96話 悩み事
義妹なのか彼女なのか、嫁なのか婚約者なのか、いよいよ悠羽との関係性がわからなくなっている。一緒に暮らしているし、これからもずっとそうだと思うし。ただ婚姻届を出してないだけで事実婚状態ではある気がする。
エチエチお姉さんを求めて彷徨ってから約半年。一番身近だった義理の妹とゴールインすることになると、あの頃の俺に言っても信じてくれないだろう。ただでさえ俺は嘘つきなので、自分の発言すら信用ならないわけだし。
「エチエチお姉さんドリーム……か」
かつて抱いた年上グラマーお姉さんとの淫らな暮らしは、今では遠く彼方。少なくとも来世までは遠ざかってしまったわけだ。
悠羽との暮らしに不満はなく、なんなら最近は可愛すぎて頭から離れず、夜も眠れないというザコ中学男子みたいな状態に陥っているわけだが。おかげで朝起きられず、起こしてもらうという神イベントが起こり、それが原因でまた眠れないという負のループ。
それでもやはり、エチエチお姉さんの可能性を失ったのは、寂しいものである。
たとえるなら厳しい冬の終わりのようなものだ。来たる春を喜ぶ気持ちと、冬の厳しさが消えていくことを物寂しく思う和の心。
要するにエチエチお姉さんは風流で冬の季語。
とは言うが、別にエチエチが可愛いに負けたわけではない。俺の中で二つは等価であり、何物にも代えがたい価値を持つ。
あいつが特別なだけだ。
俺が抱えていた引け目や、隠していた傷ごと抱きしめてくれたから。抗えないほどに惹かれてしまう。
恋など通り越したと思っていた。だが、愛と恋は決して互換性のあるものではなかった。
愛しながら、恋に落ちることもあるらしい。
目蓋の裏にはずっと今朝の笑顔が残っているし、抱きしめた体温も、唇の柔らかさも鮮明に覚えている。浸ってしまえば余裕で彼女の帰宅までは持つ。
だがもう、仕事の時間だ。
濃いめに作ったコーヒーで甘ったるい思考を流して、パソコンに向かう。
仕事関連で届いたメールを読んで、今日やるべきことを整理。作業を始めればちゃんと集中できる。
クリスさんの依頼も、最近ではだいぶ手応えを感じるようになってきた。向こうも評価してくれているらしく、英語の割合も増えている。不安な部分は電話で打ち合わせして、彼の伝えたいことを表現できる日本語を探す。
なるべく自然な翻訳ができるよう、最近は海外ドラマを日本語字幕で見たりしている。フレーズを耳で聞き取って、どんな訳がなされているかを確認する。秀逸だと思ったものはメモを取って、自分の手札に加えていく。
すぐに力になるわけではない。言葉なんて無限にあって、そのくせ使い時は限られる。だから学び続けるのだ。歩みを止めれば、その瞬間にこれまでの全てが崩れていくから。
キーボードを叩き、マウスを動かし、一つ一つ依頼を処理していく。
仕事をするのが好きだ。生きることに対して、ポジティブな行為だから。
けれど今の仕事が好きかと言われると、曖昧な気分になる。
別に嫌いじゃない。場所を選ばずにできるから、悠羽と過ごす時間を作れる。停滞した人間関係もないし、労働時間も自分で決められる。普通は自己管理が壁になるらしいが、その点俺は楽に突破できた。
昔からずっと、自分でやらねばなにも得られないのが当たり前だったから。
やる気を出さなければ、その被害を直に被るのは自分だった。ゆえに、自分をコントロールするのは苦手じゃない。
それでも。
死ぬまで続けたいかと問われたら、素直に頷くことはできない。
それはきっと、俺の人生が今日と明日だけではなくなったからだ。
一年後があって、十年後があって、その先もずっと続いていく。
当然俺のできることも増えていって、考え方も変わっていく。その中でもずっと、この働き方をするのだろうか。
生き延びることが目的だったはずなのに、気がつけばよりよい生き方を探している。
満たされるほどに強欲になる。自分の逞しさに呆れてしまいそうだ。
「……どうしたい、か」
就職したいわけでもなく、現状に大きな不満があるわけでもなく。ただ漠然と悩んでいる。
悩みながらも仕事は溜まるし、生きてりゃ金も減っていく。簡単にふらつけるほど、今の俺の一歩は軽くない。
この重さを失わないために、今はまだ先送りにしておこう。
そう決めてまた、画面を睨む。
◆
「ねえ志穂、やっぱり嫁入り道具ってあった方がいいのかな」
「待て待てい」
本格的に寒くなってきた昼休みの中庭で、悠羽と志穂は弁当箱を広げていた。制服のシャツの上にセーターを着てはいるが、それでも寒いものは寒い。風が吹くたびに首をすくめながらのランチだ。
それでも、教室よりは喋りやすくて快適なのである。
進学校の11月ともなれば、教室の隅々から悲壮感が漂い始める頃合いだ。
共通テストで何点取れなかったら足切り、抜けても二次試験が絶望的。みたいな現実と向き合った結果、心が衰弱していく生徒たちが鬱屈とした空気を放つ。
とても楽しく恋バナできる環境ではないのだ。
志穂は余裕のある志望校を選んだので、受験ではなく友人の惚気具合に頭を悩ませることができる。
「やーっと恋人らしくなって、もう結婚は早いって」
「でも、同棲してるし」
「た、確かに……恋人と一緒に暮らしてたら同棲かぁ」
ついこの間までは家族としての延長。みたいな感じだったが、話を聞く限り、最近は完全に恋人である。
ならば一緒に暮らしていることの意味合いも、呼び方も変わるのは当然だ。
「いってきますのちゅーもしてるよ」
「新婚じゃん! 高校三年生が至っていいイチャつき具合じゃない! 淫ら! 若者の性の乱れ!」
やけに生々しい話が出てきて、途端に焦り出す志穂。ちょっと目を離した隙に、なにやら恐ろしい速度で進展している。
悠羽は俯いて、小さく首を振る。
「せ、性は乱れてない……です」
「ほんと? 乱されてない!? 迫られてもちゃんと断れる?」
「六郎はそういうの、無理に言ってこないよ。一緒に寝ようって言っても断られるし」
「一緒に寝ようって言うの!?」
「――あ」
しまったと口を開けて固まる悠羽。それを上回る驚愕で凍り付く志穂。
見つめ合うこと10秒。
肩をぷるぷる震わせて、顔を真っ赤にした志穂が叫ぶ。
「ぶ、ぶ、ブラコンの延長で恋愛するな!」
「ご、ごめんなさいっ!」
きゅっと首を縮める悠羽に、志穂は巨大なため息をつく。入道雲一つぶんくらい吐き出して、やれやれと首を振った。
「相手が相手だったら、とっくに襲われてるんだからね。自分の身は自分で守らないと」
「うう……はい」
「ああもう、心配だからその六郎さんに会わせなさい」
「え?」
「ゆはを任せる足る男か、見て確かめたいの」
「勉強はいいの?」
「いいの。ちょっとサボったくらいで、結果なんて変わらないんだから」
「えー」
無茶苦茶なことを言う志穂に、正直あまり気乗りしない悠羽。
「ゆはが結婚なんて、まだ認めないんだから。どこの馬の骨ともわからない男に譲ってたまるもんですか」
「生まれた時から一緒の人だよ」
むすっと頬を膨らませる悠羽に、志穂は耳を塞いで首を左右に振る。
「あーあー聞こえない聞こえない! 二年失踪してたんだからリセットなの!」
「ああ言えばこう言う……」
「そう。変幻自在のワガママ妖怪なんだから。言うこと聞くまで諦めないぞぉ」
「わかったよ。じゃあ、空いてるかどうか聞いてみるから。……ダメだったら諦めてよ?」
「はーい」
ダメだったら、とは言ったが悠羽にはわかっていた。
六郎がむしろ積極的に志穂に会おうとすることを。志穂が過保護であるように、六郎もそうだから。
果たしてメッセージは昼休みのうちに返ってきた。
ガッツポーズする志穂の後ろで、悠羽は肩を落とす。
予想もしていなかった2人の邂逅に、今から不安で仕方がない。




