家族を養うということの責任と重みは、恋人もいない俺には想像もつかない。
「ちょっと缶コーヒー買ってくるわ。萩野、お前も飲むか?」
「貰うよ」
俺は席を立った。
今は7月……夏の真っ只中だ。
事務所内には数台の扇風機があるが、クーラーまでは備えつけられていない。
外気温度は25度を超えていて、事務所でデスクに向かっているだけで額に汗が浮かんでくる。いや、それでもまだマシだった。もしも扇風機が無かったら、俺自身も含めて職員は全員汗だくになっていただろう。
とにかく、冷たい飲み物で一息入れよう……そう思った俺は、ポケットから財布を取り出しつつ施設内に設置された自動販売機に歩み寄った。キンキンに冷えた缶入りのブラックコーヒーを、俺と萩野の分で2本分買うつもりだったのだ。
小銭を投入口に入れようとした、その時だった。
「誰か、誰か来てくれ!」
入口のほうから聞こえてきたのは、大いに聞き慣れた声だった。
えっ? 俺は疑問に思った。
小銭をしまい、財布をポケットに戻して駆け出した。
「誰か、頼む!」
切迫した様子で発せられるその声は、近づくごとに鮮明に耳に届いた。
同時に、バンバンと何かを叩くような音も聞こえてきた。
間違いない、この声はやっぱり……! 程なくして、声の主が俺の視界に映った。
「っ……!」
俺は思わず、息をのんだ。
声の主は、キツネだったのだ。
だがもちろん、ただのキツネなんかじゃない。俺の友達の、人と話すことができるキツネだった。
「大変なんだ、来てくれ!」
キツネは叫びながら、その前脚で入り口のガラス戸をバンバンと叩いていた。
俺は困惑した。というのも、このキツネは人に姿を見られることを嫌い、基本的に人前に現れないからだ。こんな人目につくようなことをするだなんて、絶対にありえないはずだった。
キツネの叫び声、それに彼がガラス戸を叩く音を聞きつけ、職員達が続々と集まってくる。
「何の音だ?」
「えっ、キツネ?」
職員達がざわめく。
しかし、キツネの言葉が聞こえるのは俺だけだ。他の職員達には、キツネの発する声はただの吠えにしか聞こえないだろう。
そしてさらに、坂井さんまでもが現れた。
「何なんだあのキツネ……追い払ってやる!」
玄関脇に置かれた竹箒を手に取り、坂井さんはキツネのところに向かおうとした。
「あっ、ちょっ……いいですよ坂井さん、俺が行きますよ!」
俺は慌てて、坂井さんを制した。
竹箒なんか持って、キツネに暴力を振るわれたりしたらたまったもんじゃない。
「は? お前、大丈夫なのか?」
「ええ。坂井さん、忙しいでしょう? 俺に任せてください」
竹箒を元の場所に戻しつつ、坂井さんが「そうか……? じゃあ、頼む」と言った。
そして俺は、ガラス戸を開けた。
俺が行くと、もうキツネは声を発することも、前脚でガラス戸を叩くこともしなかった。
玄関前の開けた場所で、周囲に誰もいないことを確認してから、俺は膝を曲げてキツネと視線を合わせた。
「どうしたんだ?」
このキツネが、あんなことをして人を呼ぼうとするなんて、何かがあったに違いなかった。
「白の新型ハスラー、あの車の持ち主は誰だ!」
「白の新型ハスラー……!?」
キツネから投げかけられたのは唐突な質問ではあったが、俺はすぐに答えを導き出した。
この浄水場の職員で、その車種に乗っているのはただひとりだったからだ。
「俺の同僚の萩野ってやつの車だけど、それがどうし……」
「そいつ、車の中に子供を置き去りにしているぞ!」
俺の言葉を遮って、キツネが叫んだ。
その意味を頭の中で整理するのに、一時を要した。
この炎天下の中、車の中に子供を置き去りにする……それって、つまり……!?
「ついて来い!」
俺の返事を待たずに、キツネは駆け出した。
思考を中断して、俺はその背中を追う。キツネは走るのがとても速くて、全速力で走ってもその後ろ姿がぐんぐん遠ざかっていった。
駐車場に着いたころにはたちまち汗だくになってしまったが、立ち止まっている暇はなかった。
白の新型ハスラー、つまり萩野の車の中を覗き込み、俺は目を見開いた。
――後部座席で、幼い女の子がぐったりとしていた。萩野の娘に間違いなかった。
「ああっ……!」
キツネの言っていたことは本当だった。
萩野は炎天下の中、幼い娘を車内に放置していたのだ。
気が動転した俺は、車のドアハンドルを握って無造作に引いた。だが、もちろんドアが開くはずなどない。ガチャガチャとうるさく音が鳴ったが、女の子は目を閉じたまま、一切の反応を示さなかった。
彼女の顔には汗の雫が浮かんでいて、一刻を争う状況なのがわかる。
「その萩野ってやつを呼びつけろ! 今すぐに!」
パニックになっちまって、もうどうすればいいかもわからなくなっていた時、キツネに言われて我に返った。
とにかく、女の子を救出するのが最優先事項だ。それには、萩野をここに呼ぶしかない。
ポケットから携帯電話を取り出して、萩野に電話を掛ける。
『もしもし?』
呑気な声で応答する萩野。
「萩野お前、何やってんだ!」
『え、えっ……!?』
萩野は困惑するような声を発した。
状況が理解できていないようだった。
「お前、車の中に子供を置き去りにしているぞ!」
さっきキツネが俺に言ったように、俺は萩野に叫んだ。
『あ、あああっ……! 今行く!』
やっと状況を理解したのだろう、狼狽するような声を最後に、電話が切れた。
その後、駆けつけた萩野によって車のロックは解除され、女の子は助け出されて病院へ搬送された。
後日聞いたのだが、車内に取り残されていたのはほんの数分で命に別状はなく、後遺症も残らなかったらしい。
安堵すると同時に、恐怖を覚えもした。だってそうだろう、もしも発見が遅くなっていたら、もしもキツネが、車内にあの子が取り残されていることを教えてくれなかったら……きっと最悪の事態になっていただろうから。
「萩野の娘、発見が早かったお陰で、後遺症も何も残らないってさ」
その日の昼休み、俺は庭園で会ったキツネにお礼を言った。
それを聞いたキツネは、草むらでお座りをしながら、
「そうか、それは良かった」
昼飯の焼きそばパンを片手に持っていたんだが、俺はまだ食べようとはしなかった。
「だけど、驚いたよ。車に取り残された子供が熱中症で命を落とすってニュースは何度か聞いたけど……まさか、自分の身近で起きるなんてさ」
あの日、本来休みだった萩野は娘を連れて出掛けようとしていたらしい。
だが、急遽職場に呼び出されたことの焦りと、さらに女の子が車の中で眠ってしまったことで、娘を連れてきているということを失念してしまったそうだった。
車を降りた萩野は、もちろんエアコンも切っていた。そこに偶然通りかかったキツネが、車内から聞こえる娘の声を聞きつけて、知らせてくれたのだ。
そもそもの発端は過失だったとはいえ、不可抗力と断じることはできなかった。これは人災だろう。
「人間は忘れる生き物だからな。だが、もっとひどい事例もある。子供を炎天下の車内に放置してパチンコに興じる親だっているぞ」
「マジかよ……!」
キツネの言葉に、俺は開いた口が塞がらなかった。
自分の子供よりもパチンコが大事だってのか、とんだ毒親がいたもんだな。
「あのさ、今回もありがとな。あの女の子が助かったのは、お前のお陰だよ」
「気にするな」
俺がお礼を言うと、キツネは後ろ足で頬をぽりぽりと掻いた。
文字通りキツネ色の毛並みが、陽の光を受けて輝いていた。
「だけど、よかったのか? 今回の件でお前……うちの職員の多くに姿を見られちまったぞ」
「でも、あの女の子は助かっただろう?」
キツネは即答した。
「それに比べれば、姿を見られたことなんて安いものさ」
庭園のどこかを見つめながら、キツネはそう言った。
自分のことを厭わず、人を助けようとしてくれる。その心に、俺は心からの尊敬を抱いた。
「なあ、ひとつ訊いてもいいか?」
「どうした?」
キツネと視線が重なる。
「気を悪くしたら申し訳ないんだが、お前は野生動物に身勝手な餌付けをする人間を良く思っていなかったと思うんだ。どうして俺達を助けてくれるんだ?」
それは、前々から気になっていたことではあった。
キツネは、俺から視線を逸らし、どこか遠くを見ながら、
「お前の言う通り、少し前まで俺は人間が嫌いだった。だが、人間みんながみんな、悪いやつじゃないのではと思えるようになってな」
「そりゃまた……どうして気が変わったんだ?」
キツネは、また俺のほうを向いた。
「お前だ、お前がそうさせたんだ」
【子供の車内放置】
夏の時期になると、炎天下の車内に取り残された幼い子供が熱中症で命を落とすという痛ましいニュースを耳にする。
子供は大人と比べて体温調節の機能が未成熟であり、エアコンを切った車内はものの数分で危険な温度にまで上昇する。
どんな理由があれど、子供を車内に放置する行為はれっきとした『児童虐待行為』であり、死亡させてしまった場合は『保護責任者遺棄致死罪』に問われることになる。たとえ短時間であろうと、絶対に子供をひとり車の中に残してはいけない。
そして、もしも車内に放置されている子供を見かけた場合は、警察もしくは児童相談所全国共通ダイヤル『189』へ通報を!