89話 傘
秋の雨は冷える。
ロングコートを羽織って傘を持ち、悠羽の仕事が終わるタイミングに合わせて家を出た。
傘を持つ指先が冷たくて、そろそろ手袋が必要だなと思う。
サラブレッドに到着して、待つこと10分。裏口から出てきた悠羽が、すぐ俺に気がついて駆けてくる。
「迎えに来てくれたの?」
「朝は降ってなかったから、傘忘れたんじゃないかと思って」
「今はちゃんと折りたたみ傘持ってるよ。昔と違って」
「そっか。じゃあ帰るか」
歩きだすと、自然な動作で悠羽が傘の中に入ってきた。眉をひそめると、少女は面白げに口角を上げた。
「折りたたみ傘あるんだろ?」
「使うとは言ってないじゃん」
「……ま、いいけどさ」
「六郎だって、相合い傘するつもりだったんでしょ」
「なんで」
「だって傘、一本しか持ってきてないじゃん。ふふっ。なんか今日、積極的じゃない?」
「そういう日もあっていいだろ」
落ち着いて返すと、大きな瞳が何度か瞬いて、それから頬が赤くなっていく。顔を上げていられなくなったようで、俯くと俺の袖を掴んでくる。
「いいと思う……ます」
「でた、思うます」
「でたとか言うな! 決めゼリフじゃない!」
「じゃないます」
「もーっ!」
ぽかぽか殴られながらも、水たまりを避けて歩いて行く。ちょうどいい強さだ。今度これでマッサージしてくれないかな。
恨みがましい目で見てくる悠羽は、ぎゅっと唇を噛んでいる。
「お前はほんと、可愛いな」
「ぬぐっ、そんなこと急に言われても信じないもん。絶対裏があるもん」
「適当に褒めたら、晩飯が豪華になるんじゃないかと思ったが」
「ほらぁ!」
「なんてな。どれかが嘘だ」
「ええっ!?」
混乱で目をぐるぐるさせ、少女は口をぽかんと開ける。
「ど、どれが嘘?」
「褒めなくたって、お前の料理はいつも美味いよ」
「――はわわわっ、ほんとに今日どうしたの?」
慌てる悠羽に笑いかけ、傘の下で静かに告げる。
「俺はこれでいいんだって、やっと信じられるようになったんだ」
彼女に自分の想いを告げて、それでもやはり絡みつくものはあった。躊躇いながら進むのは、若干の息苦しさがあったのだ。
けれど、悠羽に優しくする俺を好きだと言ってくれた人がいた。
だからもう、迷わない。ただのシスコン野郎だったあの頃と、変わらなくたっていいのだ。
「つーわけでまあ、うん。そういうことだ」
「微妙に説明になってない気もするけど……」
難しい顔で口元に手を当て、しばしして顔を上げる。解決したふうではなかったが、納得はしたみたいだ。
「でも、それっていいことなんだよね」
「たぶんな」
傘の下、聞こえるのは雨音と悠羽の声だけだ。
上目遣いで少女ははにかんだ。
「六郎からきてくれるの、嬉しいよ」
「…………」
視線を逸らしてしまったのは、直視できないほど眩しかったからだ。もっと簡単な言い方をすれば、可愛すぎる。
どこかでまだ、そう思うことを認められずにいた。
けれど余計なものは、全部小牧が取り払ってくれたから。静かに、けれど確かに俺は変わっていく。
愛なんて高尚なものじゃないかもしれないけれど、この感情だって本物だから。
袖を引っ張られたから、悠羽の方を見る。彼女の瞳には、なにかの決意が宿っていた。
「あのね六郎。もうちょっとだけ、待ってくれる? こんなこと言われても、わかんないと思うけど……でも、頑張って考えてるから。待っててほしいの」
「わかった」
意味は一つもわからないけれど、なにを待つのかもわからないけれど、聞かずに頷いた。
「ありがと。絶対後悔させないから」
「期待してればいいのか?」
「それはやだ」
「へいへい」
相変わらず難しいことを注文してくる。ま、頭の片隅に置いてればいいってことだろ。
家に到着して、傘を閉じる。
玄関で靴を脱いで、洗面所に入った。
「やっぱり傘、小さかったね」
少し濡れてしまった服をパタパタさせて、悠羽がタオルを渡してくれる。湿った頭を拭いて、風呂のお湯を張る。
「風邪引いたら大変だから、すぐ入れ」
「はい。この間風邪引いたのは六郎だから、先に入るべきだと思います」
「運は収束するんだ。直前に風邪を引いたということは、しばらくは健康に生活できる」
「紗良さんみたいなこと言ってる」
「元従業員だからな」
キッチンに移動してお湯を沸かす。ポットに移してから、ホットのコーヒーを作った。カフェイン最高。
パソコンを持ってきて、ダイニングテーブルで作業の準備をする。
片付けを済ませ、風呂に向かう途中で悠羽が思い出したように立ち止まった。顔を上げると、その内容が告げられる。
「そういえば今日も、熊谷先生来てたんだけど」
「おう。なんかあったか」
「紗良さんに連絡先渡してた。それだけ」
「そうか」
スリッパの音を鳴らして、廊下へと去って行く悠羽。その背中を見送ってから、ようやく俺はことの重大性に気がついた。
「なにぃ!?」
進むのは、俺だけじゃないらしい。




